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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-152.July 2025
257/284

(2) 凪偽(なぎ)

【お題】台風、人間、歪み

 今の時代には古い価値観かもしれないが、三十年近くこの業界で積み重ねてきたキャリア

を、私は誇りに思っている。本社・支社・系列──その間に渡り歩いた環境は常に一定とは

限らなかったが、それもまた私を試し、鍛えてくれたのだろう。当時の先輩達には感謝しな

ければならない。

 なれば……私にできる恩返しとは、かつての自分がそうであったように、後に続く者達を

しっかりと教え導いてゆくことなのだろう。いつからか責任を担う立場を任されるようにな

るにつれ、私はそう日々胸に刻んで職務に臨んでいる。

 願わくば彼らにも、それぐらいの気概や意識を持ってもらいたいものなのだが……。


「三雲君。この部分の処理についてだが、根拠は何処かね?」

 オフィスの自席から、私は部下の一人を呼ぶ。現在配属され、マネジメントを任されてい

る部門において、私の次に立場のある筈の人物だ。

「ここ、ですか……。普段と特段変わらないケースの筈ですが……」

「そういうことを訊いているんじゃない。ちゃんと、事務要領を確認したのかね?」

 年齢は、私の一回りすら下回ってはいない。

 だが彼の勤務態度については、正直以前から思うところはあった。何というか、全般的に

気怠いのだ。私がこまめに目を光らせていなければ、今回のように取るべき過程をなあなあ

でスキップしてしまう。なるべく自分が楽な方に、楽な方に──およそ日々の業務をそんな

思惑でもって捻じ曲げがちな悪癖があるのが、彼だった。

「いえ……」

 私が突き返した書類を、彼は気持ちとろんとした眼差しで見つめている。元からそういう

感じの顔付きではあるのかもしれないが、やはり表情も態度も、上司である私を舐め腐って

いるように見えてならない。嗚呼、またか。面倒臭い──決して言葉にしないが、言外にそ

う愚痴って憚らないような反応をしている。

「駄目じゃないか、主席の君がそんな適当じゃあ! 何か取り零しが起きて、先方に迷惑が

掛かった時、君は責任を取れるのかね!?」

 カッと、語気が強くなった。一体何度目の説教だろう? 私がチェックしているからすぐ

怠けはバレるというのに、どうしてこう繰り返し繰り返し勝手なことをするのか……。当の

彼は、相変わらず言葉少なく気だるげなまま、私の前に突っ立っているだけだった。いや、

本当に意識して聞いているのかすら怪しい。

「……すみません。やり直します」

「ああ、そうしなさい。後できちんと根拠部分も添えるように」

 書類を受け取って、とぼとぼ自分の席へ戻ってゆく三雲君。課の他の部下達もちらちらと

彼や、私の方を見遣っていたようだが、立場ある者な以上当然の報いだ。皆にも彼の背中を

見て学んでもらえればと思う。

(……それにしても)

 PCを前に、自身が抱える案件を捌きながら、私もちらと彼のリテイクぶりを一瞥。表向

きは渋々と、それでも比較的に素直にやり直しに取り掛かったようだが……本当、何を考え

ているのやら? 法務という、厳密な処理を要求される部署において、この悪癖は看過でき

るものではない。おそらくは条文ではなく、個人の経験値に基づく解釈が意識・無意識の内

に先行しているのだろうと推測するが……何故上は彼のような人間を私の下に据えたのか?

