(4) 最愛を●す方法
【お題】糸、主従、運命
この世界で一番、恋をしてはいけない種類の人間とは誰だろう?
性格に難のある人間? 浮気癖やら子供を愛せない人間? 確かに、そういう内面が理由
となる場合が殆どなんだろうが……今はそういう話じゃなくて。
お貴族様。中でも女性。そう、そんな感じ。
往々にして、名家のご令嬢という出自は、本人の自由意志による恋愛をそもそも認めない
と聞く。彼女達は基本的に、家にとって政略結婚の道具と見做されているからだ。
様々な習い事や社交の場などの礼儀作法、美貌を保つためのケア。それらは翻れば全て、
より高い地位にある男を魅了し、娶ってもらう為──言うなれば先行投資のような扱いであ
ってきた。普段何不自由ない暮らしを謳歌できるのも、そうした期待と背中合わせだから。
今をこれからも、今以上をその先に。一族毎に規模なり事情が違って温度差こそあっても、
一般的にお貴族様というのは、そういった不安定さの上で常に笑みを浮かべるように強いら
れている人間達なんだと思う。
ただ……問い掛けの回答としては未だ不十分だ。もっと、そういったしがらみに雁字搦め
にされている人間というのがいる。
王族? そう。貴族階級の中でも、その最上位に序する存在。一国という範囲内ではこれ
以上の人間はいないだろう。勿論、そこから更に国と国、俗っぽく言うと“格”による序列
なり何なりがあったりもするが……今はそこまで話す気はない。
彼女らもまた、国家という出自に囚われざるを得ない女性だ。より露骨に、より自由意志
など無く政略結婚を強いられ、寧ろそれが普通だとさえ言われる。その中で、縁談相手と良
好な関係を築ければまだマシな方なのだろうが……殆どは稀有な部類だ。圧倒的大多数の人
間が、その上辺の笑みしか視えず視えない以上、本当に彼女らが幸福なのかどうかなど判る
筈もない。きっと、推し量ることさえおこがましいのだろう。
……。
それでもまだ、回答が許されているならば。自分を出しても良いならば。
更にもっと、厳密な正解がある。願わくば、彼女らのそれと対等な苦悩であって欲しいと
さえ思う。
この世で一番、恋をしてはいけない種類の人間。
それは、そんなやんごとなき方に“お仕えしている側”の人間だ──。
***
目を離した隙にまた何処かへと行ってしまった主を捜し、クロードは離宮の中を歩いてい
た。まだ歳若く、黒い執事服に身を包んだまま眉を顰める横顔。カツンカツンと反響する靴
音が、宮内の広さを物語っている。
(まったく、油断も隙もない方だ……。今日もこれから、公務が詰まっているというのに)
はたして当の本人は、離宮の中庭にいた。渡り廊下からふと視線を向けると、色とりどり
の花や植木に混じって樹の一つに登り、何やら枝先に手を伸ばそうとしている。
「姫様!」
クロードはその姿を瞳に映して、殆ど反射的に飛び出していた。状況の理解よりも、身体
が動く方が早い。日頃主のお転婆ぶりに振り回される内に鍛えられた賜物だ。
聞き親しんだ彼の呼び声に、彼女──アグナス王国第三王女・レリカはきょとんとして振
り向いた。ぱあっと、童心のような笑みを見せてこちらに手を振ってくる。
「あ、クロード! ちょうど良かった。この子を降ろすから、受け止めて~♪」
「は? はい? 危険です、姫様! そこでじっとしていて──」
およそ庭を駆け回るような想定ではない、淡い白色のワンピース姿と後ろで軽く結んだ金
髪。慌てて件の樹に近寄ってみるに、どうやら枝先に登って降りられなくなった猫を助けよ
うとしていたようだ。彼女はこれを幸いと、こちらの心配も知らずに救助のアシストを頼ん
でくる。
もうちょっとだからね……? レリカはゆっくりゆっくり、枝先で震え固まっている子猫
に擦り寄り、捕まえようとする。もう少し、もう少し。ようやくその手に届く距離になって
安堵した次の瞬間、案の定枝先が彼女達を乗せたまま折れた。
「っ──!」
「きゃっ……?!」
正直、間一髪だった。いや、あんな危ない体勢で更に脆い方へ移動しようとしていたのだ
から、当然の結末か。
クロードはすんでの所でレリカと、ついでに子猫を両腕を広げてキャッチ。落下してくる
