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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-140.July 2024
199/284

(4) スレイヴン

【お題】目的、脇役、恩返し

「小日向君、これやっといて」

「はい!」

「コヒっち~、ちょっといい~?」

「はい!」

「お~い、小日向~。昨日の資料のことなんだけど」

「はい、ただいま!」

 雑居ビルの一角に入る、小さなイベント会社のオフィス。その日も彼は、朝からバタバタ

と忙しなく走り回っていた。最早条件反射のように、上司に声を掛けられれば応じ、同僚や

年下の女性社員にすら何かと用件を持ち込まれる。

 彼自身、年齢的には三十半ば──もう若手とは呼べない層に来ていたが、入社順では一番

下。新入りだった。だからこそ彼は、この会社へ入ることになった“経緯”もあり、使い走

りのようなポジションをある仕方ないと思っていたのだが……。

「──」

 ただ、そんな明瞭ではないヒエラルキーが横たわる社内を、ある人物はじっと冷めたよう

な眼差しで見つめていたのだった。

 事業の性質上、四六時中飛び交うざわめきや電話。良くも悪くも一日はあっという間に過

ぎてゆき、日がな使い走りのように過ごした件の彼・小日向も、ようやく上がって雑居ビル

を出ようとする。

「よう。お疲れさん」

「あっ……。どうもです、烏丸さん。そちらも今?」

「ああ。小日向、お前、この後暇か?」

「えっ? まあ、暇っちゃ暇ですけど……」

 まるでオフィスという枠外、他の社員達の目が行き届かなくタイミングを待っていたかの

ような──そう捉えるのは考え過ぎか。

 ふいっと思いもよらぬ相手から掛けられた声に、小日向は少し警戒すらしていた。うっか

り馬鹿正直に答えてしまった……。或いは濁して余地を与えてしまいがちな“癖”さえも、

この大先輩・烏丸は織り込み済みであったのか。

「そうか。だった少し、飲みに行かないか?」


 すっかり日も沈んだ雑居ビル群を通り過ぎ、アーケードの横道から飲み屋街の一本へと入

ってゆく。

 烏丸が小日向を誘い、扉を潜った先は、全体的に薄暗く落ち着いたバータイプの飲食店で

あった。黒みのかかったグレーのスーツ上下、同じく寡黙で渋い印象のある彼によく馴染む

雰囲気の店である。

「──いやあ、しかし、烏丸さんから誘ってもらえるとは思ってませんでしたよ。いつも物

静かな仕事人ってイメージが強かったモンで……」

「実際、そういう方向性で生きてきた自覚はある。ただ小日向、その言い方だとあまり好い

印象にはならんぞ?」

「あ、すみません。俺はそんなつもりじゃ……」

「分かってる。あくまで一般論だ。俺も誰かを誘って飲むというのはあまりないしな」

 あたふた。自分とはある意味で正反対の、どっしり落ち着いた雰囲気を漂わせる先輩から

のサシ飲みに、小日向は店内に入って一息ついた後も緊張を残していた。何とか場をもたせ

ようと紡いだ台詞も、俯瞰すればやや浮ついている。

 ただ、対する烏丸本人は、それらをあまり重要視している様子ではない。今夜彼を誘った

理由に大きく絡んでくる要素ではないらしい。

「今日は俺の奢りだ。晩飯がてら、注文するといい」

「本当ですか!? ありがとうございます! じゃあこれと、あれとそれと……」

「……」

 無礼講、と呼ぶべきほどの席ではなかったが、小日向は烏丸からのその一言で大分元気に

なったようだ。一応程度は弁えた上で。幾つかの摘まみと小盛りの白ご飯、烏龍茶を一杯注

文する。烏丸はロックウィスキーと燻製肉、小皿のサラダを頼んでいた。

「そういえば、酒は飲めないんだったな」

「ええ。学生の頃、ちらっと試してはみたんですが、身体が合わなかったみたいで……」

「いいや、無理はしなくていい。すまない、失念していたな。ただ、お前とこうして直に話

すには、こうした場所の方が好都合だと思ってな」

「俺と……ですか」

 頼んだ品がある程度揃ってきた折、烏丸はそうぽつぽつと呟きながらも、先行してグラス

を軽く傾け始めた。カランと氷の鳴る音が響く。小日向はカウンター席の隣で、少し内心身

構え直していた。わざわざ自分なんかに、どうしてこの場を……?

