(4) 潜罪
【お題】悪、人工、少年
管理コードC260、個体識別名コンラッド・エイガーは、少々込み入った過程を経て当
施設に収容されました。周辺情報整理のため、改めて記録データの出力を開始します。
20XX年11月、彼は満年齢8歳の時に交通事故に遭いました。対向車線を大きく逸れ
て進入してきた大型トラックと、彼の父親が運転していた乗用車は激しく衝突。ハンドルを
握っていた父親と、助手席の母親はほぼ即死。幼い彼も、十七日間生死の境を彷徨うほどの
重傷を負ってしまいます。
搬送先の医療スタッフの尽力により、彼は辛うじて一命を取り留めました。ただその際、
脳の幾つかの領域に深刻なダメージを残すこととなります。具体的には歩行機能の損壊、心
的外傷に伴う諸症状。何よりその聴覚野は、正方向の鋭敏さを非常に強く示すようになって
いました。事故時に受けた衝撃が、当該の伝達経路を大きく変質させてしまったことで引き
起こされた現象と推定されます。
その結果、彼に“異能”とも呼べる特性が備わったとしても。
「──おい、お前。認可外の嗜好品の持ち込みは禁止の筈だぞ? 外せ、没収する」
管内の一角、研究区と収容区を結ぶ連絡路で起きようとしていたトラブルを察知し、私は
急ぎ現場へとデータを走らせました。ホログラムアイコンの呼び出しまで0.37秒。音声
データ反映まで0.58秒。ただ実際の発生──当事者の片方が声を掛けるまで十数秒の間
を挟んでいたことで、私の対応は遅れていました。どれだけ眼を張り巡らせても、職員一人
一人の脳内までは常時モニタリングしていないからです。
「……」
連絡路では、威圧的にそう相手を見下ろしている若い職員と、車椅子に乗りヘッドフォン
のような装置を着けた少年が相対しています。見知らぬ、あまり面識の無い相手から突然命
令されて、彼は酷く戸惑っているようでした。ヘッドフォン型装置の耳当て部分に触れ、慌
てて“調節”をし直しながら、返答に困るようにこの職員を仰いでいます。
「聞こえなかったのか? いいから外せって──!」
『止めなさい、ソルベ。彼の、コンラッドのヘッドフォン型装置は必要な物品です。そして
収容された子供達への高圧的言動は、職員向けガイドラインに抵触する恐れがあります』
私は二人の間に割って入るようにホログラムアイコンを出現させ、職員ソルベに注意を促
しました。彼は勘違いをしていたようですが、この子の──コンラッドのそれは、日常生活
を送る為に不可欠な“医療器具”です。私の介入に、ソルベはあからさまな不快感を表情に
示していました。
「……何だよ。随分とこのガキの肩を持つじゃねえか、エウロペ。AIの分際で」
『子供達の保護は、私に課された上位プログラムの一つです。そしてソルベ、貴方の発言は
研究チームの一員として不適切なものと判断します』
私の名はエウロペ。この施設全域を管理・保護する為に導入された人工知能です。平時の
空調から不審者等の監視、各種プロジェクトにおけるサポートまで、様々な役目を担えるよ
う設計されました。
やはり、彼は未だ知らないようです。
彼の配属期間と言動から、私は速やかに管理コードC260、コンラッド・エイガーの留
意事項について伝達しようとしましたが。
「──エウロペの言う通りだ。この子の耳のそれは、ただ音楽を聴く為の物じゃない。聴覚
に障害を抱えている、彼の日常を補佐する“医療機具”だよ」
ソルベの後方、即ちコンラッドの向かい側の通路から、別の中年職員がこちらへ歩いて来
ていました。彼は一瞬ソルベに対して苦言を呈するように、説明するように言葉を発してい
ましたが、次の段階ではこれを通り過ぎて反転。コンラッドの車椅子、その頭にそっと触れ
て撫でつつ、慰めるような動作を取ります。
「聴覚に……障害?」
「ああ。この子は以前、事故で大怪我を負ってね。その際に脳に受けたダメージの影響なの
か、常人よりも遥かに鋭敏な聴覚機能を有することになってしまった。普通に生活している