衝撃を踏ん張った全身のバネで受け止めて、ほぼ無言のままにたっぷり十数秒耐え抜く。
「ひ、姫様……。ご無事ですか?」
「うん、うん。助かったよ~、ありがとう~♪ この子も、無事みたいだし」
「ンナァ?」
「……それは何よりです」
格好としてはいわゆるお姫様抱っこ。その体勢のまま、屈託なく笑う──ひいては自分よ
りも、おそらく何処ぞから迷い込んだであろう名も知らぬ子猫を気に掛ける姿に、クロード
は嘆息こそ漏らせど面と向かって彼女を叱ることが出来なかった。主従という互いの関係上
の問題もあるが、結局のところ我が主とはこういう女性だと知っているのだから。
ともあれ、このまま抱き抱えておく訳にもいかない。
彼はスッと、彼女とこれに気付けばくっ付いていた子猫を降ろすと、コホンとわざとらし
く咳払いを一つ。「姫様」改めて注意をしようと、一旦喉の奥で言葉を選び──。
「おい、今何か大きな音がしなかったか!?」
「侵入者か!?」
「おーい、そこのお前! 一体何が……って、何だ。クロードと姫様か」
「何だ、心配して損した」
「何だとは何ですか。私はともかく、姫様に失礼でしょう?」
「そうそう」
「……姫様は、もっとご自分の身をお大事になさってください。子猫を見つけたのならば、
私にでも言ってくだされば降ろしましたのに」
「はぁ~い」
騒ぎに気付き、中庭を巡回していた離宮の兵や老齢の庭師などが顔を覗かせに来た。お互
い見知った同士の職場の同僚──つい軽口を向けられるが、当のクロードは終始至って真面
目で、尚且つちょうど傍らに居た主への失言になりかねないと注意をする。
(まったく……)
正直あまり反省していなさそうなレリカと、キャリアから言えばずっと後輩且つ余所者の
自分に言われてばつが悪そうに──面白く思ってはいないであろう警備の兵達。
ただこれでも、現状自分は大分この環境に馴染めた方だろうとクロードは思う。一番最初
の頃に比べれば、彼らの態度はすっかり柔らかくなったものだ。こうして当然に居るものと
した上で、軽口を叩き合えるぐらいの、生温かく見守られるぐらいの関係性だと思えば。
「さあ、行きましょう。姫様。公務の予定が迫っています」
「いや……それよりも先に、お召し物をどうにかしないと……」
クロードは元々、この国の人間ではない。隣国サマエルで起きた内紛で故郷を焼かれ、他
の仲間達と命辛々逃げ延びてきた、いち村人に過ぎなかった。
『──』
本来、自分達には何ら火の無い筈の理不尽。
傷付き、一人また一人と山中を抜ける逃避行の中で仲間達が力尽きてゆく中、彼はとうと
う独りになってしまった。怪我と疲労、そして空腹から満足に動けない。ここが何処かも判
らず、期せずしてようやく生活道らしき一角に出れたかと思ったのが最後、彼は正直死を覚
悟していた。どだい殆ど外の世界を知らなかった少年には、過ぎた冒険だったのだ。
『──し、もし? 誰か、この者の手当てを! 傷もそうですが、酷く衰弱しています!』
だが、そんなところを偶然通り掛かったのが、当時国境付近の村々を視察で訪れていた第
三王女・レリカの一行だった。彼女は身元の知れぬ──もしかしたら行き倒れを装った刺客
かもしれないと警戒する面々を余所に、自ら彼の下へ駆け寄ると、すぐさま介抱すべく指示
を飛ばした。一行はちょうど、一連の日程を終えて王都へと戻る途中だった。
『良かった、目が覚めたのね。貴方、お名前は? どうしてあんな場所で、ボロボロに?』
『……』
だから最初、クロードは自分が助かったこと以上に、そんな自分をわざわざ助けてくれた
この人物を内心疑いの眼ですら見ていた。
一体、意識を手放してどれぐらい経ったのか? 目が覚めた後寝かされていたのは、明ら
かに上等な仕立てと広々とした寝室。目の前に護衛と思しき兵やメイド、執事らと共にちょ
こんと座って話し掛けてくるのは、花のように優しく明るく微笑む一人のお貴族様。
随分と迷ったが、クロードは話した。故郷が内乱とやらの巻き添えを食ったこと。一緒に
逃げてきた村の仲間達は、皆途中で力尽きてしまったこと。自分だけが生き残ってしまって
本当に申し訳ない……無念と罪の意識で思わず声を荒げてしまったこと。
