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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-149.April 2025
241/284

(1) 醒メ遣ラヌ

【お題】時流、蛙、関係

 仕事から帰って来ると、決まってリビングで怪獣が寝入っている。もとい妻だ。


 その日も夜遅くに帰宅した狩野は、最早何百回・何千回と目の当たりにしてきたそれに、

ピクリとも表情を変えずに通り過ぎた。明かりは必要最小限、台所の流しを照らす小振りの

蛍光灯。彼女のいびきが時折、冷蔵庫の駆動音さえ上回る瞬間がある。

(起こしてやる必要は……ないか。今日も今日とて“疲れて”いるんだろう)

 二つ折りにした座布団の傍らに、目覚まし時計が置かれているのを一瞥し、彼はそっと後

ろ手でリビングとダイニングを隔てる戸を閉めた。なるべく物音を立てないよう、鞄の中か

ら空になった弁当箱や水筒を取り出し、手洗いついでに洗って乾燥機へ。どちらにせよ全く

の無音という訳にはいかないが、戸を引いたので多少は防音になるだろう。何より……彼女

がああなっていれば、そう簡単に起きやしない。

 冷蔵庫を開けて中身のチェック。妻が自身の帰宅後から夜にかけて作ったと思われるおか

ずが幾つか、タッパーなどに小分けして保存してある。実際にどれを選ぶかは朝その時の何

となく任せだが、明日の昼食には困るまい。

 彼はそのまま迂回するように、冷蔵庫前から廊下の突き当りへと扉を開けて通り抜け、二

階の自室へと向かった。首元を緩めてネクタイを解き、クローゼットに引っ掛けてある楽な

普段着に一旦着替える。

 脱いだ分は今夜にでも、妻が入浴後に洗濯機を回すだろう。その時までに籠に放り込んで

おけばいい。……まだ入っては、いない筈だと思う。

「あら、帰ってたの?」

 気持ち小首を傾げて再び階段を降りれば何とやら。トイレから出てきた妻とばったり出く

わした。点けられた廊下の明かりと、こちらの姿を認めてぶすっと面倒臭そうな声色。十中

八九寝起き故の不機嫌面ではるのだろうが、遠因は何もそれだけではないのだろうと狩野は

思っている。

「ああ。……風呂、先に貰うぞ?」

「ええ。あなたの方が早いしね」

 とぼとぼ、否ドスドス。

 結婚当初に比べてすっかり横幅の大きくなった妻の背中を見送り、彼は早速風呂を沸かす

ことにした。夕食はいつものように、外で簡単に済ませてきている。以前は努めて間に合う

よう帰宅していたこともあったが……それも最早過去の話。“手間が掛かる”ことで不機嫌

になる妻の様子を見ていれば、自然と避けるような生活リズムになってゆくものだ。


(──洗うのは、増美が入って行ってからにした方がいいかもな)

 やがて沸いた湯船に浸かりつつ、一通り身体を洗った後の狩野は、内心独り反省点を挙げ

て風呂場のぼやける天井を見上げていた。

 ふぅ……。意図するでもなく大きく深い息が漏れる。彼女には悪いが、こうして一人きり

の空間にいる方が、ずっと気が休まる。そう自覚するようになって、はたしてどれだけの年

月が経っただろう?

