(2) 判官病
【お題】携帯、音楽、真
その日もシフト上がりの国彦は、帰りの電車に揺られていた。空いていた席にどっかりと
座り、イヤホンを繋いだスマホから、お気に入りの楽曲リストを再生する。今どの辺りを走
っているかは、電光掲示板を見れば判ることだ。雑多な音達を遮り、暫しまどろみに身を任
せ、愉しむ。
「──み。おい、君!」
「っ!?」
そうして周りの雑音から距離を置いていたせいだろうか。
何時ものように、ぼうっと束の間の時間を過ごしていると、突然強く呼び掛ける声で国彦
は意識を引き戻された。思わず目を見開き顔を上げると、いつの間にか見知らぬ男が一人、
若干斜め方向から立ち塞がるように立っている。
ばちっと黒紺色のスーツに身を包んだ、如何にも堅物そうなサラリーマン風の男だった。
眉間のそれを含めた顔の皺、背格好から見て、四十代から五十代くらいだろうか。二回りは
年上だと思われる。座っているのと立っているのと。お互いの体勢の違いも手伝い、相手は
明らかにこちらを“敵視”するように見下ろしている。
「席を譲りなさい。彼女が困っているだろう?」
『……』
他人のまどろみを邪魔してまで、掛けてきた第一声はそれか。
国彦は一瞬、そんな相手の慇懃無礼な物言いにムッとしたが、すぐに彼の言わんとすると
ころを理解した。見上げた視線のまま、片方のイヤホンを外して、されど漏れ聞こえ出すメ
ロディをスマホ側のアプリごと一旦切って遮断。その視線を、今度はゆっくり横へとスライ
ドさせて合点がいく。
スーツの男のやや斜め後ろ、自身の座っていたドア最寄り席と手すりを挟んだ向かいに、
背の曲がった老婆が一人立っていた。背中には大きめの風呂敷包みを結び、両手にも何やら
膨れた鞄を提げている。結構な大荷物のようだ。
要するにこの男は、自分が退いて彼女を座らせろと言いたかったのだろう。
プルプルと震えて──というか、申し訳なさそうにハの字に眉根を下げている彼女を見、
国彦は逆に不憫に感じてしまっていた。雑音が絶え間ない車内が、また少しずつ別の意味で
ざわめき始めている。
(何だよ、このおっさん……。つーかこの婆ちゃん、もう別の意味で困ってねえか?)
とはいえ、自分がイヤホンで音楽を聴いていたことで、彼女が乗り込んできたことに気付
かなかったのは事実だ。出発から何駅目だろう。いつの間にか利用客の密度が増え、他に空
いている座席は無くなっていたようだ。となれば、声を掛けられても仕方ないか……。
「……俺も疲れてんだけどなあ」
「君はまだ若いだろう! いいから退きなさい! そこは優先席だ!」
だというのに、対するこのスーツ男は、そんな彼の反応の遅さや僅かな愚痴を“反抗的”
と捉えたらしい。次の瞬間、再びカッと声を荒げて言い訳も頭ごなしに否定し、さも自分が
正しいと言わんばかりに席の背もたれ部分に貼られているステッカーを指差す。
「何? 何? 喧嘩?」
「しーっ、黙っとけよ。首突っ込むな」
「優先席一つで随分と揉めてんなあ」
『……』
流石に居合わせた周りの利用客達も、ちらほらとこちらに注目し始めていた。ヒソヒソと
言葉を交わしていたり、見て見ぬふりを決め込もうとしたり。どちらにしても、国彦にとっ
ては望んだ状況などではない。
「分かったよ。すまねえな、婆さん」
「い、いえいえ……。ごめんなさいねえ……」
正直なところを言えば、この男の態度にはムカついていた。相手が年下の、比較的若者だ
とみた挙句、イヤホンで音楽を聞いていた──そのせいで気付くのが遅れたというだけで、
さも“不良の輩”認定。
ただ……これ以上事を荒立てるつもりは毛頭なかった。手早くスマホやイヤホンを鞄の中
に押し込むと、彼はすっくと席を立つ。男側の言い分も一理あったからだ。だからこそ余計
に、内心イラッとはしたのだが。
「ささ。どうぞ、お母さん」
その後も、男はこの老婆をエスコートし、空いた席へを座らせていた。重ねて彼女が恐縮
