(5) シロとクロ
【お題】猫、箱、真
思えば事の全ては、あの日妹が一匹の捨て猫を拾ってきたことに始まった。
夏の匂いが濃くなり始めたその日の夕立。一足先に家へ帰って来ていた俺が玄関先で出迎
えたのは、小さめの段ボールを抱えてずぶ濡れになった五つ下の妹、真白だった。
「おう。おかえり~……って、どうしたんだよ!? その格好!?」
「……この子を見つけちゃって、つい。お兄ちゃん、お風呂のお湯沸かしてくれる?」
帰宅してから暫くし、急に雨音が激しくなってきたなと思いきや、まさか妹が大惨事状態
で帰って来るとは。
その理由は、一見してすぐに察することができた。両手で小さめの段ボールを抱えていた
からだ。一応道中傘を差しはしたようだが、体勢上それは、小脇に挟んでの不安定なもの。
真白自身もそうだが、降られた夕立のせいで段ボールとその中に入れられていたそもそもの
原因──黒い小さな猫も、ぐっしょりと濡れて弱っている。
「捨て猫か?」
「うん。大鹿通りの向かいの空き地に……。それよりも早くっ」
「はいはい、分かったよ……。とりあえず沸くまで、タオルとかで拭いとけ。お前もな?」
「えっ? あっ……。うん」
正直を言えば、さっさと戻して来いと言ってやりたかった。外が現在進行形で土砂降りで
なかったなら、もう少し強い言葉でこのお節介を咎めていたことだろう。
ただ実際、こうして薄汚れた段ボールごと持ち帰られてしまったら、弱々しく震えている
子猫を見てしまったら……罪悪感の方が勝った。踵を返して立ち話を止め、脱衣所の方にス
トックしてあるタオルを何枚か引っ張り出して放り投げてやる。真白は一瞬驚いた様子を見
せたが、すぐにくしくしと、子猫と自分の髪を拭き始めた。やはり必死になり過ぎて、己の
ずぶ濡れにまで気が回っていなかったらしい。
(……しっかし、猫の保護なんてやったことねえしなあ。とりあえず洗ってやって、温かく
してやって。後は多分、何日も飲み食いしてないだろうから、飯の用意も……)
壁に備え付けられているタッチパネルで、給湯をオン。肩越しに妹とその膝に乗せられて
撫でられている黒い子猫を一瞥し、ぐるぐると頭の中にやることリストを並べる。
ここ何年か、テレビ番組でよく犬猫の保護企画みたいなのが増えてくる度『いや、そいつ
らに出してる大金を、直接団体とかに寄付すれば良くねえか? 基本素人な奴らをわざわざ
出張らせる必要が何処にある? 結局は広告なんだろ。あんなモン、偽善だ』と常々面白く
はなかったが……よもやこんな形で参考になる日が来るとは。まあ疑問点やら迷った箇所が
出れば、スマホで検索しつつ凌げばいい。
「……お父さんとお母さん、何時ぐらいに帰って来るかなあ?」
「いつも通りでいけば、母さんの方が先だろうな。つーか、顔色窺うぐらいなら連れ帰らな
きゃ良かったろうに」
「だ、だって! この子、一人ぼっちでさっきの段ボールの中に放り込まれてたんだよ?