だけでも、他人の生活音や話し声が酷く大きく響いてしまう……らしい。だからこうして、
専用の装置を作った。自動と任意双方で、彼に聞こえる音を絞れるようになっている。だか
ら嗜好品などではないのだよ。眼鏡と同じだ。無ければ日常生活に支障が出る代物なんだ。
叱らないで、やって欲しい」
「……」
ちらりと、本人にアイコンタクトで了解を取り、彼は事情を話して聞かせていました。ソ
ルベもそうとは知らず、直前までの自分の行動にばつが悪そうな表情をしていました。ガシ
ガシと髪を掻き、盛大に溜息を吐いてみせます。
「……そうッスか。まあ、あんたがそう言うんなら従いますが」
ソルベは言ってから、そのまま二人の横を通り過ぎて立ち去ろうとします。そしてコンラ
ッドの横、車椅子の右側方とすれ違った所で。
「悪かったな、坊主」
「だがまあ、ここは“悪い大人”でいっぱいだ。あんまり一人でウロウロしない方がいい」
一瞥を遣るでもなく、最後にそう言い残してゆきます。
「……。すまないね、手間を掛けさせた」
『いいえ。これが仕事ですから』
「はは、仕事……か。そうだな。あいつのことは許してやってくれ。最近ここに配属された
新入りでね。この子のことも、知らなかったんだろう」
『はい。やはりそうでしたか』
私に対して、或いはすぐ手元に座っているコンラッドに対して。
彼は──研究チームの古参職員、ジョージは言いました。先程話していたように、コンラ
ッドの症状に合わせ、専用のノイズキャンセリングを施したのは彼です。普段口数が少なく
他の子供達とも交流をしたがらないこの子も、彼には多少心を開いているようでした。直後
ぽつりと、コンラッドが呟きます。
「……“だったら、始めからそう言えってんだよ”」
「それは、ソルベの?」
「うん。僕に謝るふりをしながら、頭の中ではそう思ってた」
「……そうか。私からも、それとなく注意はしておこう」
「別にいい。バレたら嫌だし」
「そうか」
ジョージがその意図を汲んであげ、それでも彼からの申し出をコンラッドは若干頑なな様
子でもって断っていました。それでもこうして、なるべくその場で、彼しか知り得ない情報
を渡してくれるのは信頼の証なのではないか? 私はそう推測していました。少しだけ、嬉
しくもありました。
──コンラッドが、その聴覚野の鋭敏に伴って獲得した特殊能力。
それは他者の思考を、ある種の電気信号として受信し、読み取ってしまう能力。いわゆる
心を読む“異能”と呼んでしまって差し支えないのでしょう。
詳しい仕組みはまだ、ジョージを始めとした研究チームの面々でも解析し切れてはいませ
んが、現状件のヘッドフォン型装置によって受信を軽減することには成功しています。今回
はちょうどソルベに注意をされていて、そのキャンセリングを緩めざるを得なかったのだと
思われます。
「さあ、コンラッド。一度部屋に戻ろう。あいつも言ってたように、一人でウロウロするの
は感心しないぞ? せめて誰か、職員を呼んでからにしような?」
「……飲み物」
「うん?」
「飲み物、欲しかった」
そうして車椅子の背もたれハンドルを握り、彼を自室に送り届けようとするジョージ。あ
くまで誰か“友達”とは言わない。そんな彼にぽつりと、コンラッドは呟きます。「おう、
おう!」ジョージはニカッと、白髪や皺交じりの顔を綻ばせながら笑うのでした。
私達、当施設が彼のような子供達をも迎え入れているのは、何も慈善事業だからではあり
ません。コンラッドを含め、ここに集められた子供達は、皆何かしらの理由で“異能”の類
を発現させた子達ばかりだからです。
言ってしまえば──研究の為でした。ここは、国内外から秘密裏に集められた老若男女の
それを解析・再現し、あわよくば軍事に転用する為の施設でした。ジョージもソルベも、他
の職員達も、皆政府の命によって集められた研究者や技術者だったのです。
「おい、測定値下がってるぞ!」
