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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-151.June 2025
252/284

(2) 愚者の累乗

【お題】地雷、記憶、荒ぶる

(──あっ、四谷だ)

(四谷? ああ、確か少し前、ホシに手を上げて懲戒食らったっていう……)

 その警察署内で、彼は次第に孤立しつつあった。原因は明らかだ。だがここでこちらが折

れてしまえば、これまで自分が信じ、突き進んできたものを手ずから否定してしまうことに

なる……。

 先方への謝罪よりも、組織の体面よりも、結局のところ彼の脳裏に去来するのはそんな理

由だった。ただそれだけで、暫く耐え凌いでいたに過ぎなかった。

「部長」

 彼こと、若き刑事・四谷がフロアを通って向かったのは、自身が所属する捜査一課の上司

のデスクだった。

 短く一言。対する部長かれもその強面な顔を上げ、尚且つこの部下が何をしに来たのか早晩勘

付いていた様子で見つめ返す。

 四谷がそっと差し出してきたのは──辞表だった。

「……思ったより早かったな」

「そうさせる為の処分じゃないですか。俺も例に漏れないってだけです」

「残念だ。お前の“正義感”の強さは、私も買っていたんだがな……」

 どの口が。何処までが本音なのか。

 傍目の限りでは、部長は人材が一人去ってしまうことを惜しんでいるようだったが、彼も

内部の人間であり且つ一連の経緯を把握している以上、その言葉を額面通りに受け取るべき

ではないのだろう。

 少なくとも、当の四谷は恨み節というか、険のある応答だった。周りに居合わせていた、

同じフロアの他の刑事達も、秘して語らないがじっと聞き耳を立てている。

「……分かった。お前の意思を尊重しよう」

 大きな、思うにわざとらしい嘆息を深く吐いて、部長かれは部下からのそれを受け取りながら

言う。


 ***


 事件はとある平日の昼下がり、初夏の日差しが強く降り注ぐ街のど真ん中で起きた。

 肌に直接突き刺さる光と、アスファルトに反射して炙られる熱。行き交う他人びとに混じ

りながら、一ノ瀬は五年上の先輩である不二と共に営業に回っていた。

 ノルマは先ず足で稼げ──いわゆる体育会系な気質の強い先輩にそう尻を叩かれつつ、彼

は不慣れな業務と今日も必死に闘っていた。季節はこれから容赦なくなってゆく一方な青空

の下、肉体的にも精神的にも削り取られてゆく心地がする。

「お~い、どうした~? きびきび歩け~? 着く前からそんな面してちゃあ、取れる契約

も取れねえぞ?」

「……」

 何年も営業畑で働いてきた不二にとっては、これくらいの暑さはまだ耐えられる程度のも

のらしい。足元をぐらつかせながら、数歩遅れてついてくる後輩いちのせを、彼は時折振り向きなが

らそう発破を掛けつつ指導していた。

 事務方よりも、前線で売り上げに直結する人材を育てよう──社の方針として、此度の異

動期に発せられた号令ゆえの光景である。

(そんなこと、言われても……)