雨ざらしになって、日も暮れてきて。放っておいたら絶対に死んじゃってた。ううん、今だ
ってこんなに……」
湯が沸くまでの辛抱。真白が、冷えて弱ったこの子猫を守るように掌で包みながら、静か
に怒り混じりの感情を吐き出す。
「何処の誰かは知らんが、捨てる気で置いていった奴に罪悪感もクソもねえだろ」
そんな妹につられてだとは思う。正直俺も、この子猫を捨てるという行動を決めた元飼い
主に対しては、ぶっちゃけ良い印象を持っていなかった。筈もなかったというか。
──命を捨てる。
つまり自分では育てられない、責任を持つことができないからと、善意の誰かに丸投げす
る形でそいつは視界から消すことを選んだ。行政に相談するでもなく、新たな引き取り手を
探すでもなく。その癖子猫が放り込まれていた段ボールには、野晒しの内に汚れてしまって
はいたものの、一枚のブランケットが敷いてあった。つまり最悪、野垂れ死ぬであろうこと
は解っていた訳だ。
ならばせめて? 阿呆が。だったら始めから捨てるんじゃねえ。
要するにこの男か女かは、只々“自己満足”の為にこれを敷いたに過ぎない。この子は捨
てるけれど、頑張って生きて……? 糞が。筋違いの優しさ擬きで、善人ぶってるだけじゃ
ねえか。見殺しにすることに蓋をしようって向きは、何ら変わらねえじゃねえか。
「……」
真白は黙り込んでいた。ナァ~ン? と、この小さい黒猫が膝の上からこいつを見上げよ
うとしている。捨てる方も大概だが、ホイホイと拾ってくる方も拾ってくる方だぞ? 次に
音を上げて段ボールに逆戻りにするのは、もしかしたら俺達かもしれないんだから。
まあ、この春中学に上がったばかりのお前に、そんなことをぶちまけるのも酷だがよ。
「よし……沸いたな」
「ほら、真白。そいつ連れて来い。何はともあれ、綺麗にしてやらないと」
結局例の黒猫は、うちで飼うことになった。賃貸住宅じゃなく、小さいながらも戸建て住
みなのも幸いしたという感じだろうか。何より妹が──加えてあの日先に帰ってきた母さん
が、すっかり情が移ってしまったことが大きい。
「ほ~ら、ほら~、クロ助~♪」
「ああ~……可愛いなあ。もう~♪」
猫じゃらしを右に左に振らせて、黒い子猫もといクロ助と遊んでいる真白と母さん。ちな
みに名付け親は真白である。まあ安直でも、分かり易いならいいや。
(……すっかりこいつも、うちに馴染んじまったなあ)
元々犬猫を飼っていた訳ではないので、当然ながら専用の飯なんかは置いていなかった。
なので真白とクロ助を洗ってやった後、母さんにRINEし、状況の説明と帰りにキャット
フードを買って来てくれと頼んだ。初日はともかく、ずっと温めた牛乳だけじゃあ腹も膨れ
ないだろうし。
で、結局譲渡云々ではなくうちで飼いたいと真白が言い出すのも、何となく予想は付いて
いた。一番の関門は母さんの許可だったのだが、見ての通り初対面の段階からすっかりメロ
メロにされたので問題なし。一方で父さんは……まあ、何だかんだで娘にはゲロ甘なので大
丈夫だろうというのが俺の予想で、実際そうなった。せめて、俺達が物心つく前にこの家を
買ってくれたことぐらいは感謝しておかないとな。
「真司~。お風呂空いたよ~」
「ん。サンキュ、すぐ入る」
ヘラヘラと、いつもの苦笑いを貼り付けたまま、風呂から戻ってきた父さんが声を掛けて
きた。父さんも父さんで、食後クロ助を文字通り猫可愛がりするのが日課になったしまった
二人には思うところがあるのか、ちらっとその様子を遠巻きに見つめている。リビングの片
隅に増えたケージやら猫ハウス、爪研ぎの棒に玩具各種。クロ助を飼い始めて以来、多分財
布の中身が爆速で減らされているのだと思う。
(真白も父さんも母さんも、あいつのことをただの猫だと思ってるが……。俺は見たんだ。
はっきりと分かんないが、クロ助は普通の猫じゃねえ……)
遡るのは、あいつを保護した当日・初日。
俺は真白と風呂場に貯めたお湯を使い、ずぶ濡れと衰弱でぐったりしていたあいつを洗っ
てやっていた。こっちは──半分以上は妹のお節介からだが──親切でやってやっていると
いうのに、慣れなさもあって暴れること暴れること。
『あ、おい! じたばたすんなって!』
『お兄ちゃんが乱暴過ぎるんだよお。もっと優し~く、ソフトに洗ってあげて?』
泡立てた石鹸で埋め尽くすぐらいの勢いで、ゴシゴシさすさす。
結構な頻度で小さな身体を捩り、抵抗するクロ助もとい当時はただの捨て猫に、俺は悪戦
苦闘していた。それを真白はあーだこーだと注文を付けながら、フォローするように洗って
ゆく。思えばこういう扱いの差が、今の懐き具合に影響したのかもしれない。
『ナァン……』
弱っていても気持ち良いところは良いのか、時々鳴き声を漏らすようになったクロ助。
真白の方も、そういう反応が嬉しかったのか、段々コツを掴んできたのもあって洗うペー
スが上がってゆく。暫く二人で念入りのその汚れやら何やらを取ってやっていた最中、真白
がふと思い出したように言った。
『そういえば……。ねえ、この子の名前、どうしよっか?』
『あ? 何だよお前、飼う気なのか? さっきも言ったろ。俺達だけで決めていいモンじゃ
ねえだろうに』
『それは……そうだけどお。で、でももし、引き取ってくれる人が出なければ、ねっ?』
『はいはい。だが説得やら何やらは、お前がやれよ?』
繰り返すが、何となくそんな予感はしていた。自分が連れてきた責任感という奴もあった
のだろうが、何というか……既にこいつに魅せられている。そんな漠然とした印象を持って
いたからだ。
『わ、分かった。が、頑張ろうね? クロ助?』
『もう名前決めてんのかよ……。つーか、オスでいいの? こいつ?』
『うん。最初抱っこした時にちらっと確認したし……』
黒猫だからクロ助か。安直だなあと思いながら、俺はこの妹が連れ込んできた黒猫の子供
を持ち上げる。いわゆる“高い高い”のポーズ。ぶらんと下がった後ろ足から、頭・股間の
方へ視線を遣って──。
(えっ?)
