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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-146.January 2025
230/284

(5) 木加

【お題】告白、指輪、幼女

 思うに私は、母親になるという覚悟が足りなかったんじゃないか? 何となく周りに流さ

れるまま生きてきて、愛でられて。気付けば私の真ん中はずっとスカスカだった。大人にな

るにつれて忙しいとか、仕方ないとか、色んな言葉で自分を誤魔化し続けてきた結果なんだ

ろうと思っている。


『──華ちゃん、僕と結婚しよう』

 育人君からプロポーズされた時もそうだった。

 最初は取引先との飲み会に、人数合わせで参加することになった際、顔を合わせた面々の

一人でしかなかった。だけども物腰柔らかな性格と話が合い、気付いた時には彼からのアプ

ローチを受け始めて交際がスタート。四年ほどでそんな段階にまで進んだ。周りからも祝福

されて、私は昔で言う寿退社。彼との新しい暮らしを始めたのだけど……。

『……はい』

 正直なところ、そんな人生の一大イベントさえも、半ば成り行きに呑まれて進んでいった

ような感覚がある。お母さんには、人間の成長なんてものは、役割が出来れば後から付いて

くるものよと励まされたけど……私はそこまで楽観的にはなれなかった。世代が違う、と言

ってしまえばそれまでかもしれないけど。

 なまじ情報“だけ”は溢れている時代な分、ネガティブな話ばかりが知らず知らずに集ま

りがちなのも影響したのだろう。良くも悪くも、お母さん達の頃に比べて、今は事が始まる

前から知り過ぎる──そもそも選択肢がずらりと並んでいるのが視えているから。……ただ

でさえ、自分の芯みたいなものが希薄だった私には、それはきっと致命的だった。

 だけどそんな私を、育人君は優しく支えてくれた。新居に移って二年目、私が妊娠したこ

とが判ると、彼は益々仕事に励むようになった。少しずつお腹が大きくなってゆく私を気遣

い、必要なら有休を取ってでも付き添いをしてくれる。お父さんも、本人がいない所では悔

しがりながらも、よくできた義息子むすこだと褒めていた。

 ……嬉しい? 誇らしい?

 ううん。どちらかと言うと私は、申し訳ないと感じていた。そんないい人を、私は口説か

せて頑張らせているような気がして。女なんてそんなモンよ──相談しても、お母さんはや

っぱりそうやって笑っていて。根本的に、持って生まれた性質が違うんだなと改めて思い知

らされた。だから、せめて彼の期待を裏切らないようにしなきゃと思った。いい妻に、そし

ていい母に──ネットや本を買って色々予行演習べんきょうして、不安に押し潰されそうになりながら、

それでもお腹の子が産まれてくる時を待った。

 娘だと判った頃、彼と名前を考えた。

 奈々。語感は私に近い方がいいと、ニッコニコの幸せそうな笑顔を浮かべながら。


「ただいま……」

「たっだいま~!」

 それから三年。私は今、このの育児で毎日を磨り潰している。今日も保育園へ迎えに出

て、アパートの自宅に二人して帰ってくる。こっちは昼間の家事もあって疲れていたけど、

奈々はまだ元気そうだ。ぱたぱたと靴を脱いで廊下を──と、その前に玄関で揃え直してか

らまた立ち上がって、一目散にリビングへ走って行こうとする。

「奈々~。先ずは手を洗ってガラガラよ~?」

「うん~、分かった~!」

 園服の帽子を取ってやって、一緒に洗面所で手洗い・うがい。色んなことを、小さな内か

ら習慣にして覚え込ませることは大事だ。自分の幼少期を振り返ってみても、きっとお母さ

んから同様に色々と仕込まれたんだろうという結論に辿り着く。判って……やっぱり自分に

は荷が重いなあと感じてしまう。

(……。ふう)

