(4) 激情
【お題】危険、業務用、主従
前々からおかしいとは思っていたんだ──取調室の刑事達に囲まれ、やがて男はそうポツ
ポツと語り始めた。少しずつ、改めてあの時の感情を思い出すように。或いはもう一度吐き
出しても良いものかと迷いながら。
ただ彼は……他でもなく、自らの意思で語り出したのだ。後者へと強く傾いてゆくにはさ
ほど時間は掛からないだろう。それが刑事達の、経験則及び勘である。
『だからッ!! 要らんと言っとるだろうが!!』
親父は昔っから、旧態依然からまるで進化もしてない、歩く化石のような人でした。
まあ、寡黙で頑固、根っからの職人肌……と言えば多少聞こえは良いですが、要するに酷
い内弁慶ってだけなんです。多少外面は良く振る舞ってこそいましたが、家に居る時の本人
を知っている自分達姉弟からすれば、基本“恐怖”の対象でしかなかったんです。本人も、
飴より鞭ってタイプでしたので、あの年代の大人ってのは大体そうなのかな? ぐらいの認
識でいたんですよ。若い頃は。
だけど……。歳を取るにつれて、親父の癇癪は酷くなる一方でした。
何か機嫌を損ねるような言動を見せれば、都合の悪いことがあれば、カッと怒鳴り散らし
て会話すら成り立たない。そもそも向こうは、自分の意に沿うようにこっちを持ってゆきた
いだけで、話し合い云々という概念自体が薄かった──下手糞だったのもあるんでしょう。
自分の妻や子供は、下だと見ていた。良くも悪くも、昔気質のままずっと生きてきて、疑う
ことすら無かったんでしょう。それとも……自覚し始めた頃にはもう、歳月的にもプライド
的にも、取り返しの付かないところまで来てしまっていたのか。
『で、ですけど……。これももう、随分と古くなってしまっていますし……』
『修理すればいいだろう! まったく、最近の若い奴は、どんな物でもすぐ新しく買い替え
よう買わせようと……。金は無限じゃないんだぞ!?』
老い、だったんでしょうね。
そんな元々の性分も合わさって、親父はすっかり感情の抑えが利かなくなってしまってい
ました。自分達も多過ぎるな、気を付けようなと話してはいたのですが、当の本人がこっち
の気遣いなんて知る筈もなく……。
それとも、本人的にはただ、自分が思っていることすら上手く伝えられずにモヤモヤし続
けていたと? ……分かりませんね。今となっては。大体何ですか、伝わらないから怒鳴り
散らすって。子供でしょうが。いやまあ、老化って意味では、確かに退行している部分もあ
りはしたんでしょうが……どちらにしたって“迷惑”以外の何者でもありませんでしたよ。
刑事さんだってそうでしょう? エスパーじゃないんだから。いくら肉親だからって、言っ
てもらわなきゃ分かんないですよ。
『ご、ごめんなさ──』
『麻美子、もういい。下がってろ。親父、いい加減にしろよ!? 朝から晩までガミガミガ
ミガミ……。何でそう、事あるごとに怒鳴る!? 萎縮させる!? これじゃあ安心して暮
らせない! 協力してこそ家族だろう!?』
『うるせえ!! 俺の言うことを聞かねえからだろうが!! この機械はなあ。俺がまだ親
方に弟子入りして浅い頃、やっと溜まった金で買った──』
『知ってる! もう何度も聞いてる! それでもガタが来てるんだよ、現実を見ろよ! 大
体修理だって、今も対応できる業者がどれだけ残ってると──!』
『いいの、いいのよ、あなた。修理……出しておくから。お義父さんがそうしたいって言っ
てるんだし……』
『……チッ』
子供の頃はイマイチよく解っていなかった──いや、解りたくなかったんでしょうね。あ
んな親父に、お袋はずっと耐えていたんです。あんな理不尽を、何十年も。ただ嫁に来た、
そういうモンだっていう時代の空気に従ってずっと、俺達を育てながら必死に耐えてくれて
いたんですよ。
でも、一昨年にそのお袋も亡くなって……。親父もぽっかり穴が空いてしまったのかもし
れない。今までずっと、黙って耐えて聞いてくれていた人がいなくなって、益々怒鳴り癖が
