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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-148.March 2025
238/284

(3) 軒下のウィメンドゴラ

【お題】朝、野菜、部屋

 いつものように朝ベランダに出て、柴野はそれと目が合った。合ってしまった。食費節約

の為、日頃育てているなんちゃって菜園の一つ、カイワレ大根が、明らかに人の上半身を模

したような形に変容していたからだ。

「──なっ?!」

「あっ」

『あ゛あ゛あ゛あ゛!!』

 それはもう、お互い相手の存在を認識した瞬間、これまでの人生で発したことのないよう

な絶叫が出てしまうぐらいには。

 キィン……と、一瞬眩暈を起こすぐらいの甲高い声で、柴野は思わずふらつく。だが次の

瞬間には冷静さというか、いち小市民の保身が彼の身体を衝き動かしていた。

 ──拙い。近所迷惑などという表現では足りないほどの、目の前の不可解と他人様の目を

一瞬で天秤に掛け、後者を選ぶ。もうお互い叫んでしまってからでは遅いんじゃないかと脳

裏には過ぎったものの、彼は慌ててこの人型のカイワレ大根の口を塞ぐ。

「む!? む~!」

 何だか、物凄く背徳的なことをしているような気がしたが……今はそんな場合じゃない。

 柴野はもう片方の手の指先を口元に当て、必死にこの大根を諭した。最悪今この瞬間を目

撃されていたら、聞かれていたら、他の住人に通報されてしまいかねない。こちらも、そん

な訳の分からない状態で前科者にさせられたら堪ったものではない。

「むっ!? む~!」

「しーッ! 叫ぶな。ご近所さんにバレるだろうが。っていうか……お前何なんだよ? 何

で育ててたカイワレ大根が、人みたいになってんだよ……」

 幸い、左右の隔板の向こうからは、これと言って反応は聞こえなかった。基本自分が夜勤

メインで、起きる時間帯が他の住民達とはズレているのが好い方に転んだか。

「……」

 改めて、このカイワレ大根を見る。小分けのプランターからにょきにょきと生えた多数の

芽が、捩れつつ集まって一つの人型・上半身を形成している。

 柴野は半ば無意識に眉間に皺を寄せていた。さっきの声もそうだが、不安そうにこちらを

見上げるその顔立ち・身体の曲線は明らかに女性のそれだ。だからなのか、気持ち普段見慣

れていた株のそれよりも、若干ピンクがかった色合いになっている気がする。

「分かり……ません。私も気が付いたら、こんな姿になってて……」

 しかも当の彼女(?)すら、何故こんなことになったのか、自分がどうして柴野の家庭菜

園から生えてきたのか全く分からないという。「名前は?」訊ねてみたが、ふるふると不安

いっぱいで首を横に振るばかり。自分の正体すら分からない、覚えていないとは一体どうい

うことだろう?

「……記憶喪失って奴なのか?」

 そもそも、カイワレ大根に記憶も何もあるものなのか。いや、その前に人型を取って喋っ

ている時点で大概おかしいのだが。彼女も、判らないづくしで頭を抱えている。少なくとも

柴野の目には、嘘を吐いているようには見えない。

(参ったな……)

 次のシフトまでの空き時間が、まさかこんな突拍子もない出来事で上書きされてしまうと

は。大体どうしてうちに? 実は俺はまだ眠りこけていて、夢の中であり得ない経験をして

るだけなんじゃないか……?

