(5) 哀誤
【お題】息、動物、時流
軒下に犬を繋いでいるだけで、虐待だと騒がれるようになったのは何時頃だろう? 番犬
ではなく家族だと、殊更に叫び“修正”を迫る向きは、一体全体何処の誰から始まったのだ
ろう?
……猪口才な。
ずっと大昔から私達人間と犬、或いは猫などの他の動物達は、互いに支え合いながら生き
てきた。持ちつ持たれつの関係を紡いできた。それをほんの少しの“今”の物差しだけで測
り、断罪までして憚らないことの何と傲慢か。
可哀相だと言うのなら、これと言って仕事も与えられず、ただ愛玩されるだけの存在を強
いる方がずっと酷じゃあないのか? 自由が無い──結局前提にあるのが人間様を悦ばせる
こと、飼育を方便にした上限関係であって、家族だの何だのという対等とは真逆の精神であ
るように私には見える。実際「飽きた」からといって捨てる輩は後を絶たないし、他にも子
供が産まれ(過ぎ)た、面倒を見れなくなったと、命を預かる意識に乏しいケースはごまん
とある。
最近こそ、保護をメインに据えた番組が盛況だったり、飼うことの責任を強く押し出そう
する向きはあるが……そもそも一部の人間達が己の利益の為に、愛玩対象としてプッシュし
てきたことが最大の原因ではないのか? 単なる揺り戻し、自業自得のもがきだろう? と
私には映るのだ。
(──なんて気炎を吐いたところで、世間様は聞く耳なんぞ持ちやしねえが……)
寧ろあっても面倒臭いジジイだなあと、冷ややかな視線なり態度で示されるのがオチだ。
失敬な、老人呼ばわりされるにはもう少し早いぞ? 私は深くため息を吐き、現実へと戻っ
てくる。
休日の縁側は、邪魔する者もなく只々穏やかだった。厳しい暑さもようやく落ち着き、石
垣越しの道向かいからは、心地の良い風が入ってくる。
「……今日は気持ちが良いなあ、フク」
「ハフッ」
私の隣には、もう一人いや一匹の家族が寝そべっている。十数年前、うちで引き取ること
になった愛犬・フクだ。
白くてもふもふ、何よりレトリーバー並みの体躯。
最初、うちに迷い込んで来た時はガリガリの泥んこで、今にも死にそうな子犬だったとい
うのに……。プクプク肉が付くぐらいに元気になれ、との思いで付けた命名だったのだが、
予想以上に効き過ぎたか。まあ元々、そういう大型犬種の血が混じっていたというオチなの
だろうが。
うちに来てから早十余年。こいつは何時しか、私と共に縁側などでまったりとする暇人仲
間となった。もっと昔、まだ若い頃は、玄関横スペースの小屋に繋いでいたのだが……いつ
だか地区に越してきた若夫婦に「虐待だ!」と通報されてからは、中庭や家の中が定位置と
なった。通報を受けた側の駐在も、私達古くからの住民のことはよく知っていたし、何より
お互い顔見知りなので、訪ねて来た際は申し訳なさそうにしていたっけ。
「……」
最小限で応える傍らのフクを片手で撫でてやりつつ、ぼうっとする一時の続行を。
お互い、気が付けばすっかり歳を取ってしまった。その間にも、家族の有り様はがらりと
変わっていって。
子供達はこぞって、学校を卒業すると同時に街へ就職していった。こんな中途半端でしが
らみも根強い田舎より、人も金も多い都会の方が自由だし、魅力的に映るのも無理はない。
最初の内はまめに、長めの連休や盆正月などには帰って来てくれていたが、それも今では数
年おきで上々になった。基準が街になって久しく、こちらでの不便さや窮屈さに耐えられな
いのだろう。
思えば、妻とも暫くがっつりと話をした記憶が無い。歳月を経て、同じ空間になるべく居
ない方が揉めずに済むと学習してしまった側面が大きい。
今日も今日とてあいつは、パートで貯めた金で友人らとの食事や買い物を楽しんでいる筈
だ。子育ても終わり、老後が迫る余生への助走。それを“遊んでいる”と、石頭のまま下手
に詰ろうものなら、烈火の如く怒られる──怒られた。あなたは何も解っていないと。私の
自由は何処に在るんだ? と。
「……どうも男ってのは、くじ運が悪くていけねえやな」
「ワフ?」
わさわさと撫でられて喜んでいる、傍らのフクは能天気そうで、それが私にとって数少な
い救いの一つだった。
若く血気盛んな頃は、孤高をある種の誉れとして憧れもしたが、孤高と孤立は違う。気付
いた時には除け者にされ、ひいては存在そのものが疎まれる──快を不快が上回り、面倒臭
くなって捨てられるのは何もペットだけじゃあない。余った同士者の慰め合いは、さぞ外か
ら見れば見苦しく映ったのだろう。
(お前の人生は……幸せだったのかなあ?)
うとうとと、そのまま瞼が重くなってゆくフクに触れる手をより軽くしながら、さりとて
私は直接その言葉を掛けてやることができなかった。人語を返す筈もないのに、訊ねてみる
ことすらも躊躇った。何て事はない。私だって結局は、この子を愛玩対象として接してきた
面は否めないのだから。
のんびり屋の大食らい。番犬には向かないなあと早々に諦めはしたが、それでも時たま帰
って来る子供や孫達には愛されていた。勝手に他人の、犬の尺度を決め付けるべきじゃあな
いが、少なくともあの時ボロボロだったところを救えたのは幸いだったと思いたい。子供達
に動物病院へ連れてゆくよう半ば急かされ、世話も家を出て行った後は、私達夫婦へ丸投げ
になったことを除けば。
「Zzz……」
フクはとうに老犬だ。人間よりもずっと早く歳を取り、衰えてゆく。
かつて中庭を元気に走り回っていた姿はなく、今はほぼ日がな、その大柄な身体をべった
りと床や縁側の板に預け、微睡みの世界を揺蕩っている。……迎えが近いのだろう。
「……ありがとな」
ぽつっと口に出来て、そっと撫でていた手を完全に離す。静かに上下するその白くて大き
な身体は、少なくとも今はとても穏やかなように見える。幸せな思い出の中で眠っているな
らば、これ以上何を求められようか。
後何度、この季節を一緒に越えられるだろう? フクだけではなく、妻とも。遠く離れて
暮らす子供達やその子ら、彼らの孫達とも。
ずっとずっと、縁側に座っていた。傍らで相棒が静かな寝息を立て、私も少しずつ瞼が重
くなってゆく。風は熱を孕むことを止め、代わりに一抹の冷やっこさを運び始めている。こ
れが完全に「冷たい」領域にまで感じられるようになれば、冬の到来だ。近年の例に漏れず
に、その日は遠くないだろう。そうなればこうして二人で、のんびり開け放った縁側で微睡
むことも難しくなる……。
『──』
緩慢に吞まれるまま寝そべった、大きな毛の塊のような老犬と。時代や家族だった者達と
も遠ざかり、灰髪のラインがそこかしこに目立つようになった私と。
今はただ眠ろう。君の隣で、君と隣で。
余計なことは考えずに、誰かに押し付けない為に、今は綺麗さっぱりと洗い流すんだ。
(了)