ちょうどその時だった。俺は確かに目撃したんだ。
お兄ちゃん? 真白が横で呼んでいるのは聞こえていた。でもその時はもう、自分の目に
映った光景に気が動転していた。見間違いかと思った。
『……』
黒い体毛の腹に、顔のとは別の“眼”が一つ、そっと開いてこちらを見ていた。目の錯覚
じゃねえ。明らかに普通の猫には無い筈の、異質な器官(?)が、じっと音もなく俺の方を
見つめていたんだ……。
(だからなのか、どうもあいつは俺にだけそれとなく本性を見せてる気がするんだよなあ。
真白達には基本的に、ただの可愛がられる元捨て猫って振る舞いを徹底しているようにも見
えるし……)
父さんと入れ違う格好で、部屋から着替えを持って降りてきて改めてリビングを見遣る。
真白と母さんは、相変わらずクロ助と遊んでいるし、クロ助も二人からの寵愛を目一杯受け
ているようにも見える。まるでそれが今後の生存にとっても、大きなプラスになると解った
上でやっているかのようで……。
「お~い、真白。先入るぞ? お前もいい加減やることやっとけよ?」
「うん、分かってる~。入っといでよ~」
念の為、先に入りたいのかどうか訊いておいて、且つそれとなくクロ助べったりの状況か
ら離してやれはしないかと考えた。だが案の定というか、今夜もこっちのそんな思惑は叶い
そうにはなかった。今日も目一杯遊んでやり、構ってやり、ホクホクしてから自分の部屋に
戻るのだろう。母さんも母さんで、溺愛っぷりが大概だが。
『……』
やっぱりだ。二人の注意がこっちに逸れた瞬間、気持ち良さそうに瞑っていた目を、カッ
と見開いて俺を見てくる。
あの日以来、クロ助の俺に対する態度はいつもこうだ。隙あらば、じっとその子猫とは思
えない目力で俺を観察している。何を考えているのか全く分からない。こっちが見つめ返し
て意図を探ろうとすればするほど、どんどんドツボに嵌まってゆくような気がする。頭がお
かしくなっちまう。
「ささ。じゃあクロちゃ~ん、そろそろ寝んねしましょうね~?」
「──」
やがて母さんがそう言ってクロ助を抱きかかえ、ケージの方へと運んで行った。真白も一
しきり遊び終えて、大きく深呼吸をしてから場を離れ始める。俺も、その一部始終をそれと
なく観ていたが……やはり二人の視線が自身に向いた瞬間、目力モードは速攻で解除されて
いた。ゴロゴロと甘えるような鳴き声を出し、人間の役者もびっくりな愛玩猫を演じてみせ
ている。
(……まあ、実害が出てる訳じゃないからいいか。風呂入って来よ……)
少なくとも、俺が黙っていればいいだけではあるし。正直に話したところで真白も母さん
も信じてくれそうにはないし。
何より、こいつがうちの一員にになってから、皆の笑顔が増えた。
「──ねえねえ、知ってます?」
「ええ。五丁目の多田さんでしょう? 心臓発作だったとか」
「そうなの? 私が聞いたのは、旦那さんの無理心中って話で──」
日常は特に大きな問題もなく進んでゆく。時々小耳に挟む程度で、遠い何処かの街だった
り近場だったり、他の誰かが災難に見舞われるといったニュースも存在はするが、基本自分
に直接関わるようなことは概ね平穏だ。寧ろ変わり映えがない分、多少退屈に感じる瞬間だ
ってある。
「……」
いや、解っていても気付かないふりをしなくちゃいけないってだけだ。何も俺だけに限っ
た話じゃあない。朝起きて、学校に行って、帰って来て。せめて今の状態が壊されないよう
うに、少しでも先延ばしにできるように、トラブルの類へ下手に首を突っ込まない。自分が
そうする義務はないし、義理もない。そういう仕事をしている人間が先ず、本来はどうにか
するべきなんだ。外野があーだこーだとどれだけ言おうと、全部憶測の域を出ない。その癖
そういった“公然の秘密”は、徐々に肝心の当事者周りをギスギス蝕んでゆく。百害ばかり
あって一利なしだ。
真白は中学で新しく友達もでき、入ったテニス部で元気に活躍している。その上で家に帰
