(5) しまった
【お題】緑、箱、希薄
少年はその日、学校の貯水タンクの傍で見知らぬ物を見つけた。電子回路のような、緑の
ラインが各辺に走っている、不思議な小箱──金属質の立方体であった。
(何だ、これ……?)
校舎の奥まった階段を上がった扉の先、手入れも雑な打ちっ放しの物陰に音も無く。
ぱちくりと何度か目を瞬き、彼はおもむろにこれを拾い上げた。感触は案外つるっとした
絡繰仕掛け、掌に辛うじて収まるかどうかのサイズ感。加えて上面には、ボタンらしき出っ
張りが一個くっ付いている。
(……誰かが落としたのかな? 何に使うかは、全然分からないけど)
少なくとも周りに、自分以外の人間は見当たらなかった。そもそもこの場所自体、生徒・
教師含めて人気など皆無だ。事実、本来なら安全上の理由で閉鎖されている筈なのに、誰も
気にすら留めていないせいか、入口の南京錠がグラグラに緩んだまま久しく放置されている
ぐらいだ。
あーでもない、こーでもない。
彼はこの小箱をそっと掲げ、色んな角度から暫く観察してみる。
だが、最初に見繕った印象以上の情報は、何も得られそうにはなかった。寧ろ見上げる姿
勢を取ったせいで、屋上に注ぐ日差しともろに相対してしまった気がする。
──眩しくて思わず俯き、ぎゅっと目を瞑った。ふるふると首を横に振り、感覚の中で揺
らめく色付きの靄が消えるのを待つ。
ゆっくりと再び目を開き、彼は人知れず溜め息を漏らした。並ぶ貯水タンクで影ができて
いるとはいえ、季節は夏の盛り。そもそも真っ昼間の休み時間に、外に出るべきではなかっ
たなあと気落ちする。
「特に押しても……反応はなし。本当、何なんだ、これ?」
試しに上面のボタンを何度か押してみたが、小箱本体に特段目立った変化はない。音など
が鳴るでもなく、カチカチと僅かな感触が親指を伝うだけだ。
むう、と少年は眉を顰めていた。ならばと、今度は押しっ放しにしてみるが……やはり何
か変化が起こるでもない。
「はあ。せっかくの休み時間を無駄にした」
「せめてこの暑さだけでも、何とかなれば──」
しかし。ちょうど、そんな時だったのである。
そう誰にともなくポツリと呟いた次の瞬間、急に自身を包んでいた夏場の熱気が消え失せ
たように感じたのだ。明確な違和感、いや寧ろ“涼しい”を通り越した冷え──そこで彼は
ハッと気付く。ちらと視線を向けたのは、掌の中でボタンを押しっ放しにしていた、例の不
思議な小箱。
……まさか?
さっき、暑さをどうにかしたいと言ったから、こいつが周りにあった熱を?