「……。会社にはもう慣れたか?」

「? ええ。忙しくしてはいますが、何とか。色々ありましたが、やっぱり何かしら動き回

ってた方が下手に気を病まずに済むんでしょうね」

「かもしれんな。否定はしない。しないが……お前はああいう扱いでいいのか? 新入りと

はいえ、傍から見ていれば、あれは体のよい雑用係だろう?」

「ははは……。自覚はあります。ただまあ、ある程度仕方ないんじゃないですかね? 他の

皆さんとは違って、俺は“拾ってもらった”身ですんで……」

 淡々と指摘してくる烏丸に、彼は思わずぎこちなく苦笑わらう。

 しかし一方で、そうした問いを投げ掛けてきた当の烏丸は、彼のそんな回答こたえにじっと眉根

を寄せている。何か特に激情をぶつける訳でもないが、無言の圧的な気配がそこには在る。

「……やはりそういう認識、か」

「? はい。実際社長が、行き倒れてる俺を助けてくれなかったら、今頃どうなってたか分

からないですしねえ。前の職場とは勝手も業種も違いますけど、少しでも恩を返せるように

はならないと」

 摘まみのピーナッツを放り込んで咀嚼し、まるで模範解答テンプレートのような受け答えを一つ。小日

向はそう、言外に自分はまだまだだと己を評していたが、烏丸はやはりじっとそんな後輩の

表情を複雑な様子で見つめていた。グラスの中の氷が、ウィスキーの液面と連動して静かに

揺れている。

「あ。烏丸さんは、俺の前職とかの話って、どれぐらい?」

「拾った云々のくだりしか、直接聞いてはいないな。琥太郎の奴め……犬じゃないんだから」

「こた──ああ、葉山社長のことですね。社長もちらっと話してましたが、長い付き合いだ

とか何とか」

「ああ。ガキの頃からの腐れ縁でな。俺は元々、早期退職して静かに暮らすつもりいたんだ

が、あいつが『会社作るから手伝ってくれ』と半ば強引にポストを用意されてな。まあ、他

の元同期達と違って養うべき妻子もいないし、退屈よりはマシかと受けたんだが……」

 ただ、彼が今宵話したかったのは、己の身の上話ではない。ぽつぽつっと言いかけてハッ

と我に返り、若干無理やりに話題を小日向の方へ向ける。まだ頭に疑問符をくっ付けたまま

の後輩に、言わなければならないことがある。

「……小日向。悪いことは言わん。“恩返しの為に生きる”のは止めろ」

「え?」

 ばしゃり。まるで冷や水をぶっかけられたかのような、快活な瞳の奥の色が死んでゆくよ

うな、そんな反応だった。烏丸自身も解ってはいた。先に結論だけをぶつければ、こいつは

きっと混乱する……。

「さっきも少し話したがな。お前の現状は、体のよい雑用係だ。一応正式に雇用契約も結ん

でいるし、給料も支払われている。形式上大きな問題がある訳ではないが、今後のお前のこ

とを考えて──」

「だって社長は、俺の恩人なんです! 新卒で入った故郷の会社が、四年で赤字が嵩んで倒

産して。じゃあ今度は安定している所をって、長く続いてる大手の系列に何とか滑り込んだ

と思ったら、上のお偉いさんの不祥事で工場が休業──再開の目途も立たなきゃ、給料も碌

に入らないでアパートを追い出されて路頭に迷ってた俺を、じゃあ自分の所に来いよって言

ってくれた人なんです! 恩ぐらいは……返したい」

 小日向自身、カッと熱くなってしまっていたのは判っていた。思わず声に力が入り、基本

静かだった店内の視線が幾人か、数拍こちらに注がれたのも感じた。

 そこから更に十数秒。対する烏丸はじっとそんな彼の応答、顔つきや眼差しを見ていた。

一旦遮られた上で、改めて冷静に、諭すように言う。

「……こう言っちゃあ悪いが、あいつはそこまで深くは考えてないと思うぞ? 伊達に付き

合いが長いからな。確かにあいつは、物事に対する勘は鋭い──社会の自粛ムードが終わっ

たのを見て、すぐあの会社を立ち上げた。次に来る需要ってものを解ってる。ただそういう

全体の勘ばかりが鋭い分、個々の人間一人一人には関心がないんだ。『よく分からん。だが

雰囲気でやってる』とは、あいつの真顔な迷台詞の一つでな……」

「──」

 最初、小日向は何か反論しようと試みたように見えた。だがあくまで事実を丁寧に積み重

ねる烏丸、何より社長・葉山の幼馴染であるという生い立ちが、その言葉に強い説得力を持

たせていたのだった。