「課長。決裁をお願いします」

「うむ」

「課長、お電話です。鹿間課長から」

「分かった。繋いでくれ」

 ただ私とて、彼一人のマネジメントだけにかまけていられる訳でもない。今日もデスク上

の業務を捌いてゆく一方で、都度部下達からの決裁書や別部署からの内線が飛んでくる。前

者は一旦サイドデスクの籠に入れさせ、後者の電話を取る。課と課の間の意思疎通、擦り合

わせを進めておくのも私達のような責任者の大事な仕事だ。

「──ええ、ええ。その件は昨日ネットワークにアップしました通り、十五日の変更という

ことになりまして──」

 黙々と。私達は日々の業務をこなす。

 一見それが何の意味を持つか想像し辛くとも、より広い視点と互いの役割を繋ぎ合わせて

見れば、どれもが組織全体として必要であることが解る。円滑な運営の為に、不可欠ないち

要素であることが解る。

 ……ただ昨今は、どうもその辺りを意義をよく呑み込めていないまま、職務に就いている

者が多いように感じる。人事も人事で今のご時世、様々なしがらみの中で配属を決めている

とは重々承知しているものの、私個人としてはレベルが下がったな、と思う。少なくとも彼

・彼女らが十二分に経験を積み、私のような立場まで登り詰めてくるには年数が掛かってし

まうからだ。うちだけに限った話ではないのだろうが、時折心配になる。

「初瀬君、ちょっといいかね? 明後日の審査会についてだが──」


 ***


 すっかり日が暮れ、辺りは完全に夜の気配となった。ネオンの明かりが所々で人々を誘蛾

灯のように誘うことを除けば、街は次第に昼間の緊迫を忘れて静かに眠りに就いてゆく……

筈である。

「──ああ、もう! あの口だけ番長め!」

「ど、どうどう。落ち着いてください、三雲さん。俺達も十分解ってますから……」

「きょ、今日も宇野課長、上席を叱ってましたからね……。正直中々慣れません」

「いや~、慣れちゃ駄目だと思うよ? シノちゃん。三雲さんみたいにワーッとなれとまで

は言わないけど、何も感じなくなっちゃえばそれこそ、あの人の良い様に使われるだけだか

らねえ……」

 そんな飲み屋街の一角。昼間直属の上司にいびられていた当人・三雲と、同じ課の仲間達

が集まって晩酌と洒落込んでいた。今日一日のあれこれを思い出して不満を吐き出す彼の、

間一マス空いた席に、年少の女性社員・篠田が気弱そうに同情している。斜め向かいで彼を

宥めているのは、同性の後輩・仁科だった。最後四人目、課内では三雲の次に立場が上であ

る女性主査の初瀬は、そう小動物っぽい後輩を若干猫可愛がりしつつ、ちびちびと生ビール

で喉を潤している。

「もうあの人は、ああいう人だって認識でいなきゃ。自分が仕事してます・できますアピー

ルの為に、他人の重箱の隅を突くのが生存戦略として染み付いてるんでしょ」

「分かってますよ……。でも、一番そのとばっちりを喰らうのが私な訳でね……」

「それはまあ、役職上仕方ないっちゃあ仕方ないんじゃないです? 後は個人的に、課長が

気に食わないタイプの人間判定食らっちゃってれば……」

 はあ~……。二科がヘラヘラ、いつものお調子者キャラで且つ的確に言語化してくるもの

だから、三雲は盛大にテーブルの前へと突っ伏していた。モダンな黒縁フレームの眼鏡越し

に、しばしばこうして愚痴に付き合ってくれる同僚の姿と頼んだ料理の小皿達が並ぶ。

 むくりと起き上がって、つまみのタコのから揚げを一口二口放り込み、炭酸割りの焼酎を

呷る。あまり何度も何度も愚痴っては、付き合わせては良くないと彼自身もよく分かってい

るつもりではいても……感情としてはどうしても呑み込み切れないものが在る。

「そうなんですよねえ。どうも異動以来、私は嫌われているようでして……。事務の効率化

やこちらでの裁量が、よほど気に入らないらしく」

「条文が頭に入ってるなら、そこまで杓子定規に一々引かなくてもとは思うんだけどねえ。

改正後とかならまだしも。サクッと済むなら済むに越した事はないじゃんね?」

「……それをどんどん認めちゃうと、自分の存在感が薄れるからじゃないです? この前だ

って消耗品の補充なんかを、上席みくもさんが気を付けとけってどやしてたじゃないですか」

「あ、あれは……。私の手が回らなくて……」

「いいのいいの。シノちゃんが悪い訳じゃない。気付いた人がやればいいじゃんねえ? そ

れを一々皆の前でどやすあの人がおかしいだけだから」

 くいくい。電車や徒歩で帰れる組──初瀬と三雲は愚痴に比例して酒やつまみが進む。片

やバイク通勤の仁科や元々飲めないタイプの篠田は、アイスコーヒーや烏龍茶でもってこの

会合に出席している。