して縮こまっているのを、何を思ってか、こちらには一ミリも見せなかった笑みを浮かべて
応じている。
(……アホくさ。こりゃあ車両も、移った方が良さそうだな……)
とんだ厄日もあったモンだ。しかしそんな出来事があっても、所詮は日常の一齣。そもそ
も全く面識も何も無い相手からの物言いだったし、怒り続けても何ら得することなんて無い
のだからと、国彦は二・三日もすればすっかり忘れていた。
理不尽というか、ああいう相性やら腹の虫が悪い他人と遭遇してしまうことも、まあ有る
だろう。彼は当初、そう努めて割り切って過ごしていたのだが……。
「──馳。ちょっといいか?」
「? うッス」
それは何時ものように、勤め先の飲食店でホールに回っていた時のことだった。ある程度
ピークが過ぎ、残っていた客も大方捌き終わった頃、店長が奥の方からちょいちょいとこち
らを手招きしてきた。心なしか、難しい表情をしている。
「何スか?」
「ん。まあ、ちょっとな……。これを見てくれ」
言って、店長が取り出して見せてきたのは、自身のスマホ。そこには誰かがアップしたと
思われる、とある諍いの一部始終を記録したショート動画が映し出されていた。
先日国彦が帰りの電車内で、スーツの男に席を譲るよう怒鳴られた一幕だ。
「これ……」
悪目立ちをした。その時点で、他人に撮られる可能性を全く想像しなかった訳じゃない。
このご時世、誰もが目撃者になるということは、告発者になるということもである。国彦は
思わず目を丸くして映像を見つめた後、説明を求めるように店長を仰ぐ。
「昨夜、常連さんの一人がうちのに見せてきたそうでな。“ここに映っているの、おたくの
店員さんじゃない?”ってよ。俺にも報告が上がってきて、頼んで元の動画を送って貰った
んだが……。お前で間違いないよな?」
「え、ええ……。自分ッスね……」
どうやら対する店長自身も、客経由で知らされたこの動画に動揺しているらしかった。国
彦を呼んだのは、一応の本人確認の為。別段隠さなければならないほどやましい出来事では
なく、彼も素直に自分だと認める。気付かぬ内に、このような動画がアップされていた──
拡散されていたことはショックではあったが。
「えっと。自分、帰りの電車に乗ってる時、音楽聞いてることが多いんッスよ。で、そのせ
いでお婆ちゃんが乗ってきたのに気付かなくって、それをこのスーツのおっさんに注意され
ちまってっていう感じです」
ショート動画の性質上、何者かに投稿・拡散されていた内容は、当日あった出来事の前段
階が少し端折られているようにも見えた。動画は、自分が例のスーツの男から無理やり叩き
起こされたところから始まり、さもこちらが老婆を無視していたようにも取れる。大方、男
の怒声で気付き、大元の投稿者はスマホのカメラを回したのだろう。最終的には早々にこち
らが折れ、席を立って隣の車両へ消えてゆく後ろ姿。空かせた優先席へ老婆を誘導する男の
横顔などで締められていた。
「そうか……。別に、お前はわざとこのお婆さんを立たせていた訳じゃないんだな?」
「ええ、勿論ッス。まあ傍から見たら、自分が無視していたように見えていたのかもしれな
いッスけど……」
少なくとも、嘘は言っていない。ただそんな当事者間の詳細を知らない不特定多数が見れ
ば、抱く感想は様々に違ってくる筈だ。店長は、まさしくそのようなものの悪影響を心配し
ていたのだった。
「ひとまず、それを聞けて安心した。まあ俺も、お前がそこまでやるような奴だとは思って
ねえんだがよ……。だがなあ、それとこれとは別問題なんだよ。動画を見て、お前を悪者扱
いしている奴がもうそこそこいる」
言って、店長が示したのは、このショート動画に寄せられている不特定多数のコメント。
大元の投稿者の意図は何だったのか? そもそもこれは転載された一部なのか? 今となっ
ては知ることも難しいが、事実としてそこに吊り下げられていた他人びとの声は、賛否に分