 熱が冷めゆくように、気持ち青褪めたような面持ちで座っている小日向。烏丸はそんな彼

の変遷にも十分気付いていながら、されど今夜彼をこうして呼び出した目的の為に言う。

「少なくとも、お前があいつに感じている恩義ほど、あいつはお前を特別視はしていない。

ただ、随分熱心に動き回ってくれているから、都合は良い──認識としてはその程度だろう

よ。あいつに誘われて集まった、他の似た者同士達も、大体はそんな感じと俺は見ている」

 カラン、カラン。少しずつ溶けてゆくグラスを何度か揺らして、烏丸は静かに喉を潤して

思考を整えた。小日向にも、同様の猶予を与える意図でもあった。ちみちみと、燻製肉の摘

まみを齧って飲み込み、横目でその様子を窺う。案の定、否定と肯定の間をうろうろとして

いる。

「受けた恩に報いる、その精神自体を否定する訳ではないがな……。何せあいつは、琥太郎

は、色々と大雑把過ぎるんだよ。イベントを開くんだからパーッとってなあ、掛かるものは

掛かる。まあ、俺が元々長らく会計担当──金勘定の仕事をやってきたから、その手の事務

には強いと踏んで声を掛けてきたんだろうが……。一応、あいつの近くにもそれなりの参謀

役はいるにはいるが、今までも会社を作っては畳んで、作っては畳んでを繰り返していると

も聞いている。そうした諸々を知っていると、お前の姿が不憫でなあ……」

「……」

 別段、露骨に葉山社長を貶めたい訳ではなかったのだ。ただ彼と長い付き合いがあり、長

所も短所も把握しているからこそ、自分達の下へはたと入ってきた小日向しんいりが心配だった。た

だそれだけの理由だったのである。小日向も、ようやく烏丸の意図を理解して沈黙。自身の

これまでの献身を思う。

「まあ、そういうことだ。歳ばかりくったおじさんの冷や水だと言われればそれまでだし、

あいつが君の、今の働き先を提供した相手であることは事実だ」

「ただまあ……そうやって“恩返しだけ”に全身全霊を注ぐかのような在り様は、俺からす

れば少々歪であるようにも見える。前職、前々職。君にも過去があって、それらを踏まえて

歩み直している精神は素直に尊敬こそするが、君の人生は君のものなんだ。少なくとも誰か

を引き立てる為に存在しているんじゃない。そうした献身を、人生の一部、誉れにすること

は往々にしてあるとはいえ、それが全てであってはいずれ君自身が立ち行かなくなるぞ?」

「──っ」

「もう四・五年もすれば、そろそろ体力でごり押すという貢献も辛くなってくるだろう。そ

の時“都合のよい雑用”と見做していた者達が、今まで通りに接してくれる保証はあるか?

謙遜は美徳だが、自分の安売りは止しておいた方が良い。能力の有無、高低の問題ではない

んだ。君が前職、前々職、二の轍を踏みたくないのなら……もう少し意識的にアクセルを緩

めてもいいんじゃないか? 俺は、これまで傍から見てきてそう思う」

「……」

 少し“熱”を入れて話し過ぎたかもしれない。滔々と、これまで彼に対して募らせていた

心配を吐き出して、烏丸は内心そう先ず反省の念が出ていた。

 おじさんの冷や水だと言われれば──いや、そのものじゃないか。

 とはいえ、自分の話した助言、思いに嘘偽りはなかった。実際こうして言い終わり、視線

がすっかり下がってしまった小日向の頬や肩には、大なり小なり日頃の疲れらしき兆候が見

え隠れしている。

「……俺に、会社ハローワールドを辞めろって言うんですか?」

「違う違う! そうじゃない! アクセルのベタ踏みを改めたらどうだ? と言ったんだ。

とはいえ、不服そうだな……。というより、分からない感じか。だったら一度、まとまった

休みを取ってみるといい。普段の仕事から離れて、何もせずにぼ~っと全身の力を抜く機会

を持つんだ。勿論、考えることあたまのほうもな」

 ややもすれば、また極端に走って行ってしまいそうな。烏丸は慌てて彼の第一声を止め、

努めてそれとなく案を出してみることした。想定していた以上に頑なというか、葉山達に対

する執着が強かったため、一旦物理的に距離を置ければと考えたのだ。

「休みって……。俺が抜けちゃって、大丈夫なんですかね?」

「先ずそう思考している時点で、大分重症だと気付け? まあ、確かにうちはそんな大きな

事業所じゃないが、そういった人員配置諸々を考えるのは本来、雇用者側の仕事だろう? 

