(1) 思い違い
【お題】地雷、荒ぶる、ヒロイン
他人の感情なんてものは、突き詰めれば解ることなどできない。解る訳がない。僕達はた
だ、大よそ「こうだろう」との想像でもって解った気になり、対処しているだけだ。いわゆ
る常識的に考えてとか、経験則とか。或いは学問的にこういう場合は○○だとかいう理屈を
借りて。
「藤倉君」
その日も事務所で仕事をしていると、彼女に名指しされた。パソコンを前に苦戦している、
僕よりも一回り以上年上の──聞き及んでいる限りでは、四十手前の女性従業員だ。「はい」
自席から立ち上がり、僕は彼女の横まで歩み寄る。
「ここの数字って、どう変えればいいのかしら? 何回やっても入れられなくて……」
「ああ……」
気持ちを身を乗り出して、画面を確認する。弄ろうとしていたセルは、システム側で保護
されていた。他のそれが連動する内容だったため、原義を作った前任者が用心の為に設定し
たのだろう。自身の理解を超えておろおろとしている彼女の代わり、こちらで四つ五つ操作
をする。
「……これで入力できる筈です。シートのコピーを作って、片方の保護設定を解除しただけ
ですが。念のため、コピーの側を使ってください。後でこちらで合わせます」
「ありがとう~、助かるわあ~」
本当に聞いているのかいないのか、彼女はこちらの台詞に若干食い込むように言った。申
し訳なさそうにいつもの──表面上は言葉通りでも、内心は都合良く済ませられたと、ニヤ
ニヤ内心ほくそ笑んでいるように僕には思える。
席に戻って、本来の仕事を再開した。
デスクトップの液晶に流れるコード群を目で追いながら、必要に応じて現行サービス用の
調整を加えてゆく。
『すまないね。毎度手間を掛けさせてしまって』
ポロン。
左側のズボンポケットに突っ込んでいたスマホがこっそり震え、RINEにメッセージが
入った。机の下で画面を確認し、ちらっとデスク越しに視線を遣ると、フロア上座席に着い
ている所長が同じくこちらにそれとないアイコンタクトを送ってきていた。眉を気持ちハの
字にして、申し訳なさそうにしている。
『所長が謝ることではないですよ。もう慣れましたし』
手早く机の下で返信をし、改めて作業へ。
こちらの言葉こそは本物だ。そうでなくとも、この人には恩こそあれど唾を吐くような真
似はできない。本人はあくまで“仲立ち役”として振る舞うが、目下直接の上司であること
には変わりない。
──僕は元々、システムエンジニアだった。
前職もこことは別のIT系企業で、日々他の同僚達と共にプログラムの山を必死で捌いて
いたのを憶えている。
だというのに……会社が潰れた。ある日突然、資金繰りが何だの倒産だのと、オフィスの
入口に張り紙だけが貼り付けてあって蛻の殻。朝、いつも通りに出勤してきた僕達は暫く愕
然と立ち尽くすしかなかった。後に説明会的なものが開かれはしたが、社長以下上層部は事
業拡大に収益が追い付かなかったと、只々謝罪の皮を被った言い訳に終始していた印象しか
残っていない。
昨日まで自分達が手掛けていた仕事は? クライアントへの連絡は?
何より事前の通知すらなく、文字通り放り出された僕は路頭に迷うことになった。急に定
職を失い、制限時間はイコール口座の中の預貯金。その間も家賃や光熱費、食費などはどう
しても発生してしまうため、実際は額面よりももっと早い筈だ。
理不尽と怒りと。今後煩わされるであろう会社への補償要求や先方への謝罪、事後処理。
進むにも戻るにも避けては通れない手続きの数々。
……それまでずっと働き詰めだった反動でもあったのだろう。倒産から程なくして、僕は
病院に搬送されていた。実際のところ、いつ何処でといった前後関係をはっきりとは憶えて
いない。ただあれもしなくちゃ、これもしなくちゃと各所を奔走していた最中のことだった
から、心身は自覚以上に限界だったのだろう。プツンと、緊張の糸がそれよりも前に切れて
いたのかもしれない。
医者からは、やはりと言うべきか心労と過労のダブルパンチだと診断された。当面は絶対
安静にしていろと指示されたが、僕は社畜だったのだろう。尚も降り掛かった面倒と、他の
仲間達を差し置いてという罪悪感からすぐには休められず、再び搬送──結局強制入院させ
られて、いよいよ状況の進捗を知る術が絶たれてしまった。かつての仲間達も、中には話を
聞き及んで見舞いに来てくれる者もいたが、心身共に一杯一杯だったのは向こうも同じ。次
第に面会は減ってゆき、連絡も取れなくなり、僕は本当にぽつんと病院に一人取り残された
かのようになってしまった。
……後々知った話だが、僕が本格的にダウンしていた間も、一部は会社側の経営責任や補
償を求めて裁判を起こしていたらしい。体力的にも気力的にも、終ぞ僕はそこに加勢するこ
とはなかったが、どうやら闘争はこちら側優勢で進んでいるそうだ。まあ、経緯からしても
当然ではあるのだろうが。
所長からのコンタクトがあったのは、そうして入院生活が二年目を迎えようとしていたあ
る日のことだった。前職時代、何度かクライアントと担当者としてやり取りし、面識のあっ