 リビングに入り、奥壁側のドレッサーの前で結わっていた髪を解く。余所行きの上着も脱

いで、楽な締め付けに。化粧をした自分のどんよりした表情かおが、鏡の中で私を見つめるよう

に座っていた。

(もう少し、簡単な格好で行ってもいいのかなあ……? こう毎回気を張ってると、いつか

もたなくなっちゃいそう……)

 誰に言われたでもない。だけど外の目がある以上、下手にずぼらな服装で我が子を迎えに

行くのは宜しくないのでは? と思っていた。ただ現実は、そういった見栄的なものなど顧

みてくれず、とにかく頑張る分だけ自分が疲れる。同じ園のお母さん達に、どんな陰口を叩

かれるか、怖かったというのが大きい。

 正直叶うのなら、送迎に行くことすら休みたかった。自分のちっぽけさが辛かった。

「~~♪」

 普段着に替え終えた奈々が、リビングでテレビを観ている。年齢的に夕方のロケコーナー

が何をやっているのか解っているかは怪しかったけれど、ご機嫌で大人しくしてくれていた

なら万々歳だ。それこそ最初は……生まれて暫くはとにかく手の掛かる子だったから。

「……」

 子育ては大変だ。そんなことは、結婚前はおろか、交際前から厭というほど聞かされてき

た話だ。頼んでいなくても耳に入ってくる系の悲喜こもごもだと思う。

 だけど、ただ又聞きするのと実際に関わるのとでは、天と地ほどの差があると知った。ま

さかこんなに摩耗するものだとは想像以上だった。……同時に、お母さんを含めて世の中の

母親達は、何世代もずっとよくこんな苦行を続けて来られたなと不思議になる。

 それこそ、昔は他に選択肢が無かったというのもあるのだろう。今と違って女も男も、あ

る程度の年頃になったら結婚して子供を産み、家庭を作るのが当たり前だった筈だし、一々

疑問に感じている暇も余裕も与えられなかった筈だ。……実際、そこで立ち止まってしまっ

母子おやこは潰れてしまったんだろう。長らえなかったから、今日まで多数派ではなく、上の世

代から語り継がれる機会も乏しかった。

(私は、何の為に……?)

 気付けば大きく、何度も溜息を吐いていて。ぐったりと疲労が、二度三度と襲ってきて。

 認めざるを得なかった。私は行き詰まっていた。これから先何十年も、この子を一人前に

育てるミッションに人生を捧げなければならないことを思い。これまで自分の真ん中すらも

よく分からないままだったにも拘らずと、後悔して。

 ……少なくとも家族仲は、悪い訳じゃない。奈々は基本素直でいい子だし、育人君も私達

を養う為に日夜仕事に家族サービスにと頑張ってくれている。ただ、そうしたすぐ近くの人

の様子を見ている内に、私はある疑念に囚われるようになっていた。自分の悪い癖だと、何

度も戒めようとしながらも。


(育人君は本当に、私達のことを視てくれているのかな……?)