 ぎゅむっと頬をつねり、確認。うん、ちゃんと痛い。信じられないが現実だ。何より、明

らかに人外ではあろうとも、目の前で困っている女性をこのまま放っておく訳にもいかなか

った。寧ろベランダに出ぬまま気付かず、先に誰かに通報されていたら“詰んで”いた。

「まあ、その、何だ」

「……?」

 だからこそ彼は言う。この迷える子羊──もといカイワレ大根な彼女から、もっと詳しい

話を聞く必要がある。

「とりあえず、うち入るか? こんなとこで立ち話も何だろう?」


 柴野の自宅アパート、部屋の中は特にこれと言って変わったものなどなかったが、サイズ

感が違うだけで彼女にはとんでもなく大きな世界にでも見えているのか。

 オブラートに人目を避ける為、彼女をプランターごと部屋の中に入れてから暫くは、辺り

を終始きょろきょろと見渡していた。柴野も窓際のレースカーテンから外の様子とベランダ

を再確認して、シュッと閉じる。テーブルの上に置いた彼女と向かい合って座り、改めて話

し始める。

「一応自己紹介はしておくか……。俺は柴野拓郎、この部屋の住人だ。お前の植わってたカ

イワレ大根は、元々食費を減らす為に育ててた奴なんだがな……」

「た、食べるんですか!?」

「いや、お前は食わねえよ。流石にこんな見てくれ且つ会話ができちまうとな……。ってい

うか、本当に何も覚えてないんだな? 実は幻でしたとか、そういうオチじゃないよな?」

「幻じゃないです~! わ、私はちゃんとここにいますっ! 何も覚えていないのは……そ

うですけど」

 ぶつぶつ。名乗ってから改めて問い詰めてくる柴野に、カイワレ大根な彼女は必死に否定

してきた。少なくとも自分が何故か人間ですらない、見知らぬ人の家庭菜園に宿ってしまっ

たらしいことは事実で、なのにその原因やら理由には心当たりがないというのだ。

 ……あ、でも。

 しかし次の瞬間、彼女は何かを思い出したようだ。ごくごく小さな、手掛かりと呼ぶには

あまりにか細い断片ではあったが。

「私は何か……何か凄く、大切なことを忘れてしまっている……ような気がするんです」

「何かって、何?」

「ううん……。それは……」

 柴野も彼女も、思わず唸る。腕を組み、どうしたものかと考える。

 少なくとも、彼女がこうなった経緯には何か隠されたピースがあるようだ。まあ、そうい

ったものが無いと取っ掛かりすら見えないし、事実大して前進した訳でもない。

「う~ん。何がどうなれば、カイワレに意識が宿ったりするんだよ。ただその言い方だと、

元々はお前も何処かの誰かだったってことなのかねえ?」

「……なのでしょうか。そこは、思い出せないのですけど」

 何度も頭を抱え、記憶を引っ張り出そうとしている様子の彼女。少なくとも、そんな言動

がある時点で、全くの無から生まれた存在ではなさそうだ。相変わらず、常識の範疇からは

逸脱しているが。

「ぶっちゃけ、このまま俺達でうんうん唸っていても埒が明かねえからなあ。かと言って、

ホイホイ他人に相談できるモンでもなし……」

「……」

 どうしたものか。柴野は考えていた。テーブルの上、小分けのプランターに生えた彼女も

暫く、そんな彼の様子を不安げに見守っている。

「……よし。こういう時は、あいつに相談してみるか。ただあいつ、こんな時間に連絡つく

かなあ?」

 言って、彼はスマホを取り出して画面をタップし始めた。ぶつくさと何やらぼやいてはい

たが、次に取る行動は決まったようだ。更に暫くの間、件の人物への連絡を試みている待ち

時間が続く。一人と一株、如何せん落ち着かない沈黙が横たわる。

「お? きたきた……。やっぱコマ中かあ。ああ? 今日は無理? う~ん、そんな長いこと

待ってらんねえぞ……」

 ビクン。彼女が時折その声量に怯えながらも、自分の為に彼が何とか手を打とうとしてく

れていることは判る。ガシガシとばさついた髪を掻き毟りながら、柴野は何度かメッセージ

越しに件の相手とやり取りをしていた。一度ふいっとこちらに振り向き、彼女をスマホで撮

影する。どうやら証拠として、画像を送り付けたようだ。そこから更にピコン、ピコン──

画面上で何度かやり取りもとい“説得”が続く。

「あの──」

「よしっ! あんにゃろう、屁理屈捏ねてかわしやがって……。大丈夫だ。明後日の晩、俺

のダチが来てくれる」

「お友達、ですか」

「ああ。俺よりもずっと頭が良いし、職業柄この手の調べ物は得意な筈だからな。まあ、あ

いつもあいつで忙しくって、時間が取れるのが明後日になっちまうんだが……」

「い、いえ……。大丈夫です。手掛かりが分かるかもしれないなら、待ちますっ」

 おう。彼の方も誰かに打ち明けられて、多少は気が楽になったのか、ニッと悪戯小僧のよ

うな笑みを浮かべていた。彼女の方も、ぎこちない微笑みを繕う。

「決まりだな。じゃあそれまでの間、よろしくな。えっと……」

「??」

 だが次の瞬間、彼は言いかけて止まった。口にしようとして改めて気付き、取り繕うよう

に言い直したのだ。

「そういや、お前、名前どうする? 憶えてないから仕方ないにしても、いつまでもこっち

もお前呼びってのもどうかと思ってな」

「ああ……そうですね。私は、特に何も……」

 問われて、彼女は思わず迷う。口籠る。本当の名前も、自分が何処から来たのかも分から

ないのに、そう簡単に仮の名を決めてしまっていいのかと思ったからだ。

「う~ん……。よし、決めた! なら“カイ”でどうだ? カイワレ大根だから、カイ」

 しかし一方の柴野は、少し考えるとすぐそう提案してきた。当の彼女がまだぽかんとして