酷くなってしまったような気がしてならないんです。何より──その矛先がお袋から、妻に
向かうようになったことが自分には耐えられなかった。頭の何処かで、いつかこの男のせい
で妻と娘が殺されるかもしれない。そんな不安を抱えていたのは事実です。
『──こんのッ!! ●◇×◎■□××〇ァァァーッ!!』
ええ。自分が殺りました。あの日、また親父の怒鳴り癖が始まったと思ったんですが、こ
れまでとは様子が違っていました。妻にキレていたのはそうなんですが、こう……尋常じゃ
なかったんです。親父自身、もう後戻りできるボーダーラインを見失ってしまっていたとで
も言うべきか……。
『!?』
慌てて仏間に飛び込んだ時、親父は妻に手を上げようとしていました。一体何があったの
かは判りませんでしたが、とにかくその叫び声が奇声になるぐらいに怒り狂っていたのは確
かです。
『麻美子!!』
鈴が転がっていました。お袋への供え物が散らばっていました。
……はい。このままでは、殺されると思いました。だから自分は、二人の間に割って入っ
て、親父の顔面に全力の拳を──。
***
「どれだけ酷い癇癪持ちになっても、所詮は背丈が高いだけの爺です。自分でも思っていた
以上に、親父は大きくグラついて後ろに倒れていきましたよ。倒れて……棚の角に頭をぶつ
けて、ピクリとも動かなくなりました。そうして、唖然としていた自分達の前で、後ろから
ダラリと赤黒い液体が──」
長く沈黙を続けていた被疑者がそう口を開くと、事件の日の夜にあった出来事を事細かく
話してゆく。取調室の刑事達は、先日一人自首してきたこの男の苦悩に、暫くじっと耳を傾
けていた。彼は犯行当時を思い出すと、改めて両手で頭を抱えていた。軽くパニック症状す
ら見え、一旦これ以上供述を止めさせる。
「……鑑識からの報告通りですね。事件当夜、被害者である老齢の父親が後頭部を強く打っ
て出血。死亡。顔面に強く殴られた痕も有りとのことですから、彼が奥さんを守ろうとして
振るったパンチで間違いないでしょう」
「打ち所が悪かった、か……。班長。これ、もう自供で取っちまっていいですかね? 物証
はあっても、状況的に目撃情報はほぼゼロですし……」
事件自体は、それほど難しくない“親殺し”とみて間違いはなかった。
ただそんな中で、一人の若い刑事がスッと、この自首してきた男へ質問を試みる。いや、
厳密にはそれは“説教”であった。
「……奥野さん。こうなる前に何故、相談なさらなかったのですか? 我々警察でも良い。
行政や福祉、医療機関。貴方も御父上の症状に気付いていたのなら、もっと早く何かしらの
手段を打てていた筈です」
「はは……。無理ですよ。しなかった訳じゃない。定期的に通院はしていましたし、薬も服
用していました。医者にも再三話しましたが、結局家で面倒を見る他なかったんですよ」
何を分かったような口を。
全くもって笑っていない表情で力なく苦笑い、自主した男・奥野はこの若手刑事に恨みを
宿した眼で答える。
「入院? させてなんてもらえませんでしたよ! ただでさえ癇癪持ちで暴れると判ってい
るのに、嬉々として受け入れるとお思いですか? 遠回しにそう言われましたよ……。じゃ
あもっと専門の施設なら、とも検討しましたが、家にそんな金も無い。何処も部屋が埋まり
切って年単位での待ち。何より親父をそうやって“厄介払い”しよう・したと知れば、姉が
黙っていないですからね……。余所に嫁へ行って久しいとはいえ、あの人は昔っから親父・
お袋の肩ばかり持っていた。俺達弟妹を下に見ている節がある」
「達? ではもう一人?」
「ええ、妹が。ですがあいつも当てにはなりません。長男だからと家に縛られた自分とは違
って、昔からこの田舎を毛嫌いしていた奴でして……。都会へ出て行ってもう何年も会って
いません。頼ろうとしても、今まで通り連絡は全部無視されるのが目に見えてます」
どうしようもなかったのか? その問いはごくありふれていて、だからこそ人によっては
邪悪な“だけ”の善意ともなりうる。
