(5) 離想の君へ
【お題】脇役、歌手、燃える
もしかしなくても“大人になる”ってのは、自身に付き纏う万能感をことごとく排除する
ことが出来て初めて、ようやくそのスタートラインに立てる段階のことを言うんじゃあなか
ろうか?
社会の荒波に~、などとはよく云われるが、詰まる所は己との戦いに過ぎない。それを色
んな人間がやれあいつの所為だ、やれ社会の仕組みがそもそもおかしいんだと理屈を付けた
がる。自分を正当化することに熱心なあまり、いつの間にか手段と目的がひっくり返ってし
まって引っ込みが付かないでいる。ただ、それだけのことだ。
……だってそうだろう?
大体世の中の殆ど、下手すれば九十パーセントぐらいは凡人だってのに。どれだけ頭数ば
かり多い連中が頑張ったところで、その全員が一番になんてなれやしないんだから。二番だ
ろうが三番だろうが。周りをよくよく見渡せば、自分の上位互換的存在なんて絶対にいる。
上位数パーセントの上澄みならともかく、自身の代わりなどいくらでもいるのだから。
先ず認めなきゃならない。
俺達は基本、何もできないクソなんだと。
そうして現実をしっかり認識した上で、どう振る舞ってゆくかを決める。尚も足掻いて、
何か替えの効かない一番になるのか、その規模を小さくして落し所を見つけるのか。或いは
全くそこから降りてしまって、いち歯車に徹することを選ぶのか。
俺は結局、後者なった。
「──」
初夏という括りがここ数年、すっかり意味を成さなくなったある日、俺はいつものように
外回りに出掛けていた。繁華街と駅前への道を結ぶ水道橋の上を、人ごみの中に紛れながら
歩いていると、遠く頭上高層ビルの大型ビジョンに見覚えのあるアイドルグループの姿が映
し出されていた。華やかに着飾った少女達が、音楽や舞台照明に合わせて踊っている。テン
ションの高い歌詞を熱唱している。
(ああ、確かあの黒髪の子だっけか……。あいつが推してるってのは)
ハンカチで軽く汗を拭いながら、ふと以前同僚が熱く語っていたのを思い出した。画面の
一番正面、つまりはセンターの右隣で一生懸命に且つ楽し気に歌う彼女を、あいつはグルー
プのデビュー前から応援していたらしい。その時点でどの──グループ内の序列的には何処
にいたのか知らないが、センターの真横ということは少なくとも登り詰めて今に至っている
のだろう。若いのに、よく頑張れるモンだ。
(……言って俺も、そこまでオッサンじゃねえ筈なんだがなあ)
少年、と呼ぶには流石に無理があるが、世間一般的にはまだ社会人三年目。自分は高卒だ
から、その分歳月のアドバンテージがあるにしても。
画面の向こうで、一心不乱に踊り歌う彼女らをぼんやりと見て、今の自身の境遇と重ね合
わせてげんなりする。どうしてああもスポットライトを浴びて生きられる人間と、そもそも
許されなかった人間に分かれてしまうのか? ……詮無い思考だ。
お互い、皆が違う畑で自分の仕事を全うしているだけだと頭では解っている。解っている
のに、ふとああやって世の輝かしい部分に触れている誰かを目の当たりにすると、どうしよ
うもなく憎らしくなる。羨ましいとか、自分もああなりたいとか、そういうキラキラした同
化願望はとうに干乾びた。ただ逆説的に己の無力さを再認識させられてしまうばかりで、目
障りで、関わろうという気力が湧かない。加えて今日び、彼・彼女らの栄華というものは、
そう長くは続かないこともよく──厭でもよく識っている。
(不倫とか事件とか、スキャンダルはまあ本人の責任だが……今は訳の分からんことで難癖
が飛んでくる時代だからなあ。はっきり言って、正気の沙汰じゃねえ)
付ける側が、ではなくて、にも拘らず舞台の上に立っている彼・彼女らが、だ。成功次第
では確かに一攫千金、人生の勝ち組に伸し上がれる可能性だってあるが、一方でそうしたネ
ガティブな情報一つで全てがひっくり返るなんてパターンは腐るほどにある。
いや、寧ろ……ある種相当数の人間が、彼・彼女がそうなってゆくことを望んでいるので
はないか? 堕ちてゆくさまを愉しんでいるのではないか? と勘繰ってしまうことも珍し
くはない。まあそれも含めて芸能界──エンターティナーって奴なのかもしれないが……。
(俺は、嫌だね)
大型ビジョンから視線を外し、再び歩みを普段の速さに戻す。人ごみの中のざわめき、街