『いいえ。貴方だけでも生き残ったことが、彼らにとっても救いとなった筈です。そうでな
ければ悲し過ぎます。だからどうか、そのように自分を責めないで……』
所詮は世の中を知らない小娘の戯言、理想論。だが同じくまだ少年だったクロードにとっ
ては、まさに願ってもいなかった救いの手だった。護衛の兵やメイド、執事。周囲の面々が
明らかにこちらの存在を快く思ってはいない中で、彼女は更に続ける。
『ねえねえ、ローレンス、ライラ』
『行き場が無いというのなら、私達で彼を雇ってあげることはできないかしら?』
いくら何でも善意が過ぎる──当初クロード自身も、己が他国人であることも含めて困惑
し遠慮したが、他でもない彼女ことレリカ王女の意向もあって、彼は紆余曲折を経て正式に
アグナス王国に保護される運びとなった。縁も伝手もない。その上でこれから先生き抜いて
ゆく為には、実際他に選択肢などなかった。辺境育ちのいち平民。貴族社会の眼鏡に叶わな
ければ、どのみち早々に叩き出される筈……。
『執事長のローレンスです。レリカ様より命を受け、今日から貴方を執事見習いとして迎え
ます。みっちりと指導致しますので、ご覚悟のほどを』
『……ライラ。レリカ様付きのメイドよ。精々、あの方のご厚意に泥を塗ることのないよう
にね? もしそんなことになれば、容赦なく追い出すから』
『は、はい……』
本来なら、当初既存の従者達が描いていたであろうように、ある程度のところまで頑張っ
た上で落第判定を受けて放逐。そのぐらいの関わりで良かった筈だ。王女以外は基本的に、
何処の馬の骨とも知れぬ少年を離宮に迎え入れることに賛成はしていなかった。ただ主の手
前、直接そうした意を伝えなかっただけだ。それでも……クロードは努力を続けた。ただの
幸運だったからと諦めなかった。
理由は他でもない、レリカの為だった。彼女が王女という己の身分を越えてでも、分け隔
てなく目の前の自分を救ってくれたこと。その恩に報いず、中途半端に消え去ってしまうこ
とを彼は次第に恐れるようなった。諦めてしまえば、その温かさを自分の手で葬り去ってし
まうような気がして。
それから数年。クロードはすっかり、第三王女付き従者達の一員として認められるように
なった。煩雑で多岐に渡る仕事も死に物狂いで覚え、次第にローレンスやライラ、その他離
宮内の関係者達とも同僚して力を合わせられるようになった。
……尤も最近では、専らお転婆なレリカ王女のフォロー役をおっ被せられている感が否め
ないのだが。
「ご機嫌麗しゅう、レリカ殿下。本日はお日柄も良く……」
「ごきげんよう、ミルティシア。そうねえ、これぐらいの季節が一番穏やかで過ごし易いも
のね」
社交の場、言い換えれば貴族同士の駆け引きの戦場。
この日もクロード達は、公務で王宮本棟に集まった貴族や有力商家の出席達と歓談する、
ドレス姿のレリカを遠巻きから見守っていた。万が一のことがあれば、すぐに割って入って
でもお守りする為である。
「──」
会場となるホールの壁に背を付けて、なるべく“空気”と同じであるように。
ただクロードは内心、ライラ以下メイド達などに交じりつつ、そんな公の場での主の横顔
に少し見惚れていたと言ってもいい。普段はあれだけお転婆──隙あらば庭や離宮内を駆け
回っているような活発な性格が、衣装や化粧、或いは責任感だけでこうも変わってしまえる
のだから。王侯貴族にとっては必須の技能という奴なのだろうか? 彼女に仕え、実際に公
の場へのお披露目をされてからもう何度目ともなるが、その見事な変貌ぶりには驚きを禁じ
得ない。
「……ぼうっとしないでください。常に周囲を警戒、観察を」
「は、はい。承知しています」
そんな半開きになりかけた口を見られたのか、隣に立ち直したライラがそうぼそっと注意
を促してくる。クロードはピッと背筋が伸びる思いに駆られ、煩悶の類を払拭。あくまで煌
びやかな眼前の光景は、主らだけのもの──自分達は裏方だと改めて言い聞かせて気配を殺
す。催しが平穏無事に終わることだけを祈る。
「……」
じっと見られている。クロードは正直、先程からずっと背中からチクチク針を刺されてい
るような錯覚を味わわされていた。比較的小柄、レリカ王女と背格好の近い彼女直属のメイ