(どうしよう。こんな訳の分からん代物、下手に捨ててしまうのも怖いし……)
それから数日、彼はずっと人知れず悩まされていた。クラス教室での授業も、休み時間の
華やぎも、今はその殆どが何処か遠い世界の雑音のように感じられる。
いや──煩悶する一方で、彼自身“好奇心”には勝てなかった。とりあえずはこの小箱が
一体何なのか? その仕様なり何なりを先ず掴もうとしたのだ。あれから、密かに色々と試
してみる内に分かったことが幾つかある。
一つは、その基本的な使い方。最初もそうだったが、上面に付いているボタンは押すので
はなく押しっ放しにすること。その状態で“しまいたい”対象を指定することで、基本どん
なものでもこの小箱は自らの中へと瞬く間に収納してしまえる。
二つ目に、現状その収納には際限らしい際限が見られないこと。量は勿論、質についても
だ。試しに家で出たごみの袋を指定してみると、一瞬で消失。明らかに小箱よりも大きく、
雑多なごみでパンパンになった袋だったのに、何の苦も無く目の前から消えた時には改めて
驚いた。そもそも最初、あの日屋上で自分の周りの熱という、ふわっとした──厳密にはき
ちんとエネルギー云々として存在する筈ではあるものの──目に視えない概念的なものまで
吸い込んでいたのだから当然と言えば当然だが。なのに肝心の小箱は熱くもならず、ごみ臭
くもなく、何より吸い込んだもの達でパンパンに変形してゆくという様子もない。
そして三つ目。これは後々で判ったのだが、一度小箱にしまったものも、同じくボタンを
押しながら指定してやれば吐き出されるらしいということ。前にしまった、そういう言葉を
予め付け加えてやると、逆の効果となるようだ。……だから、時と場所を考えて吐き出させ
ないと、大惨事になる。少なくともこれで、しまったらしまわれっ放しという事態は避けら
れそうではあった。
(……まあ、便利っちゃ便利なんだよなあ。これに入れてさえおけば、どんな荷物でも嵩張
ることを知らないし、中でぐちゃぐちゃに交ざっちゃう訳でもない。今日も漫画とか色々、
昼休み用に入れて来ちゃったし……)
正直、良心の呵責はある。ただ物が物だけに、少年は今日の今日まで、この懐に忍ばせて
いる小箱の存在をまだ誰にも話せてはいなかった。自分だけが知っている──それが普段、
集団の中でも目立たず、どちらかと言うと下に見られる側である彼の自尊心を満たしてくれ
る要素になりつつあったからだ。
なるべく、善良な活用を……。
家では細々としたゴミを見つけてはこの小箱で取り除き、休みの日には庭の雑草をごっそ
り取り払うといった用途に使ったりもした。当然家族にも見せず、ただ知らぬ間にやったと
いうその結果だけに驚かれ、幾許か褒められたが、結局天秤に掛ければ尚も後ろめたさが勝
るパターンがどうしても多い。
「で、あるからして。この数式は──」
「……」
今日も今日とて、数学教師の板書する内容と説明は全くもって分からない。
彼は内心思う。もっと自分にこの手の頭脳があれば、学力があれば、この小箱のトンデモ
機能やら何やらも解き明かせたりするのだろうか。
「よう。最近、随分と付き合いが悪いじゃねえか? ちょろっと耳に挟んでるぜ? 何だか
一人でコソコソやってるんだって?」
だからこそ、あの小箱をこういう奴らに渡しちゃあ駄目だと当初から思っていた。ただで
さえ好き好んで関わり合いになりたくはないのに、当の向こうはズンズンと近付いてくる。
意思の弱い獲物だとすっかり覚えてしまっている。
「げっ……! 武本……!」
入学当初から自分に目をつけ、度重なる嫌がらせをしてくる天敵・武本とその取り巻きの
連中だった。二年に進み、ようやくクラスも別になって解放されたかと思ったのだが、結局
奴らはこちらを逃がすつもりは無いらしい。
「ああ゛? 人の顔見てその反応は失礼じゃねえの? こりゃあ詫びをもらわねえとなあ」
「クスクス……。そうだなあ。ほら、ここ暫く“徴収”してなかったろ? 出せよ、オラ」
その日の放課後、彼は運悪く武本達のグループに見つかり、校舎裏の一角で包囲されてい
た。思わず身を強張らせたその態度にいちゃもんを付け、体格や数で勝るのをいいことに、
ほぼ恫喝のように金を出せとせびる。
「も、持ってない。そんな幾らも、使う予定もないし……」
「だったら降ろして来いよ! ゴラァ! てめえの都合なんざ聞いてねえんだよ!」
「コソコソ逃げ回りやがって……。だからいつまで経ってもてめえは雑魚なんだろうが!」
「知ってんぞ? 少なくともお前、昼は惣菜パンとか食ってるだろ。今までも揺さぶったら
出てたんだ。今更言い訳して通る訳ねえだろうが!」
嗚呼、こいつら……。