た御仁だった。人伝に倒産のこと、僕の病臥を知って見舞いに訪ねて来てくれた彼は、もし
良ければ自分の所で働かないか? と打診してくれたのだった。
曰く、彼が受け持っている事務所は社内でも比較的小規模で、システムを含めたIT周り
を専門的に見れる人材が居ないとのこと。その点、僕の技術者としての能力は前職時代での
取引でよく知っている。経緯もあるし、僕さえ良ければ自分が上に掛け合い、中途採用枠に
捻じ込んであげようと。
僕は実際、その場での回答は避けた。それは流石に彼も、目の前の本人の状態が状態だか
ら予想はしていたらしく、あくまで“提案”だと言って苦笑っていた。それでもこの先回復
すれば、落ち着けば、席を用意して待っていると。力になりたいと。
……ただ人間っていうのは不思議なもので、見通しが持てるとそれだけで生きる気力が湧
いてくるらしい。
結局それからもう約一年、倒産から二年以上が経ってしまったが、僕は医者から社会復帰
を認められる程度には回復。退院した。流石に以前のようなバリバリの働き方は難しかった
ものの、改めて彼の──所長の下を訪ねて頭を下げると決めた。こちらにとっても渡りに船
だ。何よりいちエンジニアだった僕を憶えていてくれ、心配してくれた彼の厚意を無碍にす
る訳にはいかない。
こうして僕は、彼が所長を務める地方事務所(支部)に正式採用される運びとなった。
一応形式上は、他の人々と同じく応募、選考・面接を踏まえての合格だったのだが……実
質コネ入社には違いないだろう。
それはそれ、これはこれ。一時は本当に、貯金も何もかも尽きて生きることさえ詰んでい
たかもしれなかったにも拘らず、思わぬ形で拾われて此処に居る。
「ふ、藤倉君~」
「はい」
デスクの向こうから、また彼女がヘルプを求めてきた。淡々ともう何度目かも数えすらし
ていないルーティンの一環として、僕は再び席を立って歩いてゆく。エラー表示が出て困惑
している横から、さっさと追加の操作をして状況をリセットする。
『助かるよ。馬場さんはうちの事務所の中でもベテランで、勝手も知っている人なんだが、
世代的にというか本人の相性的にあの手の技能は苦手でね』
先だって、所長がこっそり内々で追加してきたメッセージには、そう彼女・馬場さんに対
する評があった。確かに彼女はあの手の──PC周りの操作に対して苦手意識を持っている
のは明らかで、誰かのフォローが必要不可欠だった。或いは彼女の存在も含めて、僕という
人材に目を付けたのかもしれない。
ただ……正直を言うと、僕は彼女のことが苦手だった。新参者の僕に対してのベテラン、
ガッツリ年上という属性云々ではなく、そのそこはかとなく漂う“態度”に対しての違和感
というか、苛立ちのような感情が原因だったのだと思う。
学ばないのだ。
よく不得手な分野を、人は「分からない」の一言で苦笑い飛ばし、他人任せにすることが
あるが、僕はそうした態度の人間を多かれ少なかれ蔑如する。自覚し、多少なりとも改めよ
うと努力しているならまだしも、多くの場合その「分からない」はほぼ「覚える気がない」
と同義だからだ。
どれだけフォローに回り、手取り足取り教えても、彼・彼女らはすぐに忘れる。またやっ
て貰えばいいやと、心の何処かで甘えている。どんどん横柄になって、やって貰って当たり
前だという態度が衝いて出てくる。結果こちらの負担ばかりが増えてゆく一方。プライベー
トなら、とうに切り捨てているタイプだ。
「藤倉君~」
「はい」
だが仕事の一環、所長からもそれとなく頼まれている手前、彼女をあからさまに無碍にし
てしまう訳にもいかない。他の人間がフォローに回ってくれる時もあるが、彼らも彼らで僕
の入って来た経緯を多少なりとも聞き及んでいるからか、詳しく適任なのはこちらだろう?
と考えている節がある。仕事中、度々呼んできて手を止めてくる彼女と向かう僕の姿を、周
りの彼らはちらりと一瞥こそしても中々手伝ってはくれない。
「あ、藤倉さん。ここの処理なんですけど……」
時には彼・彼女ら自身、僕を頼ってくる場面がある。分からなければ訊いてみればと、デ
スクへやって来ては声を掛けてくる時がままある。
「藤倉。ちょっといいか?」
「先輩~、何かエラー吐いちゃったんですけど~?」
「いや、急いではないんだ。後でいいんだが、こういう感じのフォームって作れないか?」
当初は、そもそも技術屋の役割で雇われた身なのだからと、僕自身言い聞かせて職務を遂
行していた。二年近いブランクがあっても、前職やそれ以前から磨いてきた専門分野がまだ
腐らずに済んでいた状況を、心の何処かで喜んでいた節もある。
しかし段々、自分の中のそうした前向きな持ちようを、暗い違和感が塗り替えていった。
比重が逆転していったというか、押し返されていく感覚があったというか。
「藤倉君~」
「はい。はい」
何度も何度も、馬場さんは僕を呼んだ。時にはひょいっと、集中している最中に向こうか
ら顔を覗かせてくることもあった。
……本当に僕は役に立っているのだろうか?