できないのなら、マネージメント能力が無い。そもそも会社を興すべきではない。徒に過大

な業務を期待され、巻き込まれる従業員が増えてゆくだけだ」

「……そういうものでしょうか」

「そういうものだよ。俺自身が元々、そういう数字の上で白か黒かを判断する仕事を長くし

てきた、というバイアスも働いているんだろうがな」

 一応保険もとい、己という主語を薄めるよう努めた上で。

 小日向は暫し迷っていた。彼自身、日々の労働で疲れが溜まっていることに自覚はあった

のだろう。それを同じ会社の先輩、しかも恩人たる社長と付き合いの長い人物から提案され

たのだから、ある意味“完全な自己責任”ではなくなったというのもある。

「……今すぐ、とは言わない。それでも一日か二日か、少しでもいいから“前例”を作って

おくことは個人的に勧める。何事もゼロベースは自他共にしんどいからな。人間ってのは、

個々がイメージする以上に保守的なものさ」

「それは……ええ。そうですね。ちょっと、考えてみます」

 最後、少し解れたように苦笑いを浮かべたのは、日頃の使い走りでも経験した覚えがあっ

たからか。目的や効率を求めれば、先方が不快スイッチを入れてしまうことがままある。

「ああ。もし難儀が過ぎるようなら、こっそり俺に伝えてくれ。俺から琥太郎達の方へ、そ

れとなく釘は刺しておく」

「は、はい……。すみません……」

 烏丸も若干こなれぬ感じで苦笑わらい、本題を締めた。くいっと残っていたグラスを煽り、カ

ウンター席の上に置く。控えめで落ち着いたBGMが、店内の程良い暗がりと共に二人を包

み込んでくれる。


「──お~い。あ、そっか……。小日向休みなんだっけ」

実家おうちの用事でしたっけ? 詳しくは知らないですけど」

「まあ、月曜には戻って来るんだ。この週末、乗り切るぞ!」

『お~!』

 烏丸が昔馴染みに請われ、籍を置いている小さなイベント会社に、ごくごく小さなさざ波

が起きようとしていた。朝から上司や同僚、年下の女性社員達に至るまでがふと、それまで

当たり前のように仕事を振ろうとしていた“雑用係なかま”が──小日向の姿が今日は無い。先日、

土日を挟んだ有給を取ったからだ。

 気を取り直して、男性社員の一人が音頭。面々が再び業務に戻り始める。

「あれ? ここの備品って何処だっけ?」

「例の資料の元データ、差し替え前の奴って……?」

「お~い、お客さんが来たよ~。お茶出し頼む~」

「え? 分かんない? いない? おいおい。いつもならサラッと進んでたろうが」

 だが彼・彼女らは程なくして、その埋められない違和感を知ることになる。日々を支えて

いた細々な雑務、小日向が担っていた幾つものクエスチョンが、折につけて面々の手を煩わ

せ始めたのだった。

「……お前ら、小日向に色々とやらせ過ぎじゃね? どうすんだよ、今度のイベント? 本

番まであんまり日がねえだろ?」

「そ、そんなこと言われましても~……」

「そもそも、あいつを連れて来たのは社長じゃないですか~。上手くやってくれ~って」

「ああ、もう! 使えねえな! こんな忙しい時に!」

「……」

 オフィス内の上座で、そんな部下達の様子を半ば疑問符を浮かべて眺めていた葉山社長こ

と琥太郎。業務の停滞つまりが頻発して、遂に社員の一人がそう思わず悪態を吐き始めた。今は此

処にいない、少なくとも正当な権利と手続きを経て休みを取っている筈の小日向に向けて。

(使えない、か……。彼には悪いが、やはり琥太郎ありきで集まった手合いじゃあ……)

 そんな職場の雰囲気を、同じく出勤していた烏丸は黙して観察していた。

 カタカタ。表向きは自席のPCで収支の計算をしながら、片方の手をそっとスーツのズボ

ンポケットの中へ──既に起動させておいた、スマホ内の録音アプリに「保存」の命令を下

して。

                                      (了)

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