彼は口々に怒鳴られながら、改めて思い知らされた。こいつらにとって、所詮自分は体の
良いサンドバックなのだろう。暴力や金の無心。日々細々且つどうでもよいこいつらのスト
レス発散に、自分は使われているのだ。体格も劣るし、勇気もない。碌に抵抗もしないもの
だから、この一年弱でどんどん調子に乗ってきている……。
「ぐぶっ!?」
そんな思考が、流れる水のように雑多に溢れて、直後彼は武本に腹を蹴られて盛大に吹き
飛んでいた。粗い砂地面の上をゴロゴロと転がって、止まる。あっという間に顔やらあちこ
ちが擦り傷だらけになった。蹴られた腹がじんじん痛い。
だがそれ以上に──もっと見せてはならないものを、彼は武本達に見られてしまうことに
なる。
「あん? 何だあ?」
「何か落としたぞ。……箱?」
「貯金箱、でもねえな。出すなら財布にしろっつってんだろ」
「っ──!」
例の小箱だった。先程、蹴飛ばされた衝撃で懐から転がり出てしまったのだろう。
武本の取り巻き達が、怪訝な様子でこれに近付き、屈んで検めようとした。学ランのポケ
ットに両手を突っ込んだまま、パッと見で金になりそうにないとみるとさして興味は湧いて
いなさそうだ。
「かっ、返せ……っ!」
「お?」「おう? 何でい、一丁前に」
「……よく分からんが、お前にとって大事なものか。そうかそうか……」
彼は、少年は弾かれるようにしてこの中へ飛び込み、何とか小箱を回収した。身を屈め、
ゴロゴロと。再三、今度は自ら転がったそんな姿を目の当たりにし、武本がニヤリと文字通
り見下ろす体勢から言い放つ。
「だったら、嶋田。それを寄越せ。今日のところはそれで勘弁してやる」
「──」
明らかに嫌がらせ。こちらが必死になったものを、奪い滅茶苦茶にすることで快感に換え
ようとしている。同じ年頃の少年を、全く人間として見做していない。
彼は、嶋田は小箱を抱えたままギリッと奥歯を噛み締めた。とうに分かっていたことだっ
たが、改めて確信した。
こいつらは、屑だ。邪悪そのものな俺の敵だ。
キッと顔を上げて、それまで胸元に隠していた小箱を取り出す。「あん?」今回も大人し
く差し出すのかと思いきや、こちらに見せてきた表情はそうではない──生意気にも抵抗し
ようとするそれであると、程なくして気付き、剣呑な眼を向け始める武本達。
嶋田は、ぐっと小箱のスイッチを押しっ放しにして叫ぶ。
「消えろッ! てめえらみたいな人間は……死んじゃえばいいんだァァァーッ!!」
***
時はその後、前後する。誰もいなくなったその校舎裏の一角を、清掃員のおじさんがふい
っと通り掛かっていた。箒と塵取りを手にサッ、サッと歩を進めていると、何やら地面に見
慣れない小箱が落ちている。何だろう? 拾い上げ、何回か観察してみるが、緑色のライン
とボタンが一個付いただけの立方体としか判らない。
(ふ~む、落とし物かのう? まあ一旦、社の方に持って帰って判断を仰ごうか……)
『──はあ、はあ、はあ!』
『どこ、どこ、どこ!? くそっ! 一体どこに行っちまったんだよぉぉぉ!』
嶋田は、あの時の行動を酷く後悔していた。衝動的、今までの恨みが恨みだったからとは
いえ、あの小箱に命じれば“人間”だってその範疇だろうとは解っていただろうに。
武本達に追い詰められ、怒り諸々の鬱憤を爆発させながら叫んだ直後、文字通り件の小箱
は“彼らを消し”た。きっと本人達も、何があったか理解できぬ内に吸い込まれ、不思議空
間の中に閉じ込められているに違いない。
ただ……拙かったのは、彼らを消した後、嶋田自身がその光景に思わず動揺して逃げ出し
てしまった点にある。腰を抜かし、一目散に現場から逃げ去ることばかりに夢中で、その際
に肝心の小箱を落としてしまったことに気付かなかったのだ。
(ど、どうしたら? どうしたらいいんだ……? あれから散々探したけど、全然見つから
ないし。もしかしなくても誰かが拾ったのか? 先生? 他の生徒? どっちにしても、こ
のままじゃあ拙い……)
紛失に気付き、慌てて現場に戻ってきた時には既に遅し。件の小箱の姿は何処にも確認す
ることができず、更に職員室やクラスメートなどにそれとなく訊ねても、皆知らない・見た
ことないの一点張り。少なくとも前者に関しては、そもそも落とし物として届けられてすら
いないのか……? 実は雇われの清掃員が、会社の上司に繋いでもらおうと持ち帰るも、そ
のまま忘れてしまったとは、流石の嶋田自身も知る術は無い。
(どうすりゃあいいんだ? もうあれから、五日経とうとしてるんだぞ? 武本達がいない
ことぐらい、隣のクラスの奴らも気付いてる筈なんだが……。とにかく急がないと、あいつ
らを俺が消し去ったことになっちまう!)