いる中、如何せん性別の“らしさ”も、安直さにも程があったが。



 それから正味三日間、柴野はこのカイワレ大根な彼女こと、カイとの奇妙な共同生活を送

ることとなった。尤も基本彼女はプランターから動けないし、下手な騒ぎになっても困るの

でベランダにも戻らない。

「──じゃ、行ってくるわ」

「はい。お気をつけて」

 日没頃を目安に、柴野はビニール質なコートと黒紺のナップサック姿で家を出る。曰く彼

の職業は、とある警備会社に所属する警備員。多くは契約先のオフィスビルの夜間巡回や、

道路工事の現場に赴いての交通整理。一回のシフトが終わった頃には、辺りはすっかり明る

くなっている。そんな昼夜逆転が当たり前、少なからず疲れて帰ってくる彼を、カイはずっ

とテーブルの上から待ち続けた。出迎え続けた。それでも対する彼は、こちらの姿を見ると

ホッとした表情を見せる。自らが抱え込んだ種──或いは「おかえり」と言ってくる誰かの

存在が、本人の自覚以上に大きくなっていったからなのかもしれない。


「ただいま~……」

「あ、おかえりなさい」

「! 本当に女性型のカイワレ大根が……。あの写真は本物だったんだな」

 そうして以前約束していた三日目の夜。柴野は仕事帰りの道すがら、もう一人の人物を連

れてアパートに戻って来た。テーブルの上のカイが、ようやく姿を見せた柴野にホッとして

笑みを見せる。そんな二人の様子を、件の人物は尚も信じられないといった様子で観察して

いる。

「紹介するよ。ダチの湯浅。学生時代の同期で、今も講師として大学に残ってる」

「どうも初めまして、湯浅晋太郎といいます。カイさん……でいいのかな?」

「は、はい。実は名前も憶えていなくって、柴野さんが付けてくれた仮名ですけど」

 女性相手には意識的に丁寧になるのか、柴野の旧友・湯浅はそう彼女と同じ目線に屈んで

胸に手を当てながら、自己紹介をしてくれた。線の細い顔立ちや細身の長身に、ワイシャツ

とズボンのフォーマル姿をしている。薄い銀フレームの眼鏡越しに、十中八九これまで見た

ことがないであろう、彼女の様子をまじまじと確認している。

「ふむ。にわかには信じられないが……こんなケースがあるものなのだな。最初にこいつか

ら話を聞いた時は、彼女いない歴イコール年齢を拗らせて、とうとう幻覚を見始めてしまっ

たのかと……」

「だ~か~ら! マジモンだってずっと言ってたろうが! つーか、サラッと個人情報バラ

すんじゃねえよ」

「彼女という同居人がいる時点で、プライベートも何もないと思うがな? それに、いくら

お前の頼みとはいえ、普通あんな話をまともに聞く訳ないだろう? 実際こうして彼女を目

の当たりにし、ようやくこれが現実だと僕も自分に言い聞かせているところだ」

「あ、ははは……」

 ぐうの音も出ない反論。カイも思わず苦笑いで濁し、あーだこーだと十数年来の友人だと

いう二人のやり取りを見守っていた。暫くこちらを左右上下、あちこちから観察していた湯

浅が、続いて部屋の中や外──今は夜闇とネオンの明かりに紛れるベランダの方を眺めなが

ら続ける。

「柴野。お前の話だと、彼女はベランダに……お前が育てている家庭菜園の中からひょっこ

り生えてきていたんだな? それ以前に、何か兆候は?」

「ある訳ねえだろ。仮にあったら、もっと早くに相談してる」

「彼女と面識は?」

「だからそれもねえって。カイの方は……もしかしたら、こっちのことを知っていた可能性

は無いとは言い切れねえけど」

「……」

 湯浅は口元に軽く握り拳を当てたまま、ベランダ越しの夜景から室内の柴野達を、ぐるり

と一通り見回って戻って来た。改めてテーブルの上のカイを見つめ、手に提げていた鞄を床

に置いて座る。柴野も斜め向かいに続き、彼はぽつぽつと二人に、幾つかの見解を披露し始

める。

「二人は、マンドラゴラというのを知っているか?」

「マン……?」

「あ~、何か聞いたことあるな。漫画とかに出てくる奴だっけ」

「別名マンドレイク。実在する植物でもあり、ファンタジー創作などにも登場する。後者は

特に、人の姿に似た根っこの姿が有名だな。薬の原料などになるが、無理やり引き抜こうと

すると絶叫し、聞いた人間を死に至らしめるという。現実の方も、幻覚や幻聴を伴う神経毒

を有しているから、おそらくはその辺りから着想を得たのだろうと考えられる」

 へえ……。カイと柴野、それぞれが流暢に語る彼の説明に聞き入っていた。先程までの流

れからも、この話題が彼女の正体についてのものだというのは判る。

「じゃあカイが、そのマンドラゴラだって言うのかよ?」

「まさか。あれは創作の中の話だ。現実にマンドレイクという植物はあっても、根っこは人

型ではないし、ましてや叫びも喋りもしない。そもそもこんなコンクリートジャングルのど

真ん中で、急に生えてくるのがおかしいんだ」

『……』

 柴野達自身、そんな筈はないとは思っていた。ただ対する湯浅の言いようがあまりに突き

離したというか、冷たい感じがして、二人はどちらからともなく押し黙る。特に柴野は、他

でもない己がそのような存在に近しい姿になっているカイを気遣い、眉根を下げていた。数

拍二人が重苦しい雰囲気になっているのを見つめて、湯浅は言う。

「いいか? つまり裏返せば、彼女がこうなった理由やメカニズムも、必ず何処かにある筈

なんだ。少なくとも大根や人参、根菜の類に偶然が重なって、根っこ部分が人の姿のように

成長したという例はしばしば取り上げられている。問題は、彼女がそんな“ヒトではない”