 尤も当の一ノ瀬は、今回の異動内容に納得してはいなかった。これまで携わってきた業務

は、基本的に事務方・裏方。自他共に認める“もやし”タイプな自分にこんな仕事など、ど

う考えても合わない。

 ……ただでさえ、自分は“普通”の人間のようにはなれないというのに。

『ざっけんな! てめぇは、俺の言った通りのこと一つもできねえのかよ!? その耳は飾

りかあ? ああ!?』

 ちょうど、そんな時だった。横断歩道を過ぎ、通りの一つを抜けようとした二人の行く手

に、数人のいかつい男達が誰かを取り囲むようにして騒いでいた。

 激しい語気、罵声。彼らに寄って集って詰められていたのは、一人の対照的に細く小柄な

青年。明らかに一対多数の威圧に晒され、萎縮してしまっている。

『ごっ、ごめんな──』

『謝って済むなら、警察は要らねえんだよッ!!』

『どうしてくれるんだ!? てめぇが全部弁償できるってのかよ? ああ!?』

「……」

 事情はよく判らない。だが少なくとも一ノ瀬は、双方ともに面識は無い筈だった。自分の

ように、何か仕事で大きなミスをした帰りなのかもしれないし、偏見みため通り因縁を付けられて

いるのかもしれない。

「~~♪」

 だというのに、一方の不二はそんな彼らの少し側方を変わらず通り抜け、あたかも気付い

てすらいないかのようだった。

 にも拘らず、ふとこちらに振り向き、軽く手を振って「お~い、こっちこっち!」と呼び

掛けてくるものだから、必然彼らの注意もとい視線もこちら側に──暴力的なまでに理不尽

な複数の眼差しと、これに晒されて怯えている、助けを請うような眼差しとが一転して注が

れる。突き刺さる。

「──ッ! ~、~、~ッ!!」

 故に一ノ瀬は次の瞬間、文字通り真っ青になって倒れた。彼らの視線の束に、みるみる内

に顔を青白くして震え出し、その場で膝から崩れ落ちるようにして動けなくなってしまった

のだった。「一ノ瀬!?」件の一団と並び、その一部始終を見て驚かされたのは、他でもな

い不二だった。

 にわかにざわめき出す現場。想定外の反応に寧ろ困惑している罵声側おとこ達。

 すっかり正気を失い、尋常ではない様子で蹲ってしまったこの後輩へと、不二は大慌てで

駆け寄り戻ると介抱する。軽く何度か背中を叩き、名を呼び掛け、このアクシンデントを解

消しようとする。


 幸い、暫くその場で安静にさせている内に、一ノ瀬の症状は何とか収まりを見せた。何よ

り目の前で起きたこの事態に、件の男達と青年が逃げるように立ち去って行ったのが大きか

ったのだろう。

 ようやく歩けるようになった彼に肩を貸しながら、不二は近場の喫茶店に入っていた。本

来の予定にはなかったが、一旦この後輩を休ませ、落ち着かせる他ない。外の喧騒とはまた

別種の雑音──軽食や憩いの一時を過ごす客達や、店内のシックなBGMの中、すっかり落

ち着きながらも落ち込んでしまった一ノ瀬が申し訳なさそうに言う。

「……すみません。あんな所で迷惑を掛けてしまって」

「いいんだいいんだ、気にすんな。他人ならともかく、仕事中の同僚がああなりゃあ、流石

に何もしねえ訳にはいかねえだろ」

 店員らにも断って、一先ずは水や軽くアイスコーヒー辺りで注文を濁しつつ、互いが仕切

られたテーブル席の一つでそう謝罪と謙遜の応酬。尤も、当の不二自身はさほどこれが重要

な問題だとは捉えていなかったようだが。

「しっかし何でまた、道のど真ん中で?」

「ええ……」

 一ノ瀬が、少し迷った様子で口籠りながらも語る。

「じ、実は小中高と、ずっと苛めに遭っていまして……。それで未だに、誰かに大声で怒鳴

られたり罵られたりしているのを見聞きしてしまうと、昔を思い出してパニックを起こして

しまって……」

「ほぉん? なるほどねえ……。それで……」

 有り体に言えば、トラウマ。出来ることなら思い出したくもない記憶だが、彼にとっては

大人になった今でも拭い去れない後遺症である。

 しかし一方で、対する不二はさほど驚いた様子はなかった。話としてはまま聞くようなも

のであるからなのか、それとも──。

「でも苛めそれって、今は違うんだろ?」

「えっ」

「なら忘れろ、忘れろ! そんなモン、ウジウジ引き摺ってるだけ損だろうが。お前も俺も

生きてるのは今だぞ? 今回別に、お前が詰められた訳でもあるまいし……」

 さ~て……どうすっかなあ? 流石に予定のルートは、考え直さないといけねえが……。

 短く、驚くように挿し込まれた当の一ノ瀬本人の言葉も意に介さず、この先輩ふじはそう次の

瞬間にはぶつくさと目下の思案を始めていた。唖然と置いてけぼりにされた格好のまま、一

ノ瀬は暫しこの向かいに座る人物の姿を眺める。

「……」

 そんなモン? そんなモン?

 彼は目の前にいる、この男の反応が信じられなかった──いや、不用意に話してしまった

のがいけなかったのだ。見るからに体育会系で、繊細さとは対極の在り様で生き抜いてきた

彼に、自分の抱いてきた思いが、心の傷が通じる筈もない。

 そんなもの。そんなもの。

 次第に沸々と、一ノ瀬の胸中は失望から怒りへと変わっていった。ガッツリ発症してしま

った所を目撃されたみられたとはいえ、打ち明けるべきではなかった。そんな判断ミスをした自分を

含め、この男が許せない。

 忘れろ? 損だ?