奴らを元に戻すには、例の小箱が要る。あれを見つけて、もう一度ボタンを押して取り出
さなければならないのに……その肝心の物を見失ってしまった。気が動転、自分の不注意が
招いた事態とはいえ、このままでは永遠に武本達は戻って来なくなってしまう。
「どうした、嶋田? 随分と真っ青な顔してるが……」
「っ! あ、いや……。なあ、武本達って最近見ないけど、何か知ってるか? ほら、親御
さんとか、隣のクラスの奴とか」
だからこそ、焦りの中ふいっと自分に声を掛けてきたクラスメートに、彼はそれとなくぎ
こちなく訊ねてみていた。周囲が、他の皆が今の状況をどれぐらい把握しているのかを。
「……?」
「武本って、誰だ?」
まさか。まさか。
嶋田はその返答から、一つの恐ろしい仮説に突き当たってしまっていた。いや、彼の反応
や周囲の平穏無事っぷりを見るに、そうとしか説明が付かない。
あの小箱は、どんなものでも“しまう”ことができる。大小問わず物品であれ、熱や冷え
のような肉眼で視えないエネルギーの類、加えて一個の人間すらも。
そしてそれらを再び“取り出す”ことができるのは、あの小箱を持っている人間のみ。言
い換えれば、その誰かを吸い込ませたことを知っている者だ。
……ならばもし、時間が経って対象をしまったことすら忘れてしまったら? 取り出そう
にも、そもそも中に入れたことすら憶えてないのなら、理論上誰も彼の者をこちらの世界に
戻すことは叶わなくなる。……今まさに、そうなりつつあるのではないか? 自分が武本達
を衝動的に“消して”しまい、尚且つ何日もその復帰をさせなかったものだから。段々、最
早彼らの存在が無いものとして、他人びとの認識すらも目に視えない何かに引っ張られつつ
あるのではないか?
「はあっ、はあっ……! 先生! 小山内先生~!」
正直、恐ろしくはあった。恐ろしくて堪らなかった。
だが嶋田は、このまま彼らをこの世から抹消しておいて清々したと思えるほど、図太くは
できていない。放課後、校内を走り回ってようやく目的の人物を探し当てる。隣のクラス、
武本達の担任を務めている古文の教師だ。
「おやおや、嶋田君ですか。授業はお終いでも、廊下を走ってはいけませんよ?」
「はあ、はあ……! すみません……!」
丸い薄眼鏡をかけた、物腰柔らかな老齢教師。
嶋田は彼の前でブレーキを掛けて止まり、激しく両肩で息を整えながら、内心到底穏やか
にはなり得ない心地と不安に掻き回されつつ問うた。これで同じような答えが返ってくるな
らば、この悪い予感・仮説は的中してしまうことになる。
「……先生、その。武本君のことなんですが──」
故に、次の瞬間彼は絶望した。目の前が真っ暗になった。相手は仮にもクラス担任だ。本
人の性格的にも、ふざけてそんなことを言うとは到底思えない。
「武本?」
「うちのクラスに、そのような生徒はおりませんが?」
(了)