の音。それらに全て吸い取られるように、彼女らのパフォーマンスは“消費”されてゆくの
だろう。自分なら……きっと耐えられなくなる。こんな雑踏、有象無象の束の間の快楽の為
に、己を売るような商売。自己顕示欲やら何やらで釣り合いの取れるような感性の持ち主で
あれば、或いは天職なのかもしれないが……なまじ生まれた時から“炎上”で壊されてゆく
他人を見続けてきた世代の一人なんだ。少なくとも、額面通りにキラキラした世界じゃない
筈だ。勿論彼女達だって、分かっていて飛び込んでいるのだろうし、努力を続けた結果今が
あると理解はしているつもりではあるけど。
(……やっぱこういう時は、あそこに限る。行くか)
行きがけ、近くのコンビニで軽く昼飯を買った上で、俺の足は先程の水道橋から迂回。昔
ながらの飲み屋街の路地裏を更に奥へ入った、人通りなどまるで無い、ビルとビルの間に辛
うじて広がっているような小さな空き地へと辿り着いた。
頭に響いてくるような雑踏も、何より直接頭上から降り注いでくる日光も無い。とても静
かで涼しい。ここ一年ほどで見つけた、俺の隠れ家的お気に入りスポットだ。コンビニの袋
を一つ、いやもう一つ腕にぶら下げて手近な石に座ると、それを合図とするかのように路地
のあちこちから愛い奴らがやってくる。
『ナ~?』
『ンナァ~?』
『ニャア~ン!』
「よしよし……。よく来たな、ちょっと待ってろ。お前らの分もちゃんと買ってあっから」
猫達だ。どいつも首輪はしていないし、おそらくはこの近辺に棲む野良だと思う。
それがどういう訳か、俺がここでこっそり涼んでいる内に、飯をくれる人間だと憶えてし
まったらしい。いやまあ、最初につい分け与えてしまった俺のせいなんだが……。
家のアパートでは、規則でペットの類は飼えない。だから余計の事、俺に懐いてしまった
こいつらを邪険に扱うこともできなかった。……多分、他にも誰か、飲み屋街のおっちゃん
やおばちゃん辺りにも似た感じで可愛がられているんだろう。野良とはいえ、ほぼ初対面の
時点であそこまで人慣れした様子だったのはそうとしか考えられない。だからと言って便乗
していい理由にはならないが……。
『ンナ~!』
『ニャアッ!』
「ほいほい。喧嘩すんな、仲良く食え? あんまり量買ってると怪しまれちまうしなあ」
自分の昼飯ついでに勝っておいたツナ缶を、開けて人数──匹数分紙皿によそう。途端に
猫達は群がって食い始め、実に元気に鳴き声の連鎖。ただそれも一旦食うことに集中し始め
るからか、すぐ静かになって見た目一つの毛玉みたいになる。……つーか、前よりも数増え
てねえか? 文字通りぺろりと、猫達はこの顔見知りの男が持ってきた餌を短時間で平らげ
てしまう。
「早えな……。下手すると俺の一食分より高ぇんだぞ、これ……」
ただそれでも、俺自身はニャンコ達とのんびりするこの一時が密かに楽しみだった。俺が
危害を加える人間ではないとも学習してくれているのか、食い終わった後もさあ撤収ではな
く、暫く傍でゴロゴロ喉を鳴らして擦り寄って来たり眠り始めたりする。
何度か回数を重ねて、今ではそんな小休止モードのこいつらを撫でてやれるぐらいまで距
離が縮まった。何匹かは先に撫でられ待ちと言わんばかりに、俺の膝の上に乗ってくる奴ま
でいる。
「……はあ、癒される。やっぱ動物はいいなあ。人間とは違って、面倒臭いあれこれが絡ま
ねえし」
もふもふ。暫くニャンコ達の感触を堪能した後、つい喉を衝いて出る言葉。
一瞬ハッとなって口元に手を当てたが、幸い今回も近くに他人の気配はなさそうだった。
相変わらずしんと静まり返っていて、別世界のように涼しい。撫でられたまま気持ち良さそ
うに目を瞑る奴らの横で、他の何匹かがくいっと顔を上げてこちらを見ている。
「ああ。何でもねえよ。こっちの話さ。俺も、お前らみたいになれたらなあ……」
こいつらだって、少なからず一匹一匹に感情はある。思考力だってある。
それでも安堵できるのは、こいつらが人間じゃないかだろう。お互い物理的・精神的に距
離というか、関係性を詰めないし、詰めないようにしているからこそこの空間が維持できて
いる。成立している。これが対人間なら、気が休まるどころか逆に疲れているだろう。
(……。やっぱ俺って、社会人そのものに向いていないんじゃ──?)