何かにどうして宿ったのか? ということ。柴野と面識が無いというのなら、理由はまた別

の所にあるのだろう。例えば、このカイワレ大根に“宿らざるを得なかった”とか──」

 それは二人にとって、ハッとさせられる経験ではあった筈だ。湯浅自身は内心、かなり無

理やりに“現状”を“説明”しようと言葉を組み合わせていったに過ぎなかったが、それだ

けでも今まで曖昧過ぎた状況がスッと整理されてゆくのように感じられる。

「……なるほどなあ。さっすが、この手のオカルトが専門なだけある」

「文化人類学だ! ……まあ確かに、いち研究者としても、このケースは興味深いのは否定

しない。実際に人の意識と思われるものが、人ではない別の器に宿っている。お前が彼女を

作ったといった、器用な真似が出来る筈もないし、労力の意味もないし、一先ずは彼女の意

識が何処からか来たという仮定で話を進める」

「何か俺、しれっと馬鹿にされてない?」

「あはは……」

「話を戻そう。仮に彼女が元々何処かにあった意識、人間だったとして、では何故このよう

な事態になったのか? 順当に考えれば、本人にそれほどの強い意思があったからに他なら

ない。こいつの話でも、君は何か大事なことを忘れているような気がする……と言ったそう

だね? 間違いなくそれが、君の正体とこの状況を打破する唯一にして最大の手掛かりにな

ると思うんだ」

「そりゃあそうだろ。でもそんなの、見当が付かないからお前を頼ったんじゃねえか。これ

だけ広い街の中を、どうやって探すってんだよ? 下手したらカイは、もっと別の所から来

たのかもしれねえんだぜ?」

 旧知のよしみのノリがあったかと思えば、次の瞬間には至極真面目な話に変わっている。

 カイはそう、我が事のように語ってくれる柴野の横顔を眺めつつ、これに相対する湯浅の

回答を待っていた。……そうなのだ。いや、そもそも本当に、私は人間……?