「だったら……もう少し負荷率を上げたらどうだ?」
「駄目だ。それじゃあ安定しない。この前も“壊し”ちまったばかりだろうが」
「いいんだよ、また補充されてくるんだろ? それに成果を挙げなきゃ、次に処分されかね
ないのは俺達なんだ。違うか?」
『──』
私はプログラムです。人工知能として整備される前、投入されてからも彼らに直接干渉す
ることはできません。彼らも彼らでまた、倫理観と焦燥の間で酷く揺らいでいるように見え
ました。
隣国との戦争が長引き、泥沼化している現在、少しでもこの状況を打破する一手を相手よ
りも先に手にする……。場合によっては、“異能”そのものを持つ子供達自身を、戦場へ送
り出すといったケースも何度かありました。大人達に兵士として仕込まれ、その少なからず
がよく状況を理解していないまま、使い尽くされる。仮に生還できても、もう施設でおんぶ
に抱っこな生活は戻って来ない……。
「そういう意味では、あの子はまだマシなのかもしれん。五体満足でないことで、直接戦場
に送られることはないだろうからな」
『……そうでしょうか。戦場でなくとも、彼は施設に来て以来ずっと、苦悩の日々を送って
いるように見受けられます。他の子供達や職員とも交わらず、恐れられ、孤立しているので
はないですか?』
ジョージはいつか、研究の合間にそんなことを私にぼやいていました。何処か遠くを見て
いるような眼差しと、おそらく完全な本心で言っているのではないであろう理屈付け。彼も
また、コンラッドがこの施設に来るまでの経緯を、多少なりとも聞き及んでいた筈なのに。
事故で両親を失い、尚且つ聴覚の鋭敏化と“異能”が発現した後、彼は暫く親戚や知人の
下をたらい回しにされていたようです。
ある意味当然でしょう。現在でこそジョージ達がその原理をある程度解明したとはいえ、
常人では理解に苦しむほど音に敏感で、何より時折こちらの考えていることを見透かしてい
るような節がある。多くの人間は、未知なるものに興味よりも恐怖を覚えるものです。時に
は彼を不気味だと陰口を叩き、或いは化け物と罵り距離を取ってきました。そしてそれは、
コンラッド自身もまた同じだったのです。
「……閉ざした心を、無理やりこじ開けることなんて出来るのかい? それはきっと悪手だ
よ。私達にできるのは、じっと待つことだけだ。せめて誠意をもって接し続け、あの子自身
が殻を破れるよう信じて待つことだ。……尤も、現在進行形であの子達を研究し続けている
側が、言えた立場ではないがな」
当初、コンラッドは誰とも話そうとせず、同じく収容されていた同年代の子達の輪にさえ
入りはしませんでした。大人達、職員側には特にそう。なまじ心を読める“異能”を備えて
しまった分、深い付き合いや信頼を築く前に、何もかもが信じられなくなっていったのだろ
うとジョージは言います。
『……そこまで解っているのなら、計画の中止や凍結を提言すれば良いのでは?』
「はは。この老体にそんな無茶をさせようってのか? ……無駄だよ。私達は軍属だ。上の
命令があれば、逆らうことはできない。何より計画が止まろうと進もうと、戦争が続いてい
る限り犠牲になる者は出続ける。あの子の、あの子達の為だけを思って行動を起こすという
ことは、そうした見知らぬ犠牲者らの命とを天秤に掛けることもである」
『方便です』
「否定はしない。だが君だって、御国に作られたAIだろう? 被検体に肩入れするような
通信記録が残れば、最悪君自身が処分されかねない。それだけは……止してやってくれ」
私はあの時、彼の言い分が非常に“言い訳”めいているように聞こえていました。本人も
事実そのことに自覚はあったようで、逆にこちらの心配まで持ち出して話題を切り上げよう
とすらします。
『……』
止してやってくれ。
おそらくそれは、自身というよりも、子供達の行く末を心配した表現だったのでしょう。
そこまで解っているなら、想っているのなら、何故?