 尤もそれは、彼女の方とて似たものの筈。亭主元気で留守がいい、なんて言葉は遥か昔の

キャッチコピーだが、熟年夫婦間の関係性とは時代が移ろおうとも大体そんなものなんだろ

うと彼は諦めてりかいしていた。今はもう、惰性のまま一緒に暮らしている。長続きの秘訣とは、互い

に関わり合い過ぎないことにある。

「……」

 解っている。それは単なる延命だ。

 彼は、狩野は、幾度目かも分からない自問といを繰り返した。

 冷め切った夫婦仲と、しばしば自身も妻に──だらしなく爆睡する姿に怒りすら覚えてき

た過去。とうに成人した二人の娘も、都会に出たまま戻って来る様子は無い。好い相手を見

つけようとも、決めようともしない。家族という機能、ひいては役割は、ほぼ終えていると

言ってしまっていい。


『は、初めまして。た、館林増美といいます。よろしくお願いしますっ』


 自分達の出会いは、両親の知人を介した見合いだった。

 あの頃の妻はまだ小柄で可愛らしく、初々しかった。こちらも成り行きのまま──周囲の

面子もあって、よほどの事がない限り縁談はなしを断れるという雰囲気ではなかったというのもあ

る。或いは皆、人生の何処かでそう絡め取られいう腰を落ち着けるものなんだろうと思っていた。少なく

とも実際、夫婦めおとを宛がわなければ、世の中の人間は減ってゆく一方なのだから。

(っと……。今はこういう考え方自体、ハラスメントになるんだったな)

 そうしてピクッと、半ば反射的に肩や背中を強張らせて、狩野は自嘲わらった。湯舟から片手

を出し、ぐるりと顔面を隠すように拭う。

 そもそも妻が変わってしまったと嘆くのは、他ならぬ自分が一方的に理想を押し付けてい

るからだ。あの時から数十年も経てば、何だって変わる。子供達も、一応とはいえ独り立ち

まで育て上げた。妻としても、母としても、大役は果たしてくれたのに。多少気が緩んだっ

て責められやしない。それをこちらが、未だ“家政婦”然と働いてくれと期待するのは酷と

いうものではないのか? 長年仕事漬けだった自分に……そんな資格があるのか?

「……」

 我が子という義務ないし枷。義両親りょうしんという監視の眼。

 時を経て、双方はようやく彼女から消え去った。こと後者──自分の父と母がそれぞれ亡

くなって以降、彼女は明らかに“解放”された印象がある。張り詰めていた色々なものが、

プツンとようやく途切れてもいいと許されたかのような。

 これは世の夫婦の常でもあるのだろうが、生前自分の両親と妻の関係はお世辞にも良いと

は言えなかった。見てくれは可愛らしくとも、嫁として十全かどうかは別問題だ。当時自分

はそこまで気にしてはいなかったし、拘りも薄かったが、あの世代の人間ともなれば我が子

以上に価値観は古かろう。母はドジの多かった妻をしばしば叱っていたし、妻の方もそんな

義母ははと面と向かうことを避けたがっていた気がする。父は基本的に多くは語らないものの母

側で、下手をすれば自分以上に“嫁”なり“家”という概念に凝り固まった人種だったかも

しれない。

(……血は争えないってことか)

 今更詫びようが、改めようがどうしたというのか。彼女を妻とし、この数十年を費やして

きた日々は戻らない。誰しもそういうもの、たとえ今の価値観で化石だの何だと言われよう

が、家庭を築くことは人生屈指の大仕事だと切り返そうと、彼女は喜ばないだろう。自分も

相手も、今や老後へ向けてのロスタイムだ。よほどやりたいことに満ち溢れているような御

仁でもない限り、胸奥には常にやりようのない暗澹が残る。

(……いかんな。上がろう)