ドたるライラに、彼は未だ苦手意識があった。雇われ当初、散々しごかれたからというのも
大きな理由だが……何と言うか彼女は終始、自分を主につく“悪い虫”と見做している節が
見受けられるのだ。
(まあ、傍から見ればほぼ事実だろうしなあ……。俺、他国人だし。平民だし)
それでも、彼女だって最初に比べればずっと接し易くはなった。少なくともローレンスと
両輪でしごかれてきた日々を耐え抜いたことで、同僚としての信用は相応に得たのではない
かとクロードは思っている。いつもいつも、彼女が王女に付きっきりとはいかない場面があ
る以上、その合間を埋める誰かが必要ではある。ローレンスも執事長という立場上、中々そ
こまで柔軟にはいかない。そういう意味で、確かに自分は“ちょうど良い”駒ではあるのだ
ろうが……。
(俺が担えるところと、ライラさんが担えるところ。それぞれが上手く回るように、こっち
はこっちで全力でお仕えするのみだ。うん)
「──ふあ~……、疲れたぁ~……」
「お疲れさまでした。姫様」
自分が担える部分と、担えない部分。
その典型的な例が、主の着替えなど異性相手では不適切分野だ。基本公務の前後に係る着
替え、言わばオンとオフの切り替えは、お付きのメイドであるライラの専売特許となってい
る。社交会が終わり、離宮に戻って普段着に替え終わったレリカは、そうすっかりふにゃふ
にゃになった様子でライラを伴って出てくる。
「皆さんとお話をするのは大事って、解ってはいるんだけど……やっぱりああいうのは性に
合わないなあ。ウォルターのお爺ちゃんと一緒に草むしりしてる方が楽しいよう」
「……一国の王女が、庭師の仕事を取らないでやってください。まあ確かに、私も時々手伝
ったりはしていますが」
「でしょ~? そういう役目だってことは知ってるけど、時々私達の為に色んな人が大変な
思いをしているんだなあって思うと。ね……」
ふぅと大きく息を吐き、大部屋のソファにどっかり座り込むレリカ。それまですぐ後ろを
付いて来ていたライラはいつの間にか壁際に控え直し、他の従者らも多くは語らずに持ち場
と領分を維持する気配が少なくない。
一方で、気付けば今やクロードのそれは“主の話し相手”へと偏重しつつある。
(お優しい方だ。だが、それだけではない……)
具体的に言うなら、それはタイムリミット。出会ったあの日から、うら若き乙女へと成長
を遂げた彼女には、さほど遠くない将来に縁談が待っている。政略結婚──国内の有力貴族
か、はたまた同盟・非同盟を問わず他国へか。クロード自身はあまりその手の情報に関知し
てはいなかったが、既にその手の申し込みや話し合いは方々から始まっているという。
(姫様のご兄弟は全部で四人。兄君たる第一王子・第二王子はいずれこの国を継ぐ人物とな
られるだろうが、姫君らはそうとは限らない)
国王の長子でもある第一王女は、自分がこの国に来るより何年も前に同盟国の王太子の下
へ嫁いだと聞いているし、もう一人の下の姉たるローズ第二王女も、先日国内の有力貴族と
の婚約が発表された。順当にいけば、次は第三王女たる我が主となる。
「……」
実際のところ、どうなのだろうか? クロードは内心不安ではあった。モヤッと、形容に
困る感触に眉根を密かに寄せながらも、こんな裏表の激しい彼女を欲しがる貴族男性はいる
だろうか? と。
確かに、いざ公務となればスイッチを切り替えるように、我が主はきちんとその責をこな
してみせるのだろう。これまでも、おそらくはこれからも。身内贔屓を差っ引いても、寧ろ
それが彼女の魅力と捉えることも出来なくもないが……さて実際に彼女を娶ろう、娶った夫
となる人物は、そのギャップをどう見る? 誰にでも余所行きの顔と素顔ぐらいあるものだ
と気にしない可能性もあるが、同じぐらい押し付けた“理想”と違っていると幻滅してくる
可能性もある。少なくとも、一般的なお貴族様とは毛色の違う性格であることは間違いない
だろう。
その所為で万が一破綻したら? その責が何処にあるのかと問われたら?
……自分なのではないか? 何だかんだと、彼女の日常のお転婆っぷりをやんわりとしか
諫められてこなかった、自分の甘さも一因ではなかったのだろうか……?