「いや。僕の推測が正しければ、そこまで遠くはない筈だよ。寧ろそうだったからこそ、彼

女は今回、お前の下に舞い降りることとなった」

「えっ」「あん……?」

「少し、時間をくれ。俺の方で、改めて情報を集めてみる」

 すると彼は、まだ二人が頭に疑問符を浮かべて飲み込めていない内から、すっくと立ち上

がると部屋を後にしようとし始めた。もう何か分かったのか──? 慌てて追い掛け、玄関

口で訊き返そうとする柴野に、湯浅は静かに目を細めた。カイが部屋の奥に置き去りにされ

た位置関係を見据えたかのように、そっと小さな声でこの旧友ともに告げる。

「彼女のことをしっかり見ておいてくれ。おそらくこのままじゃあ、長くはもたないぞ」



 去り際の湯浅にあんなことを言われたものだから、柴野は正直ずっと気が気でなかった。

どういうことだ? 険しい表情かおになって詰め寄った自分に、あいつは冗談など一切なしに

“現実”を突き付けてきたのだ。


『よく考えてもみろ。彼女は意識こそ人間だが、その身体はカイワレ大根であることに変わ

りはないんだ。基本日持ちのしない食材だ。もし先に痛んでしまった場合、そこに宿ってい

ると思われる彼女自身がどうなるか……』


 以来この週末まで、とてもじゃないが仕事に身が入らなかった。夜間巡回は基本何も起こ

らないことの方が多く、そもそも起こってしまっては問題なのだが、結局何度か注意散漫で

ミスをしてしまった。施錠忘れの確認漏れや、曲がり角での接触。チームの先輩には「気が

緩んでいる」と説教されたが、寧ろずっと気を張っているから疲れてるんです……とは言え

なかった。

 こうして仕事に出ている間も、カイは独りアパートの部屋で枯れ腐る危機に襲われている

かもしれない。幸い今日の今日まで、しっかり水やりなどの手入れを怠らずにいたため、本

人も異変には気付かず健康そのものではあったが。

「──」

 湯浅から連絡があったのは、あれから更に二日後のことだった。そっちに行くので予定を

空けておいてくれと。柴野は適当な理由をつけて休みを取り、日没後の自室で彼の到着を待

っていた。

「~~♪」

 ベッドの上に仰向けになったまま、ぼうっとスマホを弄って時間を過ごす。テーブルの上

のカイは、逆に何処となく上機嫌だった。やはり独りで過ごす夜は心細かったのだろうか。

『柴野、俺だ』

 そうして玄関のチャイムが鳴り、弾かれたようにインターホンを取ると、画面の向こうで

湯浅が立っていた。今夜はこの前とは違って、少し大きめの鞄を引っ掛けている。カイも訪

問に気付いて顔を上げ、こちらの様子を窺っていた。とたとたと、柴野は急ける気持ちを抑

えつつこの旧友ともを家に上げる。

「邪魔をするぞ。カイさん、少し物を広げるので、退いていてもらえますか?」

「あ、はい。柴野さん」

「おう。ちょっくら失礼……」

 やって来て早々、湯浅は持ってきた鞄からノートPCや外付けHDDを取り出すと、テー

ブルの上に広げ始めてセッティングし始めた。柴野が最早阿吽の呼吸でカイを小分けのプラ

ンターごと持ち上げて動かし、避難させる。

「……結論から言おう。カイさん、貴女はある種の幽体離脱の状態にあると考えられる。魂

だけが、身体から抜け出て助けを求めて彷徨っていたんだ」

 プランターを持ったまま、柴野及びカイが「うん?」と小首を傾げる。元々今回の一件自

体がオカルトというか、常識の通用しないものではあったが、改めてそう彼にやれ魂だの何

だのを前提として話されると戸惑う。

「湯浅。確かに俺はこの前、オカルトが専門分野みたいなことは言ったがよお……」

「分かってる。意趣返しじゃない。これは僕なりに情報を精査して、最もそれらしい推論を

積み上げた結果だ。……これを見てくれ」

 広げられ、接続された湯浅のノートPC。柴野と彼に抱えられたカイが覗き込むと、そこ

にはネットから拾ってきたと思われる、幾つもの事件記事や地図情報が映し出されていた。

「お前が彼女を見つけた日、厳密にはその前夜にこの周辺で起こった事件・事故をリストア

ップした。うちより被害者が受けたであろうダメージが深刻で、且つこの部屋からも確認で

きる位置関係となれば……」

 あそこだ。

 ピッ。画面を整理するように、最後一件の記事を表示するや否や、湯浅はその場からベラ

ンダの外を指差した。レースのカーテン越しに透ける夜の街、その視界正面やや遠くに浮か

んでいる、このアパートよりもずっと大きなビル──。

「十七日深夜、浮舟ハイツ七〇五号室に住む女性が襲われた。発見された時、彼女は暴力を