彼の、奥野家の事情だけが特別に困難という訳ではないのだろう。ただ、対するこの若い
刑事も、その正義感が故にすぐには引かなかった。机を挟んで正面から向き合っている彼へ
ずいと気持ち身を乗り出し、直後吐き出される弱音を激しく否定する。
「……殺してくれ。もう、お終いだ。俺も家族も、全部」
「馬鹿を言うんじゃない! 奥さんと娘さんはどうするんです!? このまま一人だけ逃げ
ようだなんて許されると思ってるんですか!? そうやって後悔する理性があったなら、殴
る以外の止め方もあったでしょう!? きちんと償う。それ以外に、無いんですよ」
「…………」
だが、そんな若き後輩の肩をはしっと掴んで押し留めた者がいた。それまで周りを囲んで
いた刑事達のリーダー、先輩らが班長と呼んでいた人物である。
「小林。お前も喋り過ぎだ。一旦落ち着け。“俺達は裁判官じゃない”」
「──」
故にこの若手刑事・小林も、ハッと思い出したように振り返っていた。
それは彼に、彼らにとってのスローガン。班長たるこのベテラン刑事が、折に触れて皆に
言い聞かせていた自分なりの距離の取り方である。
『いいか? 俺達は裁判官じゃない。他人を裁くってのは本来物凄く難しいんだ。断片的な
情報や個々の感情にすぐ流され、冷静さを見失う。俺達警察官が問題なくホシを裁けるって
んなら、そもそも専門家としての裁判官は要らねえんだから。……いいか? あくまで俺達
は、ホシを見つけて証拠を固めるのが仕事だ。悪人は誰か? それらを慎重に判断する為の
準備を俺達は担ってる』
『だからな……。容疑者に一々、肩入れするべきじゃあない。少なくとも俺自身はそう考え
てる。冷静さを見失う。お前達一人一人が、取り返しのつかないほど擦り減っちまう。特に
根が善良なホシであればあるほどに、な……』
「す、すみません。班長」
「構わん。一旦お前は下がってろ。俺がやる」
そうして今度は、若手刑事の小林から、このベテランの班長へ。憔悴した奥野と改めて机
を挟んで真っ直ぐ相対し、彼はたっぷり間を置いてから訊ね始める。
「……若いのがしゃしゃり出てすまなかったな。ただ、署内で死ぬのはできれば止めて欲し
いところだが」
「ははっ、そうかい。偉いさんみたいだが、随分と正直に言うモンだ」
「今更取り繕ってもどうしようもないだろう? ことあんたの場合、そういうので随分苦労
させられたようだからな」
「……ああ、本当に。本当にそうだ。……刑事さん。実を言うと俺も正直、少しホッとして
る部分もあるんだよ。最終的に手を掛けるって形にはなっちまったけど、これでもう、親父
に振り回されることはなくなるんだなって」
「……。ふむ?」
だからだろうか。先ずは下手に出、吐き出した気持ちに寄り添われた“隙”に、奥野はふ
いっとそんなことを口走ったのだった。更なる感情。激しく動揺・上下して疲弊した後に、
自問して視えてきた表情。きっとこれから先、彼は妻子を含めて何もかもを失うことになる
のだろうが、一方ではそれまで己を縛っていたもの達から解放されたとも取れる。
班長が、数拍黙って肩眉を上げていた。
直後まるで、改めて確認するように言う。
「鑑識からの報告だと、親父さんの直接の死因は後頭部を強打したことによる出血死なんだ
が……あんたの認識としては、殴る瞬間、親父さんへの殺意もあったと」
「えっ──?」
謀られた?
そう容疑者が、奥野がようやく理解した時には、既に遅かった。思わず内心、胸の鼓動が
早くなるままに顔を上げるよりも早く、班長はすっくと一人机から立ち上がっていた。他の
刑事達、特に直前まで相対していた小林も驚いたような表情でこれを迎え、向けるべき言葉
を見つけられないでいる。急に不安になった奥野に背中を見せたままの格好で、班長はチラ
と肩越しに彼を一瞥すると言う。
「だったらこの件、過失致死じゃなく、殺人罪としての立件も視野に入る訳だ」
「そういうことだよ、あんた。小林も言った通り、罪は償わなけりゃあ。少なくとも事実ベ
ースでは既に、人が一人死んでる。その重み……だろ?」
(了)