「姫様。お飲み物を」
「う~ん、ありがとう~」
「姫様。次のご予定についてですが……」
「あ~、うん……。ユルド伯爵の謁見だっけ?」
「は。主に陛下とのではありますが、本日王宮におられる王子・王女らは可能な限り同席す
るよう、指示を仰せつかっております」
「また難しい話かなあ」
「隣国サマエルの、暫定政府に関する報告かと。彼は北部国境を任されておりますので」
「そっかあ」
「……」
サマエル。かつて内戦で追われたその故郷の名をライラが口にし、他の従者の何人かがち
らりとこちらを見遣っていた。他意はない、気付かれないように……。そうした気の回し方
が既にバレバレなのだが、クロードも最早目立って何か言うでもない。反論・言及するほど
の価値もない。
故国の内乱は、風の噂で結局元鞘に収まったらしい。ただ一度分裂してしまった権力バラ
ンスまでは修復し切れず、当時の王権は排されて新しい派閥が実権を握ったとか。今も昔も
自分だけではどうしようもない他人事ではあったが、正直クロードは歯痒かった。申し訳な
く思っていた。
国がある以上、権力争いは人の常。
だがそれが原因で、彼女の──我が主のきっと有限な平穏を脅かすことは罷り成らぬ。
それでも暫くは、クロード達にとって平和な日々が続いた。それは彼らが仕える主が、政
治の中枢である第一・第二王子ではなく、離宮という物理的にも隔てられた第三王女である
からだという側面もある。
日々は、適度に詰め込まれる公務とその合間の一時を繰り返しながら過ぎていった。その
度に季節は刻まれ、流れ、元新米執事クロードにとっての思い出は堆積してゆく。
「──私が、剣をですか? 姫様に?」
「ええ。いざと言う時、少しでも自分の身を守れるに越した事はないと思って」
「それは、姫様が心を砕くところではありませんよ。我々の仕事です。これまでもこれから
も、私達がこの身を賭して姫様をお守り致しますので……」
「分かってるよ~。でも私も、ちょっとは動けた方がクロード達もやり易くない?」
思えばあの時既に、彼女は自分達に忍び寄る不穏材料を聞き及んでいたのかもしれなかっ
た。自分も剣を習いたい──急にそんなことを言い出したかと思えば、存外こちらからの言
葉にも食らい付いて中々諦めようとしなかったのだから。
「……それならば、騎士団も方々にお願いなされれば? 本職ですよ?」
「それは~……。したんだけどねえ。団長さんも団員さん達も、皆遠慮しちゃって」
「ああ。そ、それは、そうでしょうね……」
クロードは思わず片手で顔を隠すようにし、少し苦笑する。確かに騎士が、本来守る対象
である筈の姫君本人に剣の手ほどきをするというのも妙な話だ。何より万が一、訓練中に怪
我や事故でも起きてしまえば、文字通り己の首が飛びかねない。
「だから、ね? 時々でいいから。クロードも彼らに教わってはいるんでしょう?」
「はい。職務上、必要になる可能性はゼロではありませんので……。ただ正直、私も姫様に
教えられるほど実力があるとは言えませんよ?」
「いいからいいから。ほら、他人に教えようとすると、自分の中でも整理がついて理解が進
むって言うし……」
「……そこまで仰るなら。ただ私の独断では出来かねますので、ローレンスさんやライラさ
んにも相談してからで宜しいでしょうか?」
「うん、いいよ~。というか、もう二人にも話はしてあるから」
「……そうでしたか」
日々は過ぎてゆく。ある時から折につけ、木剣を手に主を従者が教えるという不思議空間
も誕生しながら。
「危ないッ!!」
もっと早くに、気付いておくべきだった。しかし往々にして、この手の後悔を抱くような
頃には、事態は時既に遅しである場合が殆どである。
離宮の庭先で、付け焼刃の木剣の型を学び合っているようでは足りなかった。本物のすぐ
目の前に迫る危機、剥き出しで襲ってくる悪意に、頭の中だけの世界はどれだけちっぽけで
無力なことか。
その年の、夏の終わりの夕暮れだった。公務で王都を離れていたレリカとクロード達は、
帰路で通り雨に見舞われていた。仕方なく馬車を停め、近場の大きな木々の下で雨宿りをし
ていた矢先……奴らは現れた。まるで今日この日和を待っていたかのように、奥の草むらか
ら突如として次々に飛び出してきたかと思うと、真っ直ぐにこちら側の中心──王女レリカ
を狙ってその刃を突き立てようとしてきたのだ。
「ぐっ──!」
「ッ!? クロード!」
「くそっ、タレぇぇぇぇーッ!!」
殆ど条件反射のようだった。敵の向かってくる射線とその先の主。クロードは逸早く控え