振るわれたのか怪我をしたまま倒れており、室内には大きく荒らされた跡──金目の物を狙

った強盗事件とみて間違いないだろう。警察もビル内の防犯カメラに映った、外国人らしき

怪しい二人組が同じフロアを出入りしているのを確認したそうだ。おそらく彼らが犯人で間

違いない」

「……つまり、その住人が」

「ああ。彼女の本来の姿だと、僕は踏んでいる」

 いち個人に降り掛かった災い、あまつさえ殴る蹴るされて昏倒した姿まで流出して……。

良心やモラルってものはないのか? 柴野は内心憤り、当のカイもぎゅっと唇を結んで凝視

していたが、それを今回は湯浅が見出したことで謎の解決に貢献した。どんなものも使い方

次第だということなのか。

「被害者の名前は、渡比奈。犯人と出くわしたのか、うっかり扉を開けてしまったのかまで

は分からないが、彼らに力ずくで押し通られたことで昏倒。今も病院に運ばれたまま意識を

取り戻していないらしい。そしてこれが、僕が彼女がこの人物とイコールであると踏んだ最

大の根拠なんだが──」

 わたり、ひな。カイが伝えられたその名前を呟いている。自身の胸元、プランターの中に

いる彼女を、柴野は複雑な心境で見守っていた。かと思えば、次の瞬間湯浅は話題の変更も

そこそこに立ち上がり、ベランダに向かい始めた。ガラリと勝手に開けられ、出てゆくこの

旧友ともに、二人も慌ててその後に続く。

「……見えるか? さっき言った七〇五号室は、見取り図的にはちょうどあの辺り。ここか

らだと、そこそこの高低差の頭上に在る」

「いや、在るって……。結構遠いぞ?」

「それは、生身の人間が足で歩いての距離だろう? パソコンの地図を見ろ。単純な直線距

離で捉えれば、この部屋はあそこから“最短”だ。痛め付けられてふらつき、それでも助け

を求めて窓の外から飛び出せば……自由落下も含めてここがちょうど良い着地地点になると

は思わないか?」

『──』

 まさか。口には出せなかったが、柴野もカイも、彼の示す一連の符合に酷く驚かざるを得

なかった。言われてみれば確かに、あのビルの部屋とこの部屋は、窓側とベランダとで向か

い合わせの位置関係にある。本当に空でも飛べるのなら、緩やかな放物線を描いてここに収

まるイメージが無理なく浮かぶ。

「もしかしてこの前、湯浅さんがいらっしゃった時、“宿らざるを得なかった”なんて言い

方をしたのは……?」

「ああ。部屋の中から見える景色を見ていて、もしかしてと考えていた。現状互いに面識が

無い以上、意図してこいつの部屋に来たという筋は薄い。となれば、結果的にそうなったと

いう状況を起こす前段階はどうすればあり得る? と逆算していったんだ」

 彼曰く、それでもいざ彼女を実際に目の当たりにするまで、こんな説など空想の産物とし

て取り上げもしなかっただろう。だが現実には、彼女という摩訶不思議な存在が友人の部屋

に居候していて、記憶を失った自身の正体・ルーツを知りたがっている。

 ……優先すべきは、己の固定観念ではなかった。オカルティック、霊魂的なメカニズムの

詳しいそれなど判りはしないにせよ、行動した軌跡は想定することはできた。後はこれらの

仮説を裏付ける事実を、当日の夜の中から探し出せばいい──。

「ははっ。本当にすげえな、お前は……。いや実際、まだ信じらんないって気はしてるけど

よう」

「信じるも何も、お前が求めてきた謎解きだろう? それに、これはあくまで僕の仮説に過

ぎない。本当に渡比奈が彼女なのかを確かめなければ、根本的な解決にはならないぞ?」

『えっ?』

 たっぷり数拍呆気に取られ、それでも柴野はこいつを頼って良かったと思う。乾いた笑い

が思わず出、対する湯浅も気持ち片眉を吊り上げながら向き直った。

 彼が言う。カイも驚いている。逆に当の湯浅は、二人に対してさも当然の工程だろう? 

と言わんばかりに告げるのだった。

「明日、彼女の病室に行くぞ。本人ビンゴならば、彼女は意識を取り戻せる」



 一応休みを取っているので、次の夜まで時間が空いてるには空いているが……要するに徹

夜をしろということでは? 柴野は気付いた時には内心げんなりしたが、ここまで来て徒に

先延ばしする理由にはならなかった。

 その日の明け、渡比奈が運ばれたという病院の開院時間を待って現地入りし、受付で彼女

の親族を名乗って部屋番号を聞き出す。ちなみに湯浅は堂々と方便を使い、先陣を切って院

内を登って行ったが、柴野は内心ビクビクしていた。もしバレたら大事になるんじゃ……?