有り体に言えば、人間嫌いという奴だ。どうせ上げては落とし、こっちを替えの効く玩具
ぐらいにしか見ていない生き物を、どうやって好きになれっていうんだ?
猫達に苦笑い、内心でそうモヤモヤとしている最中に、スマホの着信音が鳴り響いた。驚
いて大きく飛び退かれてしまうのを悔しく思いながらも、俺は急いで画面をタップして応答
する。
「あ、はい。もしもし」
『もしもし? 古谷、今何処だ? 駅には近いか?』
「ええ、一応。水宝橋の──近くの店にいます。先に昼飯を買っておこうとしてたので」
『おお、そうか。なら大丈夫そうだな。悪いんだが古谷、先方が予定よりも早くこっちに着
きそうでな。迎えに行ってくれないか?』
「えっ? はい……。元々その予定ではありましたし……」
『助かる。どうもこっちが聞いていたよりも、何本か早い電車に乗っちまったみたいでな。
俺達もすぐ出るから、それまで何とか間を持たせといてくれ』
電話の主は、会社の先輩だった。今日、昼前に合流して先方と商談──の予定だったのだ
が、どうやら当初の時刻よりも前倒しになるらしい。まあ、逆に遅刻されて午後からのスケ
ジュールがズレ込んでしまうよりはマシではあるけれど。
「了解です。では、向かいますので失礼します」
『おう。頼んだ』
あくまで口調や声色は丁寧に。隠れて涼んでいたことがバレないよう、受け答えには細心
の注意を払って、俺は通話を切った。にわかにピンと張った緊張の糸を緩めて、気付けば離
れた位置にぐるり陣取っていたニャンコ達と顔を見合わせる。
「……悪ぃな。俺、そろそろ行かなきゃ。仲良くやれよ? また暇見つけて来るからな?」
急いで紙皿やら缶詰をビニール袋の中に押し込んで片付けを済ませると、名残惜しいなが
らもこの秘密空間を後にする。もっとニャンコ達と戯れていたかった。……畜生、ぴったり
時間を合わせることすら満足にできねえのかよ。
***
最近、お仕事の合間を縫って、こっそりと通っている場所があります。水道橋のある大通
りから裏路地を入っていった先にある、ビル間の小さな空き地です。
外国人の観光客を含め、とにかく騒がしい印象のある橋の側とは打って変わって、ここは
とても静か──びっくりするぐらい人気が無くて、何より直接日差しも来ない、夏涼むには
絶好の場所です。私はここを密かに“ニャンちゃんの隠れ家”と呼んでいました。
『ンナ~』
『ナァァン……?』
そうです。実はここ、人懐っこい猫ちゃん達が集まってくる穴場中の穴場なのです。
「はいはい~、お待たせ~♪ やっと来れたよ~、すぐご飯用意するからね?」
すっかり私のことを憶えてくれたニャンちゃん達が寄ってくるのにニヤニヤしながら、手
提げバッグの中に忍ばせたチュールを開封。
アイドルという職業柄、普段の生活は他の人達が思う以上に制限が多くって。何より同じ
グループ内、事務所が同じだったり時期が近い姉妹グループ同士での主導権争いが日々バチ
バチに行われていて。……そういう業界だから。人気投票がイコールポジションに変わる仕
組みだから仕方ないんだと、頭の中では分かっていても、やっぱりしんどいものはしんどく
って。
メジャーデビューの前、まだ劇場でやっていた頃はそこまでじゃなかったのに、いざテレ
ビやネット番組に出演するようになってからはお互いが仲間じゃなくてライバルになってし
まった。仕方のないことだけど……正直哀しい。私が前回の総選挙で三位になってからは、
特にそういうあれこれが私自身にも明確に向いてくるようになった。
これが芸能界。表向きはニコニコ笑顔を浮かべていても、その足元ではガシガシ互いの足
を踏みつけ合うような関係性。そういうエネルギーも、確かに場合によっては歌や踊りへの
力に変わるかもしれないけど、だったら真っ当にそっちへ熱量を注ぎ込めばいいのになと思
うのです。エネルギーの無駄……と言うと辛辣なんだろうけど、いざ何かしら表沙汰になっ
た時、一番傷付くのはファンの皆の筈だから……。
「はい。召し上がれ」
『ナァァ~ン!』
差し出したチュールに一本に一匹ずつ、ニャンちゃん達がお行儀よく被り付いてきます。
それこそ最初は順番なんて関係なく、我先にといった感じだったけど……何度も私が言い
聞かせている内に憶えたみたい。頭が良いというか、そもそもが凄く人慣れしているっぽい
んだよね。見た感じ、皆首輪がないから野良ちゃんだと思うんだけど、近所の人達にも可愛
がってもらってるのかな? それなら、わざわざこんな所にまで集まってきてスタンバイす
る必要もないのに。
(……他にも誰か、私みたいに餌をあげに来ている人がいる?)