って来たら来たらで、そわそわと待ってくれていたクロ助を目一杯可愛がる。母さんもまあ
似たようなモンだ。すっかり我が家の一員もとい、癒し装置みたいな存在になっている。一
方で俺と父さんは、そんな二人を少し距離を置きつつ眺めているような格好。ちょいちょい
苦笑いを浮かべている父さんの横顔は、若干娘を取られてしょんぼりしているそれに見えて
正直不憫ではあるが。……まあ、ペットを飼おうが飼うまいが、いずれ邪険にされるっての
が父親という生き物の宿命なんだろう。ドンマイ。
(五丁目ねえ……。クロ助が捨てられてたっていう、大鹿通りとは目と鼻の先だな)
まさか、ね? ふとそんな思考が、井戸端会議をしている小母さん達のやり取りを小耳に
挟んで過ぎったが、元飼い主だったかどうかなんて分からない。真白が保護してすぐ、うち
で飼いたいと言い出したため、探し出そう云々という動きがほぼストップしたためだ。寧ろ
当初の衰弱状態を何とかすべく、急いで開いている動物病院を調べて駆け込んだぐらいだっ
たというのに。
……気のせいだと言えば気のせいかもしれない。だが冷静に、ここ暫くの家族周りの出来
事を考えてみると、あまりに俺達にとって有利な状況が続き過ぎている。しかもその裏では
しばしば、俺達を不利にしようとしたらしい相手側が、揃いも揃って何かしらの不幸や災難
に見舞われているときた。
「やあ、神戸君」
「あ、お巡りさん……。どうも」
この日も帰宅の少し前、近所をパトロールしている巡査と出くわした。先日起きたとある
事件を切欠に、今ではすっかり顔見知りになってしまったベテランさんだ。
「どうだい? あれから不審者などは現れていないかい?」
「ええ。お陰様で。あれだけしっぺ返しがあったら、コソ泥どもも好き好んでうちに侵入し
ようとはしないでしょう」
そのとある事件とは──空き巣だった。俺や真白、父さん母さんが昼間家に居ないのを狙
って、何処ぞの窃盗グループが忍び込もうとしたらしい。
だが……結果は連中にとって散々、最悪。最初に家に帰って来た俺が目の当たりにしたの
は、そこかしこで悶絶して倒れている、見知らぬ外国人やら柄の悪そうな兄ちゃん達の姿だ
った。倒れた時なのか、金目の物を探していた時なのか、多少家の中は荒らされた跡こそあ
ったが、後で父さん達が確認する限り盗られた物は無かったとのこと。そのまま犯人達は、
通報してあった警察の到着で全員で現行犯逮捕され、今は留置所にぶち込まれている。本人
達も、一体何が起こったのかははっきりと憶えていないらしかった。
『わ、分からねえ』
『急に頭の中がワーッと真っ黒に塗り潰されて……。気が付いたらもう……』
『“眼”だ。“眼”だ。きっとあいつが、あいつが俺達を殺そうと……。う、うわああああ
ああーッ!!』
正直、うちに忍び込もうとした輩の供述なんざ、聞きたいとも思わなかった。事実として
空き巣をやろうとしていた、でもほぼ未遂のまま捕まった。それで俺としては充分だった。
『実を言うと、私達も判断しかねているんだが。どうも連中は、何か自分がおかしくなるよ
うなものを見てしまったらしくてな』
『……』
俺は結局、刑事さん達にも話すことはできなかった。家族の中で唯一俺だけが、その聞く
限り不可解極まりないことができる奴に心当たりがあったからだ。
事件当時、出払っていた俺達以外にずっと家の中にいた人物。いや、人間ですらなくただ
の黒猫でもないうちのペット──クロ助しかいない。消去法でそうとしか考えられない。
おそらくあいつは……例の目力を使ったんだ。よくは分からないが、自分の棲み処を荒ら
そうとしていた連中の侵入に気付き、精神攻撃的な何かで意識を吹き飛ばしたんだろう。流
石に物理的なあれこれで、相手を排除するのは色々拙いという認識はあったのか。
「はは、そうかもね。ただまあ、時間が経てばそうとも限らない。十分気を付けてくれよ?