 詰まるところ、彼はあくまで“家族を養っている自分”に酔っているんじゃないか? 私

や奈々を、何処かで自分のステータスとして見ているんじゃないのか? そんな可能性には

たと気付いてしまったからだった。

 勿論、彼にそこまで露骨な悪意がある訳ではないのだろう。ある筈が無い。少なくとも私

が知っている彼は、たとえそれが仕事でも嘘を吐くのが下手で、どちらかと言うとそれで損

をするタイプだと認識している。なのに懲りることはなく、それまでの自分を曲げるでもな

く、日々一生懸命に働いてくれている。私達を養う為に、幸せの為に……。

「……」

 ぼうっと、堂々巡りの考え事をしていた。余所行きの格好から着替え、アクセサリーの類

も外して小箱の中にしまっておく。そうしてふいっと左手薬指に触れた時、私はそこに嵌ま

っている指輪をじっと見つめていた。あの日、彼が私にプロポーズした際に贈ってくれた、

小さな宝石粒があしらわれた銀色の結婚指輪──。

『ごめんくださ~い、宅配便です~!』

「! あ、は~い!」

 だから私は、半ば無意識だったんだろうと思う。

 次の瞬間、インターフォンから呼び出しメロディと音声が聞こえてきて、思わずこの時掛

けていた右手で指輪を抜いてしまっていたことにも気付かず。それを小箱にきちんとしまう

でもなく、鏡の前に置きっ放しにしたまま玄関へ駆けて行ったことも。



「う~ん、育人君宛てかあ……。勝手に開けるのは拙いわよね……?」

 届いたのは、彼へと送られたらしい小包が一つ。用心の習慣から、チェーンロック越しに

対応したこともあって、私がリビングに戻って来たのはそれから数分後だった。粗い目の紙

でぐるぐる巻きにされたそれは、パッと見では一体どんな中身なのかは判らない。

「って、奈々?!」

 しかし異変は、そんな僅かな時間に起きた。不意にドレッサーの方へ目を遣ると、先程ま

でテレビに齧り付いていた筈の我が子が、ぐったりとうつ伏せになって倒れている。

「ど、どうしたの!? 大丈夫!? 返事できる? 何でこんな、こんな……!」

 最初は、本当に訳が分からなかった。頭が真っ白になるというのはまさにこうした状況な

んだろうと思う。

 慌てて駆け寄り、娘を抱え起こす。意識が朦朧としているのか、私の呼びかけにも奈々は

反応が鈍くて応じない。口元から少し涎が垂れているのと、倒れていた場所がドレッサーの

前という情報に程なくしてピンときた。まさか……。思い出すように私も見上げて、鏡の前

を確認してみる。

「……指輪が、ない。奈々、貴方まさか、吞んじゃったの!?」

 答えを待つまでもなかった。ぼうっとしたまま動けない娘の身体を支えつつ、私は全身の

血という血が凍り付くような心地に襲われた。

 うっかり抜いたままの結婚指輪を、この子が? だとしたら拙い。素人の自分一人でどう

こうできるような事態じゃない。私は急ぎ、藁にも縋るような勢いで、119番に電話を掛

けた。繋がった電話の向こうのオペレーターにあくせくしながらも状況を話すと、救急隊の

人達が程なくして家までやって来てくれる。

「──失礼します。娘さんが、喉を詰まらせたと?」

「は、はい! 私がちょっと目を離した隙に……。多分指輪を……」

 身体と心の半分はずっと慌てている。その一方で残りの半分で、私は未だ冷静に状況を見

ているという感覚があった。駆けつけてくれた隊員さん達が奈々を囲み、くいっと開けさせ

た瞼や口の中にハンドライトを向けている。或いはそっと、軽く喉を撫でるように触り、詰

まった大よその箇所を確かめようとする。

「誤嚥で、間違いなさそうですね」

「意識の低下が激しい。処置を急がないと」

「最寄り病院、手配します!」「乗せるぞ。なるべく振動を与えないように……」

 いち、に、さんっ!

 詰まり所が良くないのか、奈々の眼はすっかり虚ろになって生気を失っていた。つい十分

ほど前まで元気いっぱいだった姿を見ていた分、私の胸は締め付けられる。その間にも隊員

さん達は、手早く症状を確認すると、皆で娘を担架に運び直していた。私もいそいそ、慌て

てその横へ付いてゆく。玄関扉の前まで来て、彼らの一人から告げられた。

「奥さん。念の為、ご主人にも連絡を取ってくださいますか? お仕事中とは思いますが、

娘さんのことはまだご存知ないでしょう?」

「えっ? あ……。は、はい……」

 正直、完全に不意を衝かれた一言だった。相手が真剣な表情と様子で告げてくるものだか

ら、余計に返す言葉も無い。

 この時も私は、半ば反射的に躊躇っていた。

 きゅっと無意識に、右手の親指と人差し指の輪っかで──空いていた左手の薬指を、隠す

ように掴みながら。

                                      (了)

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