確証はありません。ただこの子達の人慣れ具合と、ここに来たらご飯が貰えるという経験
則みたいなものが働いている風に見えることから、可能性は高いと考えていました。
そうでなければ──そんな物好きで、誰に誇るでもない営みを続けている人が先に走って
いなければ、この子達もこれほどまでに“安心”した様子で集まって来ない筈ですから。
(きっと、とても優しい人なんだろうなあ。どんな人なんだろう……?)
ゴロゴロ。
一しきり食べ終わって満足げなニャンちゃん達を愛でながら、私は暫くこの秘密の幸せ空
間での一時を過ごしていました。この子達は向こうから近付いて来るし、撫でられるのを待
っているような、時には催促してくるような素振りさえ見せてきます。実際にそっと撫でて
あげると凄く気持ち良さそうで……私も気持ち良い。ニャンちゃんは、本当に癒される。
「ねえ、貴方達? 私以外にもご飯をくれている人っているの? その人にもこうやって、
たっぷり甘えても許してくれる?」
答えてくれる筈もない。こっちの言葉が解っているとは思えない。
だけど私は、気付けばニャンちゃん達に訊いていたのでした。ゴロゴロと喉を鳴らし、時
には傍でお昼寝を始めてしまうぐらい気を許してくれているこの子達に、まだ見ぬもう一人
の誰か──優しい善意の先輩の正体は誰なのか?
「会いたいなあ……。ニャンちゃん好きってだけで、大分ポイント高いよ~? ね~?」
『ンナァ~?』
「──」
***
例の秘密空間に行こうとしたら、先客がいた。いや、それも割とのっぴきならない情報な
のだけど、もっとヤバい光景がそこには広がっていた。
おずおず。物陰から必死に息を殺して何度か覗いたが……間違いない。長い黒髪を帽子の
中に隠したり、地味めの上下で性別も中性的に装ってはいるが、あの横顔とほんわかした声
色には覚えがある。うちの同僚がそのメジャーデビュー前から推している、人気アイドルグ
ループの二番だか三番手、新田妃依奈だ。
(は……? 何で、何で何で!? 何でテレビにも出てる芸能人が、こんな路地裏で猫と戯
れてるんだよ!? つーか危ねえだろ! マネージャーはどうした、マネージャーは!?)
ニッコニコ。
チュールらしき餌で集まってきたニャンコ達にじゃれつかれ、デレデレの横顔を曝してい
る現役アイドル。面識もクソもねえが、あれは解る……同じニャンコ好きの顔だ。いや、そ
うじゃなくて。これって拙くないか? 見つかったら俺、色々と“詰み”になるんじゃなか
ろうか? ここが“俺の”秘密空間ではなくなるということもそうだし、世の男どもが熱を
上げるアイドルと、こんな所で知り合いになってしまう。
何よりあの娘──今、俺に「会いたい」って漏らしてなかったか?
(いやいやいやいや!!)
都合が良過ぎだ。もしかしてもう、こっちに気付いていやしないか?
この状況を目の当たりにしたら、ファンの同僚は狂喜乱舞するかもしれない。だが俺とい
う人間に関しては、この場面は非常に拙いものだ。生まれてこの方ずっと凡夫、世のトップ
クラス達の輝きを可能な限り見ざる・言わざる・聞かざるしてきた自分にとって、このまま
仰せのままに出会ってしまっては“巻き添え”で燃えかねない。ことアイドル界隈なんて、
一旦そういう話が出たら最もヤバい類じゃねえかよ……。
『人気アイドルN、熱愛発覚?』
『お相手は一般男性。五つ年上のサラリーマン』
(冗談じゃねえ! 女はともかく、野郎どもに殺されるなんて洒落になんねえぞ!)
脳内にパッと浮かんだ、週刊誌報道的な見出し。
ぶっちゃけその語彙だけで俺も、紛うことなき男子なんだとは思ったけども……今はそん
な場合じゃない。とにかく急いで、且つ慎重にこの場を離れることにする。
この前と同じように買ってきた、ニャンコ達用のツナ缶と自分の昼飯のビニール袋を腕に
下げていたが、鞄ごと抱え込むようにして全力で消音。彼女があげているなら、餌それ自体
は問題ないだろう。惜しむらくは、肝心の俺自身がニャンコ達を愛でられないという、只々
その一点に尽きるのだが。
(……しかしアレだな。あいつらには悪いが、もうここには来れねえな……)
(了)