 そんなことは解ってる。解っていても、もがいても、ずっと拭えなかったから苦しんでい

るんだろうが。“俺の半生”を棄て去るのと同じぐらい、辛いものなんだぞ。

「──だ?」

「あ?」

「そんなモンだ? そんなモンだと……? ふざけるなッ!! 俺の人生ことなんて何も知らな

い癖に!!」

 それから繰り広げられた出来事は、十中八九激しい衝動に突き動かされたものであったと

言っていいだろう。ぶつぶつ。にわかにか細く呟き始めた一ノ瀬に、はたと気付いた不二が

聞き返すと、直後彼は手元にあったグラスを握り締め、猛然とこちらへと襲い掛かったのだ

った。殆どグラスごと殴り、顔の左半分でかち割るように。全くの不意打ちであるその一撃

を、不二は避けることができなかった。砕けて飛び散る破片が突き刺さり、或いは悶絶の声

と共に体勢を崩して後ろに倒れ込む。

「あ゛ッ……?! ガッ……!?」

「お前が、お前がッ、お前がァァァァーッ!! お前らみたいな奴らがいるから、いつまで

経っても俺は──俺みたいな人間は救われないんだよッ!! 痛みも何も知らないまま、大

人になりやがって! 跋扈しやがって! 誰が望んでこんなこと、こんなことッ!!」

 ちょうどテーブル席が、プラスチック製の仕切り板を挟んで狭まった空間となっていたこ

とが災いした。突如として凶暴化し、殴りかかってきた一ノ瀬こうはいに、不二は抵抗らしい抵抗も

できなかった。椅子と背面の壁との間に囚われるようにして、そのままテーブルを乗り越え

て前進してきた彼と接触。思うように身体を捩じらせることも叶わない体勢のまま、半ば馬

乗りのようになって一方的に殴られ続ける。

「きゃ……きゃぁぁぁぁーッ!!」

「お、おい! 誰かそいつを止めろ!」

「何だ? 何だ? 喧嘩かあ?」

「警察、警察……。いや、先ずは救急車か?」

「何してんだよ! 止めろ! 止め──止めろォォォーッ!!」

 そこからはもう、どうしようもなく大騒ぎとなっていった。近場を通り掛かったウェイト

レスが思わず金切り声を上げて逃げ出し、波紋を打ったように他のテーブルの客達が異変に

気付いてざわめき出す。

 中には実際に飛び出して二人の様子を確認し、対処しようとする者達もいた。通報先に迷

い、或いはとにかくこの暴行を止めるべく、力ずくで割り込もうとする。尚も不二を殴り続

けようとする一ノ瀬の目は、完全に正気を失っていた。人が変わったように血走っていた。

自身も殴り潰したグラスの破片、不二の顔を繰り返し打ち続けた衝撃で拳がべっとりと赤く

染まり、顔面や胸元にもその跳ね返った色がこびり付いている。

「フゥッ、フゥッ、フゥゥゥゥゥ……ッ!!」

 言わずもがな、先輩に学びながらの営業実践は叶わなくなった。暫くして客や店側の通報

で駆けつけた警察官らに取り押さえられ、この一ノ瀬はんにんは連行される。


 ***


「──それで、ついカッとなって手を出してしまった、と」

「はい……」

 現場付近を管轄する警察署内、その取調室。

 流石にプロの一団には抵抗も叶わず、無力化されてようやく大人しくなった一ノ瀬は、し

んと静まり返った小さな部屋で力なく罪を認めていた。事務用テーブルを挟んで座る歳若い

刑事・四谷と、この取り調べの一部始終をノートPCで記録しているもう一人にじっと見つ

められ、先刻までの凶暴っぷりが嘘のように縮こまっている。

「……」

 ポリポリ。こめかみ辺りを軽く掻きながら、四谷は内心どうしたものかと思案していた。

現場の状況、上がってきた報告からも、この男の犯行は衝動的。何でも昔のトラウマが原因

で、パニック症状に襲われて休憩していた最中の出来事だったとか。

(認否ははっきりしている。このままさっさと切り上げちまえば、不幸な行き違いって形で

司法の手続きに入るんだろうが……)