 いいや、詮無いことだ。彼は暫くしてふるふると首を横に振り、湯船から立ち上がった。

 少し長居し過ぎたかもしれない。要らぬ長考で待たせ、彼女の機嫌を悪化させるのは、自

分としても本意ではない。


「上がったぞ」

「ん……」

 気持ち手早く着替えてリビングの戸を開けると、増美は天井とソファ傍の二つだけに絞っ

た間接照明の下、一人ぼうっとテレビを見つめていた。深夜テンションで出演している画面

の向こうのタレント達が、何が面白いのかやいやいと騒いでいる。

 狩野は湯上りの火照った身体もそこそこに、彼女にそう呼び掛けて入浴を促す。対する彼

女もちらっとこちらを見つめ返したが、やはり反応は気怠げだ。

 すまない、遅くなった──言うべきかと思ったが、彼は結局口には出せなかった。ただで

さえぼんやりと不機嫌の度合いが判らない中、藪蛇になってしまうことを恐れたからだ。尤

もそれはそれで、どちらにしても気が利かないとマイナス評価を食らっていそうではある。

それでも互いに特段言及しないのなら、表面上諍いは起こらない。繰り返すが、長続きの秘

訣は、関わり合いになり過ぎないことである。

「テレビ、点けとく?」

「いや、いい。湯冷めしない内に寝る」

「そう……」

 椅子の一つに引っ掛けてあった、バスタオルで包んであった着替えを引っ張って来つつ、

彼女が訊いてくる。狩野も言われてテレビの方を一瞥したが、すぐに断った。正直そんな気

分ではないし、身体も疲れている。何時ものように少し休憩と軽いストレッチなどを済ませ

れば、早々に床に就くだろう。

 去り際、短くそう応じてリモコンのスイッチを切り、風呂場へと出てゆく妻の後ろ姿を見

送る。見えなくなって、ふいっと緊張が解けたのを自覚した狩野は、やはりと密かに苦笑い

を零すしかなかった。

「飲み物、飲み物……」

 入浴で乾き切った身体を潤すがてら、冷蔵庫から牛乳パックを取り出す。注いだカップを

軽くレンジで温め、椅子の一つに座りながら、そっと口を付ける。

 返事した通り、少し休んで落ち着いたら寝る準備をしよう。もう夜も遅い。だるだると長

く起きて、また妻と面と向かうだけになったら……間違いなく気まずい。場が持たない。



『次は~命運寺~、次は~命運寺~。お出口右側、です』

 夜遅くに帰宅して、実質風呂と寝起きだけの時間を過ごして。

 狩野の日常はその後もさして代わり映えはしなかった。何時ものように朝早めに起き、冷

蔵庫の中から適当にタッパーのおかずを見繕って弁当箱に詰め込む。朝食もトーストや市販

のヨーグルトなどで手早く済ませ、それでも時間は刻一刻と迫り来る。

 朝の内は、今日もまた一日が……と思っていたものが、気付けばあっという間に反転して

いる。すっかり沈んでしまった陽と夜闇の街を、彼は歩いていた。勤め先を出た後、最寄り

駅を降り、見知らぬ人々とすれ違ってゆく。まだ活力を残している、若者を始めとした他人

びとを何処か羨ましく思って見遣れど、最早自らにそれが叶わないことも知っていてすぐ興

味は失われる。この歳、この時代、とかく目に入る情報というものは能動的にセーブしなけ

れば、すぐに精神はパンクしてしまう。

(さて……。今夜は何を食うか? まあ、あまり財布に余裕がある訳ではないし、選択肢は

限られてくるにせよ……)

 駅近くの立ち食い蕎麦? それとも適当なコンビニやファストフード店? 狩野はめっき

り食が細くなってきたと感じる自身の胃辺りを撫でながら、ネオンの明かりの中でぼんやり

と思案をしていた。性格的に、安ければ別に何日同じものでも拘りはないが……少なくとも

栄養バランスという意味では良くはないのだろう。それこそ、きちんと家で食べられれば良

いのだろうが……。

(事前に増美に頼んでおかなければ、まず無理だ。あっちもあっちで都合があるし、私の帰

宅時間と合うかも分からない)

 心の中で、ないなと首を横に振る。それよりも先に脳裏に過ぎり、思い留まる材料となっ

てしまっているのは、他でもない妻の仏頂面。そもそもそんな彼女と面と向かって過ごすの

が億劫で、長らく外をうろついているというのに。

「……」

 ただそんな生活リズムも、そろそろ終わりが見え始めていた。生温く僅かな夜風に身を任

せながら、彼は今夜の飯以上の心配事に意識を取られ出す。

 即ち──定年だった。後二年弱もすれば、もう仕事を理由に遅くまで帰らない大義名分が

使えなくなる。娘達が家に居た頃はまだ多少マシだったろうが、今は基本妻と一対一。先に

着くにせよ、後に着くにせよ、顔を合わせて長い時間を過ごしていれば、十中八九向こうか

ら飛んでくるのは日頃の愚痴だ。テレビのバイアスで刷り込まれた、時事問題への一家言も

どき達だ。

 尤も、そんなやり取りは実際世の家庭内にはありふれているのだろう。黙って聞いてさえ

いればいい。ポーズでもいい。それさえ苦痛だというのだから……根本的に自分はそういっ

た空気に慣れていないのだ。慣れる努力を厭い、遅帰りに身を潜め続け過ぎた。

(……あいつのように、私も何処かにパートにでも出た方がいいかもしれないな。どのみち

定年が来ようとも、出てゆくものは変わらず出てゆく)