という思いと、何より自身が見舞いの品と偽って布を被せて抱えていたのは、他ならぬカイ

の収まる小分けプランターだったからだ。

「ここか」

「でも……面会謝絶って書いてあるぞ」

「そりゃあそうだろう。事件以来、意識が戻っていないのなら」

「って、何さらっと開けようとしてんだよ!? 拙いって!」

 目的の部屋の前に辿り着き、されど扉の前に吊り下げられたプレートを見て、柴野は限界

だと主張する。にも拘らず、湯浅は構うことなくノブに手を掛けようとしていた。

「? 受付の時点でそうだろう? それに僕達は本人同伴なんだ。問題ない」

「いや、屁理屈! 大体それも、確かめなきゃ分かんなくて……うん? じゃあどのみち俺

の言い分は“詰み”……?」

 ぶつぶつ。ツッコミと迷いが追い付かない。

 なまじカイを抱えているせいで、両手が塞がっているのもあった。この旧友ともを直接止めら

れない状態というのも大きかった。

 こいつもう、完全に知りたい欲でごり押ししてやがる……。

「──あら? どちら様? 今日は誰も来るとは聞いてなかったのだけど」

 ちょうど、そんな時だったのである。

 不意に廊下の曲がり角から現れた、品の良さそうな中年女性に、柴野達はやんわりと声を

掛けられた。ビクッと弾かれるように凍り付く彼とは対照的に、じっと彼女を観察しつつ振

り返る湯浅。その台詞から、彼女が渡家の関係者だと判断する。

「もしかして、比奈のお友達?」

「はい。初めまして。彼女が運び込まれたと人伝に聞きまして、居ても立ってもいられず」

「あらあら。そうだったの……。ごめんなさいねえ、ありがとう。貴方達にも、心配を掛け

てしまったわねえ」

 期せずして出会った彼女は、比奈の母親だった。湯浅が話を合わせて情報を聞き出すに、

彼女は娘が強盗に襲われたあの夜以降、ほぼ毎日のようにここへ通っては面倒を見ているの

だという。迅速な措置で怪我の手当ても済み、一命は取り留めたものの、未だに意識を取り

戻さない我が子の為に。

「……先生には、もう目覚めてもいい筈だとは言われているんですけどねえ。昔っからあの

子は、ちょっとぼんやりさんだったから。こんな時になっても、まだ寝坊助なままなのかも

しれないわねえ」

『……』

 声色や雰囲気の柔らかさで大分誤魔化されているが、その実抱える心労は半端なものでは

ない筈だ。娘の友人と語る──騙る二人を疑うこともせず、ただ親切にその穏やかさを振り

撒く。湯浅は黙っていたが、柴野は改めて罪悪感に突き刺される思いだった。

 今日はもう、これが限界かもしれない。少なくともこの人がいる傍で、無理やり本人の寝

姿に突撃するのは──。

「おかあ、さん」

『!?』

 そんな状況を変えたのは、カイだった。それまでずっと、周囲にバレないように布の下で

息を殺していた彼女が、思わず感涙交じりの声を漏らしてしまったのである。

「っ……。あなた」

「あ、えっと。その、これは、深い事情がありまして……」

「……もういいよ、柴野。彼女には話してしまおう」

 ここまでボロが出た以上は。或いは湯浅からしても、ここで隠し通さんとするのは良心の

呵責があったのか。旧友ともの指示に一瞬目を見開く柴野だったが、遂に観念して被せていた布

を取り払った。そこに植わっていたプランター、人の形をしたカイワレ大根を目の当たりに

して、渡夫人は大きく目を見開いている。「お母さん……」感極まって見上げてくるカイを、

信じられないといった様子で見つめている。

「一旦場所を変えましょう。詳しい話はそこで」


「──そう。比奈、貴女、そんな所にいたのね……」

 柴野は観念をして、湯浅はそれが合理的だと考えて、二人は夫人を廊下の視界から外れる

場所まで誘導し、これまでの経緯を話して聞かせた。勿論当のカイ、比奈自身も己の言葉で

もって。どうやら記憶は、彼女との出会いでほぼぼぼ取り戻せたようだった。

「信じて、くださるんですか……?」

「ふふ? 信じるも何も、比奈は目の前にいるじゃない。私はこれでも、この子の母親なん

ですよ。娘の声を、顔を、見間違う筈がないじゃないですか」

「……そうですか」

 やっと母子おやこが再会できた。柴野は安堵していたが、同時にふいっと一抹の寂寥感にも襲わ

れていた。抱える小分けプランターの比奈と、綻んだ笑みを浮かべて積もる話をしている彼

女。これで事件は解決だ。湯浅も最早、無粋な言葉を投げることもしない。静かに目を瞑っ

て、既に物陰の中で思考を巡らせている。

「道理で目が覚めなかった筈よね。貴女はずっと、犯人達と闘っていたんだもの。助けを求

めて、彼の下に辿り着いていたんだもの」

「まあ、結局はほぼこいつ──友人の湯浅が色々と調べてくれたお陰なんですけどね」

「あらあら。そんなことはないわよ? 貴方がこの姿の比奈のことを怖がらず、今日まで守

ってくれていた。だから私も、目覚める前のこの子と会えたの。貴方でなければ、そこのお

友達さんも、ここまで協力してくれなかったでしょう?」

「……そうかもしれませんね。自分も最初は、眉唾物だと思っていましたから」

 湯浅の返答はあくまで淡白なものだ。妙に自分達を過大評価してくれる彼女に、これ以上

要らぬ情報を与えたくなかったのかもしれない。

「ただ、わたりさん。今回のことや、僕達のことは、あまり言い触らさない方が良いかと思いま

す。大抵の人間は信じてくれないでしょうし、それに──」

「ええ。貴方達の厚意も、無碍にしてしまいますものね」

 やはりか。湯浅が念の為に釘を刺した一言にも、彼女は的確な距離をの詰め方を見せてき

た。貴方達の厚意──翻せば、ことこの病院に来た折の身分詐称も含む筈だ。彼女個人とし

ても、娘を連れて来てくれた相手を、規則違反という一辺倒で罰させたくはないという考え

だったのか。