ていた位置から駆け出し、これに割って入ると、彼女目掛けて繰り出されていたこの刺客達
の刃を文字通り全身で受け止める。鈍い音とくぐもった声、レリカ達の悲鳴や泥濘で一歩遅
れた騎士らの渾身の一撃がこの敵を引き離さんと放たれる。
「ぐぎゃっ!?」
自分達の得物が、想定外の“肉壁”に突き刺さって抜けなかった。その隙を縫うように放
たれた騎士の斬撃が、刺客達を瞬く間に倒し切る。
暫くの間、現場は怒号が飛び交う戦場だった。だがそれ以上に、当の狙われたレリカやク
ロードをよく知る従者達は、たった今目の前で犠牲になった彼に引き寄せられていた。釘付
けになり、慌てて駆け寄り、ぐったりとその場に倒れ込もうとした彼を他ならぬ王女自身が
受け止める。
「クロード! 大丈夫、クロード!? しっかりして!」
「ひい、ふう……五ヶ所も。おい、待て。一気に抜くな。最悪出血の勢いでそのまま死んで
しまうかもしれん」
「何てこと……。どうして、貴方が……?」
「……はは、変なこと言いますね。姫様をお守りするのが、私達の役目じゃないですか」
「いい、喋るな。余計に消耗するぞ。誰か、手当てを!」
嫌ァ! 嫌ァ! レリカの泣き声がこだまする。息を切らして合流してくるライラからの
問い掛けに、クロードは朦朧・脱力としながらもそう苦笑っていた。ローレンスを始めとし
た年長の従者や一部騎士らが、救命措置を講じようとしている。
「私が無事でも、貴方が死んじゃったら意味ないわ。貴方がいなかったら、私は……」
「……肩入れし過ぎですよ、姫様。わたし、は、そもそも余所者だったんです。最初にこう
いうので消えるのは、自分でいい」
「馬鹿を言うな。お前は俺達の仲間だろうが! カッコつける前に、気を強く持て!」
じわじわと、服の上から血が滲む。ローレンスの機転ですぐ凶器を抜かなかったことで急
激な血の逆噴射は防げたが、それはそれとして体内をズタズタにされたことは変わらない。
気心の知れた同僚などが呼び掛けるが、クロードは静かに自分の状況を見つめていた。瞳に
泣き出している主を映しつつ、苦笑っていた。
「わた──俺は、もう駄目です。こんな形でお別れになってしまって、申し訳ない」
「っ、そんなこと……!!」
「良いんですよ。本当ならあの日、俺は野垂れ死んでいる筈でした。それを救ってくれたの
は、他でもない姫様です。貴女はずっと、俺の命の恩人でした。だから報いたかったし、支
えたかった。でもそれも……これも……」
『……』
少しずつ剥がれてきた、彼のメッキ。
レリカを始め、従者達一行はそこで薄々気付き始めたのだろう。これは“遺言”だと。最
期を覚悟した彼が、命尽きる前にずっと秘めていたものを全て吐き出そうと決心した兆しな
のだと。
「ずっと──お慕いしておりました。レリカ様。いえ、リリア様とお呼びした方が宜しいの
でしょうか」
「!?」
故に、その告白は当の彼女にとって衝撃的なものとなった。
だが真の理由は、彼が秘めていた好意“だけ”ではない。寧ろ彼女自身、彼のことを憎か
らず思っていた側なのだ。なのに、その言葉に酷く動揺して見えたのは、他でもない続く自
身の本名が彼の口から出たから。ずっと隠し続けていた筈の正体を知っていたから。
「……どうして」
「影武者、なのでしょう? 王国第三王女の。貴女ではなく、ライラさん──本当の第三王
女をこういった事態から守る為に、貴女はずっと表向きの第三王女を演じ続けていた」
ニッと、口元から零れる血にも構わずクロードは言う。名指しされて、それまで一同の中
に交じっていたお付きメイド、ライラが頭のシニヨンを解いた。はらりとその本来の姿で重
力に従ったそれは──淡い金の長髪。レリカと同じ、色と長さ。
「貴女にお仕えし始めて、暫く経った頃です。俺は国王陛下に呼び出されて、詳しい事情を
一通り打ち明けられました。ライラさんが本当の第三王女であること。そして貴女が、彼女
の腹違いの妹君──第四王女であること」
「……」
アグナス王曰く、事の発端はまだライラが幼く国内にもお披露目が済んでいなかった頃、
何者かによって彼女が危うく殺されかけた事件に始まる。
幸い犯行はすんでのところで食い止められ、暗殺事件そのものも王や宰相主導で揉み消さ
れたものの、ライラ当人は長らく癒えない心の傷が残った。人前に出ることを極度に恐れ、
後の離宮となる当時の住まいから出られなくなってしまったのである。
『なら……私が姉様の代わりになる! 私達なら似てるもの! 絶対に大丈夫!』
そこでぶち上がったのが、同じく第四王女であるレリカこと当時のリリアを表向き第三王