ですが彼への説得は、二度と改めて試みることは叶いませんでした。ある日彼が、他の研
究チームのメンバー達といつものように実験に臨んでいた最中、突如として苦しみ倒れてし
まったからです。
「おやっさんが倒れた!?」
「ああ。一緒にいた奴らが医務室に運んだが……起き上がれないくらい悪いらしい」
「そんな……。そりゃああの人も歳だが、急過ぎるだろ?」
「俺に言うな! 俺だって……今絶賛動揺中なんだよ」
日頃から職員や、収容されている者達のバイタルチェックは行っているものの、急激な悪
化やそれに伴う発作など、全てを予期できる訳ではありません。
研究チームの仲間を始め、報せを聞いた職員達が、彼が運ばれた医務区画の一室に駆け付
けていました。職員の中でも古参に当たる彼の急変は、少なからず彼らの精神状態にも影響
を与えたのは間違いありません。
しかしそんな矢継ぎ早の見舞いを、軍服姿の一団が淡々と解散させます。この施設を取り
仕切る、実質の人間側、軍部からの出向者達です。
「時間だ。スケジュール通り、次の実験を始めろ」
「は? 何言ってんだ!? 仲間が倒れてたってのに──」
「では、お前達は全員命令違反だ。この場で処分するが、それでもいいのか?」
『……っ!』
良くも悪くもルール通りに、思わず反発した職員の一人に銃口を向ける軍兵。流石にそう
されれば手も足も出ず、彼らは次々と両手を上に挙げざるを得ませんでした。「行け」銃口
ごと手でくいっと促し、病室から彼らを追い出して軍兵達も立ち去ってゆきます。
部屋には、その一部始終を見ていた病床のジョージと、他の管制を並行しながらホログラ
ムアイコンを表示させた私だけが取り残されました。
「──君は行かなくていいのか? じきに今日の実験が始まるぞ?」
『問題ありません。彼らのフォローも並行して実行中ですので。それよりも貴方です。以前
からバイタルに波はありましたが、処方された薬などはきちんと服用していましたか? 医
療スタッフからも時折、指導があったと記録されています』
「そう言われても……な。職業柄、不規則な生活になりがちなのはどうしようもないよ」
白いベッドの上で入院服を着せられ、ジョージは力なく苦笑ってしました。自嘲と表現し
てしまっても良いのかもしれません。私は理解に苦しみました。ある程度自覚症状があった
のなら、何故これほど悪化するまで真剣に対処しなかったのか……。
『とにかく、今は絶対安静にとのことです。医療スタッフからの指示には必ず従うようにし
てください』
「……それで本当に治るものかね。君も私達の状態をスキャンしているのなら、そもそもこ
んな環境で研究に従事するなど、止めるよう告げる方が合理的だ」
『私にそこまでの権限は与えられていません。……ジョージ、まさかとは思いますが』
「はは。だとしたら、どうする?」
数拍私は黙っていました。なるほど、この不可解の理由はやはり明確でした。
彼は半ば“自棄”になっていたのです。研究に没頭し、その結果身体を壊して脱落してし
まうのなら、それはそれで結構だと。
「……エウロペ。戦争は一向に終わらんな。人伝ではあるが、双方兵士が次々に消費され、
亡くなっているという。この施設にいた子供達も、コンラッドを含めた僅かを残し、すっか
り居なくなってしまった。……限界だったんだろう、私自身の心も、体も。いや、これまで
散々彼らを利用する側に居続けた、私への報いだと信じたい。だから頼む、このまま眠らせ
てくれ」
チームの皆には、申し訳ないが……。ジョージは段々とか細くなる声で呟きながら、懇願
してきました。私は答えられませんでした。私にそのような権限・機能はありませんし、何
よりそれは“言い訳”です。残された者達に迷惑が掛かると解っているのなら、最期まで職
務を全うすべきです。
『ジョージ』
「だからエウロペ。頼みついでにもう一つ、聞いてくれやしないか?」
私は施設管制用AI。データとプログラムの塊で、人間ではありません。だというのに、
彼は私の二の句を遮るように、託してきたのです。
「あの子達を、コンラッドを頼む。遅かれ早かれ、私はあの子達の大きくなった姿を見てや
れないんだ。だが君なら──年齢という概念のない君なら。私の代わりに、あの子に触れて
やってくれ。守ってやってくれ。やっと心を開いてくれ始めたんだ。私に心残りがあるとす
れば、間違いなくあの子だよ。頼む……。私の身体は、もう時間が無いのだから……」
『……』
発覚が遅かったためか、はたまた彼自身がギリギリまで隠し耐えていたからなのか、結局
ジョージは帰らぬ人となった。研究チームの古株である彼の死は、残された同僚達に少なか
らぬ動揺を与えたらしい。実際本業の実験結果や、作業精度に長い間明らかな低下が見られ
たことをここに記しておく。
(やはり貴方は、人間というのは不可解です。ですがそれが、人間を人間たらしめる要素で
もあるのでしょう)
一しきり彼の死が悼まれ、弔われていった後、私は彼が遺した権限と新たなプログラムを
導入し、その遺志を受け継ぐと決めました。コンラッド。今も尚この施設に残っている子供
達を、彼の代理となって守る。今度はただ音声とホログラムだけの存在ではなく、時にその
身体を抱き締めてあげられるように。いつか幾度も悔いた、実体を備えた存在となる為に。
「──」
製造区のラインに自身のデータを移し、予め設計された図面通りに組み上がった義体。
大量の霧状ガスを噴き出しながら、開いた製造機のハッチ内から、私は“起き上がって”
いました。
初めての感覚に戸惑いながら、二度三度と掌を閉じたり開いたりするなどして動作を確か
め、私は義体姿の私を見つめます。ハッチのガラス、透けたその向こうに映る家政婦ような
服装と桃色の髪を緩く結わった女性型が、まじまじとこちらを見返しています。
『……待っていて、コンラッド』
今私が、貴方の下に。
***
ジョージおじさんが死んだ。暫く前から体調が悪かったとは耳にしていたけど、まさか死
んでしまうぐらい悪かったなんて。
いや……判ってはいたんだ。おじさんが僕と会う時、心の中で必死に苦しいのを我慢して
いるのが聞こえていた。僕の耳のことを知っているのだから、バレていないと思っている筈
はないんだけど……実際は最後の最後まで“嘘”を吐き続けていたんだ。
(おじさんの、嘘吐き。やっぱり人間なんか、他人なんか……!)