「……では、娘さんをお返しします。実際に目を覚ませば、またただのカイワレ大根に戻る

とは思いますけど」

 柴野は一瞬躊躇い、されど自身が抱えていた小分けのプランター、カイこと比奈の意識が

宿るそれを夫人に渡そうとした。記憶が戻り、家族と再会できたのだ。もうこれ以上本来部

外者だった自分が関わり続ける謂れなどない。

「柴野さん……」

「……いえ。ならばせめて、もう一晩一緒にいてあげてくださいな。この子もお礼一つもな

しに、はいさようならは薄情だと思っているでしょう」

 だというのに、彼女は少し考えるようにしてから、丁重にそれを断ってきたのだ。或いは

刹那残念がる表情をした娘の、心中を察したのか。「でも──」柴野が驚き、返されたプラ

ンターを所在なく抱える。湯浅がまた暫く黙っていたが、直後トンとこの友の背中を軽く後

押しする。

「なら、お言葉に甘えて……。行こう、柴野。長居すればまた誰かに見つかりかねない」

「あ、ああ……」


 その日の夜は、きっと柴野にとっても特別な一時となった。流石にこの雰囲気で夜勤に出

るのも憚られ、会社には別日に埋め合わせをするからもう一日休ませてくれと頼んだ。電話

越しの上司は大層ご立腹だったが、仕方ないと思った。まだ変に、プライベートを勘繰って

茶化してくるようなタイプよりは、ずっとマシだったのかもしれない。

 意外なことに、湯浅はさっさと先に帰って行った。元々彼が助けを請うて関わり合いにな

った訳であって、ミッション完了の時点でもうそんな義理はないということだろうか? 柴

野は帰って行った後の彼をそう部屋の中でぼやいたが、比奈の方は少し違った考えのようだ

った。「……そういう意地悪じゃないと思います」その時の声色が、妙に尻すぼみで、且つ

何だか緊張したようなものになっていたのが少し気にはなったが。


「……」

 床に就く前に、彼女と色々なことを話した。家族のこと、事件のこと。ようやく思い出し

た自分の記憶とルーツを、彼女は暫くとめどなく自分に話して聞かせてくれていた。一通り

話して、改めて礼を述べて頭を下げてくれていた。本当に感謝していると。このことは絶対

忘れないと。

(思えば、怒涛の一週間弱だったなあ。始めは、どうなることかと思ったけど……)

 部屋の明かりを消し、布団に潜り込んで幾許。柴野は悶々とこれまでのことを思い返して

いた。今までの常識では、考えられない出来事と、束の間の同居。それでも彼女の謎と何気

に身に迫っていた朽ち果ての危機は、頼れる友の観察眼と調査力で乗り越えられた。自分も

あいつみたいにPC買おうかな……? そんなことも考えた。普段触るのは精々スマホで、

頻度もそこまでじゃない。あいつのようにいざ何かあった時に選択肢を掬い上げられるよう

にしておくには、何だかんだ物理的な機材はあってもいいのかもしれない。

「……Zzz」

 たくさん話して、たくさん笑って。比奈は既に寝入ってしまっていた。クスッと柴野は布

団の中で笑みを零す。最初はあんなおどおどしていたのに、随分と変わったモンだ……。い

いやと思い直し、また別の意味で自嘲わらう。記憶を取り戻したあの姿が、本来の彼女なんだろ

う。自分はそもそも、何も知らなかったのだから。

 うとうとと、段々眠気が深くなる。消灯するまで語らい、興奮していたのだから、その分

反動も大きく沈み込む。

 これでぐっすり寝て起きた後には、またあの病院に向かうことになるだろう。彼女を母親

に返し、今度こそ一件落着だ。急な休暇周りで当面ギクシャクは残るものの、ようやく普段

通りの生活が戻ってくる。何も……何も、おかしなことじゃない……。


 今日も再び朝が巡ってきた。これまでは職場の関係上、起きるのはもっと時間が経ってか

らだったが、今回ばかりは目が覚めてしまう。まだ、朝日も昇ってきてそこそこ。世間一般

の人々が一日の活動を開始し始める頃に、柴野はむくりとベッドから身体を起こした。寝惚

け眼のままグシグシと目や鼻を擦り、ぼんやりと室内を眺める──眺めて、テーブルの上に

置かれたままのプランターが、よれよれのカイワレ大根に戻っていることに気付く。

「──っ!」

 弾かれたように飛び起き、彼は急いで出掛けていた。朝食? 身支度? 悠長に時間を掛

けている余裕はなかったけれど、現実問題時刻が来なければ病院は開かない。思わず焦った

自分に気付き、恥ずかしくなり、それでも独りアパートの中で一通りの準備を済ませると、

彼は例の病室へと足を運んでいた。渡比奈の、病室だ。

「! あら。確か……柴野さん」

「……どうも」

 昨日と違い、面会謝絶の札はもう取り払われていた。つまりはそういうこと。今朝見た変

化もそういうこと。

 息を切らせて病室に辿り着き、ドアを開くと、そこには既に母親──渡夫人がちょこんと

座っていた。まだ厚手のカーテンを引いたままの、気持ち薄暗い個室内のベッド。その主の

傍らで器用にリンゴを剥き、皿に盛り付けてあげていた。

「カイ!」

 喉に詰まる息、唾と言葉。

 数拍の間、引き延ばされた朝のまどろみの錯覚の直後、柴野は叫んだ。僅か数日であった

としても、同じ部屋で過ごした仲間。つい今朝方、本来の肉体と姿、記憶を取り戻して旅立

っていった女性ひと

「──」

 腰から下の半身をベッドに突っ込んだままの彼女が、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 頭や腕にまだ巻かれたままの包帯、何日も昏睡状態にあったことで、多少なりとも痩せこ

けていた顔。

 彼の声が耳に届いた瞬間、響いた刹那。その口元に、フッと僅かな弧が浮かび──。

                                      (了)

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