疑いたくは、恩ある所長まで含めてしまいたくはないのだけれど。
結局のところ自分は、経緯と立場に付け込まれ、体よく使われてしまっているのではない
だろうか? 前職と同じように、利用されるだけ利用されて、捨てられてしまうのではなか
ろうか……?
そうこうしている内に、決定的な事件が起きた。今思えば僕の運勢というか、物事の不穏
な向きは、不思議とそうなる方向へそうなる方向へと流れていってしまいがちなのか。
「──藤倉君、好きです。私と付き合って?」
馬場さんに呼び出されたかと思えば、開口一番そんなことを言われた。事務所の入ってい
る賃貸オフィスの空き階。普段は殆ど人の通らない通路の一角で、僕はまるで想定していな
かった言葉に唖然とさせられる。
「……」
数度目を瞬き、改めて彼女を見返す。その一言の後、じっとこちらの返答を窺うように待
っていることから、どうやら冗談などではないようだ。だが元より、僕には彼女はおろか、
他の女性従業員に対してもそのような感情は持ったことなど無い。
「冗談は止してください。終業際、一体何かと思ったら……」
沸々と。僕は盛大に溜め息を吐きながら言っていた。内心はそれこそ、密かに滾るほどの
怒りすら伴って。
「僕は業務上、必要なことなので貴女に色々手を貸していただけです。所長にもそれとなく
頼まれていましたからね。大体僕よりも一回り以上年上でしょう? いい歳こいて、分別っ
てものはないんですか?」
心外だった。こっちは仕事の範疇であれやこれやと手を煩わされていただけなのに、当の
相手はそれらを自分への厚意だと受け取っていた。そして何時からかは分からないが、彼女
の中で好意へと変わっていったらしい。……そんな目で見られていたなんて、気持ち悪い。
これまでの真面目が馬鹿みたいじゃないか。
違っ──。馬場さんは狼狽え、何やら言い訳しようとしていた。まさかオッケーが出ると
でも思っていたのか?
だがそんな態度、今更異性を押し出してくることを選んだ相手に、僕の怒りは収まらなか
った。堪えろ、堪えろ……。解ってはいたが、十中八九表情には出ていただろう。不快に歪
んだ、これまでの鬱憤を晴らすかのような捲し立てでもって。
「何が違うんですか。自分で学ぶ気もなく、事ある毎に僕に押し付けて……。なのに勝手に
勘違いして、こんなことまでして。本当に……自分本位な人なんですね」
抑える目的でも、一旦深く溜め息を。どのみち相手を威圧してしまう態度だとは、頭の片
隅で理解していたものの、この時自分に採れたブレーキは精々そんなものだった。実際内心
でも言動でも、この先輩でベテランの彼女のことをいよいよ本気で唾棄し始めていても。
「ひ、酷い……。私は……私、は……」
ああああああああーッ!!
しかし次の瞬間だった。淡々と言い返し、拒絶された馬場さんが感極まって泣き喚きなが
ら走り去って行った時、僕はようやく我に返った。冷静さが急に取り戻されて、自分のやっ
たことが如何に“悪手”だったかを思い知らされる結果となったのだ。
(はあ。やれやれ──ん?)
元より断ることは確定だった。だがその為にああまで言って、相手の心を圧し折って、そ
の次に起こり得る事態とは何だ?
素直に諦めてくれる? 反省して適切な距離感に直ってくれる?
……違うだろうな。それほど長い付き合いではないが、彼女の性格からして自発的に悔い
改めるようなタイプではない。寧ろ思い描いていた返答を、実際一方的とはいえ、己に都合
の良い理想を否定されてプライドが傷付かない訳がない。
現状自分達以外、このやり取りを知らないことに託け、あること無いことを告げ口して自
分が“被害者”だと主張されたらどうする? 逆にこちらが、歳の差も弁えずに迫って怖が
らせた“加害者”だというレッテルを貼られてしまったら、それこそお終いだ。職場での空
気が悪くなるのは勿論、何より所長に要らぬ迷惑を掛けてしまう。真偽など二の次に、実害
が及んでしまえばそれだけで罪なのだから。
(拙いぞ……。今からでも追い掛けて捕まえるか……?)
大体話を切り出された時点で、次にどんな顔をして会えばいいのか分からなくなる。流石
にそこまで計算した上で、自分本位と勘違いを爆発させた訳ではないだろうけども。
(……最悪またこの職場も、辞めなきゃいけなくなるのか)
夕暮れの静かな筈にも拘らず、にわかに視界をへしゃげさせるような耳鳴りの中で。
僕はぽつんと、一人その場に取り残されていた。泣き喚き、走り去って行った彼女の姿は
もう何処にも無い。
(了)