そしてあの出来事が起きたのは、おじさんの葬儀から何日か経った頃。まだ他の大人達が
しょんぼりしていて、そわそわしていて。かと思えば、そんな皆をずっと苛々しながらうろ
ついている怖い人達もいて。
その日も僕は、部屋から出なかった。ここに連れて来られて最初の頃は毎日ようにあった
“検査”も、段々回数が少なくなって今では偶に。心の声を聞いている限り、結局僕の耳を
悪いことに使おうという計画は上手くいっていないらしい。ざまあみろ。まあそれでも、他
の奴らが僕と同じような苦しみを味わうのなら、少し残念だったのかな……?
『いますか? コンラッド』
ちょうどそんな時だった。ふと気付けば聞き慣れた女の人──エウロペの声が扉の外から
聞こえてきた。おじさんのヘッドフォンを触って、拾えるように調整し直す。だけどもそう
しながら、僕は妙だなと思った。
エウロペは人間じゃない。この大きな建物全体を見ている“えーあい”っていう存在らし
い。だからいつもなら、こっちが断る前に画面を呼び出してアイコンと一緒に出て来る筈な
のに、今日に限っては扉の向こうからわざわざ声を掛けてきた。頭の中がこんがらがる。
これじゃあまるで、エウロペまで──。
『失礼します、コンラッド。私のこと……判りますか?』
「──」
プシュっと音がして開いた扉。そこには人間っぽいけど、よく見ればロボットだと判る感
じのメイドさんが立っていた。不安そうに、確認するように僕の方を見て一歩、また一歩と
近付いてくる。桃色の軽く結んだ髪や衣装を揺らして近付いてくる。
エウロペで間違いなかった。本人だと“判った”。
聞こえてくる。彼女の事情が聞こえてくる。亡くなる前、彼女がおじさんと話していた内
容が次から次へと僕の中に──。
「あ゛あ゛……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーッ!!」
『!? コンラッド?!』
頭の中に直接と、エウロペが自分の言葉で、ゆっくりと僕に伝えて来ようとしている同じ
内容。
でも僕は、耐えられなかった。殆ど反射的に、やけくそになって、近くにある物を片っ端
から彼女に投げ付けていた。慌てて両腕でガードし、その場に立ち止まるエウロペ。
……嘘吐け。お前の身体は丈夫なんだから、僕ぐらいの力でぶつけられたって、傷一つ付
きはしないのに。
『ま、待ってください、コンラッド! 私はジョージから頼まれ──』
「うるさいッ! うるさい、うるさい、うるさいッ!!」
何でだよ。何でお前が、人間の真似事なんてしてるんだよ。
僕は知らない内に泣いていた。ボロボロと涙が零れて止まらなかった。手当たり次第に物
を投げて、あちこちにぶつかって音を立てて、それでもエウロペはおろおろその場で困った
表情を浮かべていた。僕の知っている、ただのアイコンじゃなくなってた。
「何でだよ……ッ!!」
人間みたいになったら、聞こえちゃうじゃないか。判っちゃうじゃないか。
おじさんでさえ最後まで、僕に嘘を吐き続けた。信頼してくれって言っておきながら、自
分から逆のことをしているような奴らの仲間だった。
何でだよ、エウロペ?
この──裏切者ォ!
(了)