 ただ正直、彼は一ノ瀬このおとこを簡単に放ってしまって良いのか? と迷っていたのだった。半ば

直感的、刑事としてのこれまでの経験則からでしかないが……。この男はきっと、この先も

似たような目に遭う。似たような爆発を繰り返す。

「一命は取り留めたとはいえ、奴さん、かなり重症だそうだ。グラスの破片が刺さりまくっ

て、左目はほぼ失明確定。顔面も傷だらけ血だらけ。変な体勢のまま押し付けられてたモン

だから、身体のあちこちも痛んでるんだとよ」

「……」

「なあ、あんた。今日あんたがここに連れて来られたのは、あんたが“加害者”だからだ。

昔のトラウマを蔑ろにされて憤った、被害者だからじゃあない」

 はたと、テーブル越しに向かい合っていた相手、一ノ瀬が若干怪訝そうな表情を浮かべて

顔を上げる。正直そんな態度すらも、四谷にとっては気に食わなかった。

 ──嗚呼そうさ。こいつは今も、本当の意味で自分が悪いとは思っちゃあいない。何なら

自分の過去よりどころを哂った奴さんに、目に物見せてやった“正義の側”だという感覚さえ抱いてい

るだろう。

 はたしてそんな四谷の内心を、当の本人が理解していたかどうかは分からない。ただあく

まで唖然と、不安そうにこちらを見返しているその姿に、彼は次第に苛立ちが募ってきてい

たことを自覚し切れていなかったのかもしれない。認否も素直、衝動的で故意ではなく、直

後も一見すれば反省している……。おそらくは弁護側もその辺りを踏まえ、仮に起訴まで進

めば減刑を主張してくるだろう。

 実際に“今”取り返しのつかないような被害を被ったのは、不二やっこさん側だというのに。

「あんたにも確かに、辛い過去があったんだろう。だがそれと今回、あんたがやらかしたこ

ととは別だ。傷害罪、立件次第では殺人未遂──しっかりと罪を償って貰う」

 それより個人的には、その性根をどうにかすべきだとは思うがな……。

 結論から言えば、この時彼がそうぽつりと付け加えてしまったことが、新たなる被害と彼

の歯車を大きく狂わせる切欠となってしまったのである。

「? どういう意味です?」

「どうもこうも……。さっきも言ったろう? あんたの顔、あくまで“被害者”面に俺には

見えるんだよ。過去のあれこれと、今回奴さんを半殺しにしたのは別。それをあんたは混同

して犯行に及んだ。そこん所を解ってなきゃあ、いずれ似たようなことをやりかねないって

いう忠告おせっかいだよ」

「……あんたもか。あんたも俺の、俺のこれまでが馬鹿みたいだって言いたいのかッ!!」

 ガタン! 椅子と腰紐で繋がれているにも拘らず、刹那一ノ瀬がまたしても烈火の如く豹

変し、四谷に向かって叫び始めた。重石をものともせずに立ち上がり、迫ろうとするその勢

いに目を見開き、彼も眉間に皺を寄せて応戦の構えを取る。記録を取っていたもう一人の刑

事も、キーを叩く手を止めて立ち上がろうとした。

「四谷さん」

「大丈夫だ。……ほら見ろ、これがコイツの本性なんだろう。辛い過去がどうのと言ってお

きながら、結局はそこにしか自分の拠り所がねえ。捩れに捩れた、プライドの塊だ。化けの

皮が剥がれりゃあ──その実反省してないとバレれば、裁判での心証も変わる」

 アァァァァァァッ!! それすらも自らに対する罵倒だと捉えたのだろう。容疑者・一ノ

瀬は、捕らわれのまま再び暴れ出し、四谷ともう一人の刑事に襲い掛かった。ガタガタと、

決して広くはない室内に椅子を引き摺り、或いは並べられた机や機材を蹴飛ばしてでも近付

こうとする暴力の音がする。四谷達が応じて左右に回り、これを改めて取り押さえに掛かっ

た。騒ぎを聞きつけ、他の刑事達も廊下の向こう側から加勢しに現れる。

「ぐあっ!? は、離せ! 離せぇぇぇーッ!!」

「大人しくしろ!」

「ったく……。俺達刑事デカを欺こうなんていい度胸だ。やっぱこの手の屑は救いようがねえな」

 組み伏せ、改めて無効化し、四谷達はすんでの所でこの現行犯な男を止める事ができた。

相手の両膝裏に体重を掛け、彼はそう鬱々とぼやく。


 そんな彼が、一ノ瀬に付いた弁護士とその取り巻きに、違法な取り調べがあったとメディ

アを通して訴えられることになるのは──もう少し先の話。

                                      (了)

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