 だからという訳でもないが、狩野はそう定年以降の仕事についても思いを馳せる。この国

はもう長いこと低迷が続き、自分を含めた皆の給料は据え置き──下がる一方だ。だからこ

そ妻も、何年も前からパートに出るようになったし、きっとそれはこの先も変わらない。自

分が今の会社を去る期限リミットが来るのならば尚更だ。

 しかし自分のような年寄りに、滑る込める枠がはたしてどれだけあるか……?

 思考が横道に逸れれば逸れるほど、不安が頭をもたげる。今目の前の、散漫とした空腹感

を埋めれば、少しは意識の外に追い遣ることができるだろうか……?

「──あれ? 主査?」

 ちょうど、そんな時だったのだ。

 完全に油断していた格好のまま、突如として背後から掛けられた言葉。彼は軽く眉間に皺

を寄せつつ、気持ち数拍遅れて振り返っていた。そこには驚いたように目を丸くし、じっと

こちらを見つめている、一人の若いスーツ姿の女性が立っている。

「やっぱりそうだ。お久しぶりです、主査」

「君は……? まさか、園田君か?」

「はい。主査も、お元気そうで」

 年齢は三十代後半ぐらい。かつて彼が面倒を見ていた元新入社員の一人、園田だった。当

の彼女も、懐かしい顔を見つけたと言わんばかりに笑みを零し、そう社交辞令を述べてくれ

る。お元気そう。狩野は半ば無意識に、その表情を苦々しいそれへと変えた。

「……それは当時の役職だろう? 今は次長だ。それよりも」

 言いかけて、少し迷う。だが心積もりもなく出くわしてしまったのだ。世間話の一つもせ

ぬまま退散するのも失礼だろう。

「随分と見違えたじゃないか。驚いたよ」

「あはは……。いえいえ。あの時、色々と揉んでもらったお陰です」

 彼女は一時期、彼の勤める部署の新人として配属されてきたが、やがて他の何人かと共に

他社へ移ってしまった人物だった。

 自分のように旧い人間は、大よそ最初に入った会社に骨を埋めがちだが……彼女ら若い世

代はそうではない。寧ろ逆だろう。必要があれば、相性が悪かったり経験を十分に積んだと

判断すれば、割とサクッと職場から職場へと渡り歩く。当時は奇しくも、そういった転職ラ

ッシュの最盛期だったこともある。

 どうやら彼女自身は、上手くいったらしい。あの時はまだまだ未熟で、全方位に向けてガ

チガチに緊張していたというイメージが強かったが……今ではすっかり落ち着いて、笑顔の

似合うキャリアウーマンになった。垢抜けた。

「……そうか。それなら私も、指導した甲斐があったというものだ」

 実際は移った先の環境が恵まれていたのだろう。何より彼女自身の努力が、様々な要因と

絡まり合って実を結んだ結果なのだろう。

 謙遜だと分かり切っていても、そう面と向かって礼を言われることに彼は悪い気はしなか

った。長く代わり映えのしない日常、それでも多忙でトラブルも少なくはなかった日々。体

感としては只々、自分が摩耗してゆく、置き去りにされてゆくばかりだったところへもたら

されたこの報せは、事実一幅の清涼剤であったのだろう。

 フッと苦笑わらい、会話が途切れそうになる。狩野自身、懐かしい顔を見れただけで充分だっ

たし、この頃合いを見てさっさと別れてしまおうと考えていた。

 ──だというのに、この自分と娘ほど歳の差がある彼女は、何を考えているのか思い付い

たように、ポンと両手を合わせると言う。

「あ、そうだ。主査……じゃなくて次長。もしこの後ご予定が空いていましたら、一緒にお

食事でもどうですか? 久しぶりに色んなお話、したいです♪」

                                      (了)

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