女として公表、扱うこと。再びの暗殺を警戒する父王達にとっては“影武者”になることに
加え、姉ライラに少しでも心の傷を癒す時間を──負担を軽減する余地を作りたいという妹
リリアからの一念発起した申し出だった。
「第四王女であられても、貴女は庶子だとお聞きしました。既にお母上も亡く、元より皇位
継承権も無いのだから問題ないだろうと、陛下に直訴されたと。背格好が似ている、似せる
ことで、貴方がた二人はやがて“交代制”で第三王女を演じることになった。普段の姫様は
貴女が、公務の時の姫様はライラさんが。少なくとも、それが出来るぐらい、俺がこの国に
来た頃には回復しておられたんですよね?」
「……姉様」
「ごめんね、リリア。騙すつもりは無かったのだけど。でも、貴女を主と信じて必死に頑張
ってくれていた彼を見ている内に、私達も事情を話さない訳にはいかなくなって」
お付きのメイドもといライラ王女、ローレンス以下他の従者達も一様に神妙に、申し訳な
いといった苦渋の表情を浮かべながら押し黙る。最初はどうせ長続きしない“余所者”だと
ばかり思っていたクロードが、彼女達の中で真の同胞となった時、秘密は共有されていた。
例外は、当の影武者であったレリカもといリリア自身。
「確かに、最初に聞かされた時は驚きましたが……俺のやるべきことは変わりません。あの
日、ボロボロになった俺を救ってくれたのは、紛れもなく貴女なんですから」
薄れてゆく意識の中、クロードは語る。ニッと努めて微笑う。
自分は貴女の執事、貴女の盾。もし、いつかライラ様の影武者として貴女が“身代わり”
になるような瞬間が訪れれば、その時は自分が貴方を守ろう。そんな結末など、定めなど、
この命に替えても捻じ曲げてやる……。
「……結構、演技できてたでしょう? 貴女に負けないぐらい。背負わせないぐらい……」
「っ、クロード!?」
願わくば、せめて貴女には残りの人生を幸せに生きて欲しい。
己の名を連呼する主の泣き声。皆が見守る中、遂に限界が訪れ瞼の重さに負けた彼は、そ
んな最後の願いまでは口にし切れずに意識を手放して──。
『駄目よ。せっかく貴方達の縁を繋げであげたっていうのに』
「ッ……?!」
だというのに。嗚呼、何てことだ。
刹那クロードの意識に割り込んできたのは、自身にはまるで見覚えのない誰かの影と、嘆
息じみた仰々しい一言。
一体、どれだけの時間が経ったのだろう? 気付いた時には、彼の身体は未だ現世に繋ぎ
止められていた。全身に包帯が巻かれた半裸で、明らかに見覚えがある──離宮内のベッド
の一つに寝かされていたのだと解った。
「クロー、ド……?」
「み……皆さん! ク、クロードさんが! クロードさんが目を覚ましました~!!」
最初、視界に大きく映っていたのはリリアと、彼女に付き従っていたクロード自身もよく
知る同僚の後輩メイド。
もしかしてずっと傍で看病し続けていたのか、待っていたのか。影武者のメッキなどとう
に剥がれ落ちて、その両目元には散々に泣き腫らした痕が見える。ハッと目を見開いて硬直
している彼女とは対照的に、同じく部屋に残っていたこのメイドが弾かれるように大慌てで
駆け出してゆく。叫びながら外へ報せに行く。
「無事ですか、クロード!?」
「目を覚ましたって……。もう何日経ったと思って──」
程なくしてローレンスやメイド姿のライラを始め、離宮の同僚達や顔見知りの兵士、終い
には王宮本棟から側近を連れたアグナス王まで駆けつけ、室内はにわかに騒然とした空気へ
と変貌していた。心配してくれるのは嬉しいが……。当のクロードは正直、皆の反応の大き
さに寧ろ引いてしまっていた。申し訳ないという気持ちが先に立ってしまった。
「クロード、良かった……。クロード……本当に、良がっだっ……!!」
わんわんと、自分の手を取ったまま盛大に嬉し泣くリリア。病み上がりで碌に抵抗できな
いというのも勿論あるが、一時は己の命に替えても守ろうとした主がここまで感情を露わに
しているのを目の当たりにし、クロード自身己の過ちと罪悪感に打ちのめされていた面が大
きい。
口々に心配や、安堵の言葉を投げ掛けてくる皆の口振りから察するに、どうやら自分は随
分長い間眠っていたらしい。医師らの懸命な治療によって辛うじて一命は取り留めたが、肝
心の意識が中々戻らずに日ばかりが暮れ──そんな矢先の目覚めなのだから、皆が驚き歓喜
するのも無理はないのかもしれない。
「ありがとう、クロード。そしてすまなかった。お前がいなければ、娘は今頃命を落として
いただろう」