 口の出したがり。自己顕示欲が強く、自信過剰ないわゆる面倒臭い人。

 初瀬らや、他の周囲の者達による課長・宇野へ評価は大よそそんな感じであった。かねて

より人伝で“癖がある人”だぞとは聞いていたもの、いざ昨年の人事異動によりぶち当たっ

た彼女らは、否応なくその洗礼を受けていた。間近で見つめ続け、あまり本気で付き合わな

い方がいいタイプだと判断していた。

 こうしてしばしば、居酒屋チェーンなどで集まっているのも、主に三雲のガス抜き目的で

あった。勿論初瀬や仁科、篠田各々も日々思うところはあり、性格の差はあれど自主的にス

クラムを組んでいる。元々異動前から付き合いがあり、互いに気心の知れた仲だという点も

大きい。

「……辞めよっかなあ、もう」

「え~。そうしたら次は私じゃないですか~。持ち堪えてくださいよ~」

「さらっと酷いこと言いますね。初瀬さん」

「いや実際、三雲さんが辞めたってあの人は悔い改めなんてしないと思うよ? 逆に去った

後も辛抱が足りないとか、意識が低いとかネチネチ陰口のネタに使われるのが関の山」

「……でしょうね。だからというのもありますが、辞めるに辞められないというのが正直な

ところです。彼の所為で、私の暮らしが引っ掻き回されるのが癪というか……」

「今もそうでは?」

「はははは! 篠田さんも言うなあ。でもまあ、三雲さんの言い分も解るなあ。課長だけに

限らず、上の人間と反りが合わなくてどうこうってのは、本来あっち側が先ず自覚して気を

回さなきゃならない案件でしょうしね」

「管理する責任の側、だからね。ま、その当人が周りを散々搔き乱す暴風雨なんだから世話

ないけど」

「自覚……してもらえるのが一番穏便なのでしょうが、難しいでしょうね。本人的には、寧

ろ周りが至らない者ばかりに見えている節がありますので……」

「だろうねえ。時々の上司の耳にも入って、何度か左遷とばされたけど、まるで懲りた様子がな

かったらしいッスから……。本当に暴風──歩く台風の目だ」

「……本当なんですか? その話」

「うん。同期ぐらいの人達からも聞いた話だから、大よそ事実だとは思うよ?」

「で、では、もっと上の方に相談というのは?」

「う~ん、無理無理。シノちゃんも、うちみたいな部署をやってて経験はしてきてると思う

けど、制度として在るかどうかと現場の人間の感情・理屈って別物だからね~。額面通りに

上に訴え出ても、大抵は潰されるよ~? ほら、時々あるストレスチェックとおんなじ」

「管理側の言い訳アリバイ作りね」

「そそ。何より、課長は何だかんだ、コネ作ったりするのは得意だから。上役の中でも何人

かとは、既に仲良しこよしなんじゃなかったっけ?」

 はむっ。皿の上の焼き鳥を頬張りながら、初瀬は言った。最初に問い掛けた篠田も黙して

ぱちくりと目を瞬き、両手の指先で握った烏龍茶のグラスに視線を注いでいる。ぐびぐび、

もぐもぐ。暫く四人は、思い思いに酒とつまみを腹に入れていった。残っていたアイスコー

ヒーを飲み干し、仁科がゆっくりと口を開く。

「……次の異動まで、律義に窺いを立てながらやり過ごすのが結局一番かなあ? 毎回こう

いう結論にはなっちゃうけど。でもさ? 三雲さん。ぶっちゃけ、俺達は仕事しに来ている

んであって、好き好んで“政治”をしたい訳じゃないでしょ?」

「ええ、まったく。そんなリソースがあるなら、もっと業務に回しますよ。ただでさえうち

は、ほぼ年中繁忙期みたいなものなのに……」

 くいっと若干不敵に、されど嘆くように水を向けてくる彼に、三雲も繰り返し頷き同意。

彼の相手への恨み節を漏らした。ただ、そればかり続いてもやはり──今し方皆で話してき

たように不毛なため、手や口はその間も食事というリソースに振り分け続ける。

「はは。真面目なんだか、不真面目なんだか」

「……私は至って真面目ですよ。ただ彼とは、その方向性というか、解釈が違っているとい

うだけです。ええ」

 三雲の、自分に言い聞かせるような物言い。気に入らないと言われているようなものの相

手に対しても尚、同じく気に入らないと表明し切れない辺り、彼の面倒臭さもまた垣間見る

ことができる。

「祈るしかないねえ……。嵐と一緒で、いつかは晴れるものだから」

 仁科は言う。

 問題はそれが、誰かへのこんぽんてきな擦り付けかいけつにはというなっていないところだが。そんな部分までが自然と似通ってい

るという、笑えない冗談なのだが。

                                      (了)

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