かれて荒れていた。言ってしまえば、局所的な炎上状態になりつつあった。
『何こいつ、感じ悪』
『まあ、今でも割といるよな。こういうずっと音楽聴いてたりゲームしてたりする奴』
『イヤホンもピンキリだし、物によっては普通に聞こえてくるからな~、マジ迷惑』
『おっさんグッジョブ! よかったね、お婆ちゃん』
『いや……。これ、本当にこの兄ちゃんが悪いのか? 見た感じ、おっさんに言われるまで
全く気付いてなかった風にも見えるけど……』
『なぁに。所詮は切り抜きよ』
『というかこれ、おっさんの方が迷惑になってない? 周りの音が被ってるけど、結構大き
な声で怒鳴ってるよね?』
『ああ、おっさんが正義の味方面してるパターンもあるのか』
『追っ払った後、凄いドヤ顔でお婆ちゃん座らせてるのもアレ』
『自己満マンか~』
『でも、気付いてあげなきゃずっと立たされっ放しだった訳だし……』
『どっちもツラが悪い。不良系vsヤーサン系』
『これ撮った奴も大概よな』
『他に居合わせて撮ったのってないのかな? 要検証』
『車両の内装とか、外の景色でどこ線とか分かったりしない?』
『【拡散希望】優先席に居座るイヤホン男、でしゃばり説教おじさん【どっち?】』
『特定班~、早く来てくれ~!』
「物は相談なんだがな……。馳、お前暫く、シフト減らしてくれないか? いや、お前が悪
いって言ってるんじゃねえんだ。ただ外野がうるさくなるとな……。減らした分は有給って
形にしとくから、ほとぼりが冷めるまで堪えてはくれねえか?」
「──」
実際、申し訳なさそうに言っている。お互いそこそこ付き合いが長く、人となりも知って
いるが故に、苦渋の決断なのだろうと国彦も受け止めざるを得なかった。ぺこぺこと頭を下
げ、店長は彼にそう、当面の対応に付き合ってくれと頼んでくる。
「分かり……ました」
「自分も店長達に迷惑を掛けたくはありませんし、フォローしてくださるんなら、暫くは」
実質、国彦に選択肢などなかった。まだ傷が浅い内に身を引けば、経営への悪影響も最低
限になるだろうと踏んでの申し出なのだろうと理解した。店長も店長で、一度問題が起これ
ば、グループ本社と自分達従業員と板挟みに晒されがちなのだから。
(……本当にあのおっさん、余計なことしやがって)
彼は内心、件のスーツ男に悪態を吐く。
結局こんな羽目になるのなら、始めから絡んで来なければ良かったのに。
***
物心ついた頃から、常に公正明大を心掛けて生きてきた。両親からの教えによるところが
大きかったというのもあるが、自分自身、目の前で繰り広げられる理不尽に黙っていられな
いという気質も合わさっていたのだと思う。
「……」
黒紺色のスーツをびしりと着こなし、職場のオフィスに出勤して、彼はこの日も大量の事
務仕事に追われていた。小さめのパーティションで区切られた自席で、黙々とキーボードを
叩いている。PCの画面上に計算書や報告用の文章が並ぶ。先日、国彦を“優先席に居座る
不届き者”として注意したスーツの男その人である。
「──源君。少しいいかね?」
ちょうど、そんな時だった。長く集中して業務に当たっていた彼の下へ、フロア一帯を任
されている上司がやって来て声を掛けた。彼直接の、という訳ではないが、所属する部門の
統括者的な立ち位置の人物である。
「はい。何でしょうか?」
彼こと源は、同じくこの時もすぐさま明朗に返事をしていた。上から下へ、下から上へ指
示や報告が飛んでくることは何も珍しいことではなく、寧ろ日常の重要なコミュニケーショ
ンですらある。
真面目に、それでいて曇りなく。彼は一旦作業の手を止めてこの上司に向き直って応じる
体勢を取り始めた。席を立ち、パーティションを回ってスタスタと歩み寄ってゆく。当の対
する上司が、終始険しい表情をしていたことにも気付かず、ましてや自分に非があるとは微
塵も予想しておらず──用件は何かと訊ねようとする。
(了)