「い、いいえ! とんでもない! 有り難きお言葉……! どうか、どうか頭を上げてくだ
さい! お、私はただ、自分の務めを果たしたまでで……」
そんな、ある意味皆がテンションのおかしい状況であったものだから、遂には異例中の異
例ながらも見舞いに来てくれたアグナス王が、あろうことか直接の臣下ですらないクロード
に対して頭を下げたのだった。当然クロードは青褪め、慌てて半身起こしの体勢ながらこれ
を固辞したが、当の王自身はまだそれでも冷めやらないらしく。
「やはり、身代わりなど無理があったのか……。ライラもリリアも、余にとっては等しく大
事な娘。これを機に、二人の存在を正式に発表し──」
「な、なりませんぞ! 陛下!」
「今更他の貴族家や民に公表したところで、混乱は必至です!」
やいのやいの。一足飛びにそこまでは流石に拙いと、連れて来ていた側近が慌ててこれを
制止し、説得を試み始める。王の感じた責任やこれまでの後ろめたさは解る。それでも、こ
れまでずっと姫君は第三王女までと公表していた手前、何の根回しも無しに真実が伝えられ
れば、国内外から謀られたと激怒する勢力が出てもおかしくない──最悪もっと激しい紛争
にまで発展しかねない。
「どうどう、どう!」
「お、お父様! 私は大丈夫だから……。姉様だってびっくりしちゃうから……」
「……」
何だか気付けば、自分を余所に変な盛り上がりを見せてしまっている面々。クロードはベ
ッドの上で半身を起こしたまま、唖然とそんな事の成り行きを見つめていた。ぼうっと覚醒
からの安堵、脱力。何日も眠っていたせいか、色んな感情が一挙に自分の中でのたうち回っ
ているような錯覚がある。
「──リリアに感謝しなさい? あの子が王宮医務官達まで引っ張って来て、貴方の治療を
させたのよ。そうでなければ、あんな大怪我から助かるなんて奇跡以外の何物でもないわ」
「っ!? ライラさ……様。そうだったんですね。本当、ご迷惑をお掛けしました」
「ええ。まったくよ。これに懲りたら、自分勝手に突っ走るのは止めなさいな。貴方が思う
ほど、貴方一人の命はもう、貴方だけのものじゃないってこと」
「……はい」
ちょうど、そんな最中だった。いつの間にか側方、斜め後ろに控えていたライラが、そう
皆に聞こえないように音量を絞った声でこちらに話し掛ける。
王女と判明しても尚、カモフラージュのメイド服姿。一部の関係者以外は未だに両姉妹の
真実を知らないままなのだから、当然と言えば当然だが。クロードは一見、冷たく言い放つ
ような彼女なりの気遣いに、そうだと面と向かって指摘しないながらも胸の奥がほんのり温
かくなるのを感じていた。本当に申し訳なかったと思った。
「……それで? 何で全部話しちゃったのよ?」
「あ。ええっと、それはあ……。いや、あの時は本当に、このまま自分は死ぬんだって思っ
てましたから。そうなった時、最期にせめてリリア様には、と……」
「それでばっちり生還してるんだから様はないわね。これからどうする気よ? リリアは勿
論、お父様だってあんなになっちゃって」
「め、面目ないです。まさか自分も、助かると思わなくって……」
あはは。例の如く淡々とヒソヒソ声のまま、改めて痛いところを突っ込んでくるライラ。
クロードはぐうの音も出ずに畏まり、只々頬をぽりぽりと掻くことしかできなかった。
事実、王宮医務官達をリリアが引っ張って来なければ、あのまま帰らぬ人になっていた可
能性は高い。それでも奇跡的に助かったのは、あの不思議な声が聞こえたから──思い出し
て喉奥に迫り上がってはきたものの、結局彼は口にはしなかった。もしかしなくてもただの
妄想かもしれないし、おそらく正直に話したところで信じては貰えないだろうから。
「まあ、あの子の喜びように免じて、今回だけは許してあげる。そもそも、大元を辿れば私
に勇気が足りなかった所為でもあるしね」
「ライラ様……」
父王らと語らう妹の姿を気持ち遠巻きに見つめて、ぽつり彼女は呟いていた。
尤も対するクロードは、その一言よりも直後、彼女もまた密かに罪の意識に苛まれ続けて
いたのだと知り──。
「……でも、今度また妹を泣かすような真似をしたら……許さないんだから」
「えっ?」
ありがと──。
しかしそんな続く一言は、更にか細く小さく紡いだ一言は、刹那にわかに大きくなった場
の面々の声量に押し退けられて聞こえなかった。クロードは思わず振り向き、彼女の横顔を
見遣る。感情豊かな妹姫と、ずっと押し殺してきた姉姫。対照的に見えて、根っこの部分で
同じ二人は、やはり間違いなく姉妹であるのだった。
(了)