戸締りや防犯対策はしっかりな?」
「はい。ありがとうございます。うちの者にも言っておきます」
ぺこりと頭を下げ、俺はその場を去った。親切に微笑み、こちらが見えなくなるまでこの
巡査は手を振ってくれていたが、正直そんな厚意すらも俺には申し訳ない──心苦しい。取
りようによっては、クロ助が一方的に犯人達をボコボコにしたと言っても差し支えないから
だ。にも拘わらず、当事者である筈の真白も母さんも父さんも、一通り警察の説明を受けて
以降は、何らこの異常さを疑うことなく日常に戻っている。
まるでそれらも含めて、クロ助が何かしたみたいに。
「……ただいま~」
そうしてこの日も、最初に帰宅したのは自分のようだった。家の中はしんと静まり返って
おり、鍵を開けてリビングまで進んできた俺は、気持ち遠慮気味な声を発しながらぐるり辺
りを見回す。
ゲージの中に、クロ助の姿は無かった。猫ハウスの中やら棚の上にも居なかったので、ま
た何処かをうろうろしているのだろう。別のそれ自体は今に始まった事じゃないし、猫とい
うのは大体自由気ままな生き物である。
「っ、は~……」
パパッと手洗い・うがいを済ませ、二階の自室へと上がる。俺は制服の上着を椅子に引っ
掛けると、転がるようにベットの上へと飛び込んだ。半身寝返りを打って仰向けに。片腕を
目隠しにしながら、思わず盛大に溜息が出る。俺は真白のように部活に熱心ではなく、そも
そもずっと帰宅部アンドぼちぼち受験期だし、かと言って父さん母さんみたく遅くまで街に
出ずっぱりになる理由も無い。
『──』
だから俺は、この時すっかり気付くのが遅れてしまった。半ば無意識に、物理的に視界を
遮ってしまっていたのもあるが、クロ助は俺の部屋に潜んでいた。ちょうどベッドの俺を見
下ろせる位置に、クローゼットの天板にちょこんと乗っていたのだった。
『シンジ。ああ、いや、そのままで良い。目が覚めた時、おそらく君はぼんやりとしか憶え
ていないだろうからな』
『君とマシロは……私の恩人だ。私を不気味がり、衝動的とはいえ捨てたあのニンゲンとは
違って、依り代が衰弱していた私を親身になって助けてくれた。君は私のことを何となく勘
付いているようだが……どうか安心して欲しい。私は君達を、決して傷付けたりはしない。
君達を傷付けようとする者を、決して逃しはしない』
見えていなくても解る。クロ助の声だった。くわっと例の目力モードで俺を見下ろしなが
ら、クロ助は──便宜上そう呼ばれている何かは、俺に語り掛けてくる。頭の中に直接、自
分の正体に勘付かれていることも踏まえた上で、何やら礼らしきことを述べている。
『先日はすまなかった。流石に驚かせてしまったようだな。私としては、君達の棲み処でも
あるこの家に侵入してきた、悪意ある輩を少し懲らしめてやった心算だったのだが……』
動けなかった。身動きなどできる訳がなかった。
もし下手に動いて、腕を除けて、その姿を直接見でもしちまったら……俺は一体どうなっ
ていただろう? 最悪、例の空き巣犯どもと同じようなことになっていたんじゃあないか?
上手く説明はできないが、そんな得体の知れないプレッシャーだけは確かにあった。幸いな
のは当のクロ助自身、俺達家族には害を加えるつもりが無いこと。本人(本猫?)としては
言葉通り、ちょっぴり“威嚇”しただけだったのかもしれないが……。
『本当ならば、こうして直接言語を交わすのはリスクだ。避けるべきだったのかもしれない
が……いや、もっと早い段階でこうするべきだったのかもしれないな。命の恩人に、礼も無
しに只々庇護されるだけでは虫が良過ぎるだろう。そういう意味では、先日の一件は良い切
欠となったのやもしれぬ』
そして、クロ助もといそう呼ばれている何かは、寝たふりをしている──ことにもおそら
く気付いた上で俺に告げる。ある意味これほど心強く、これほど恐ろしいことなどあるだろ
うか? といった具合に。
『……これからも、私は君達の平穏を守ろう。君達の行く末を見守ろう。それが私の、君達
に対する、せめても恩返しだ』
(了)




