(2) L.I.C
【お題】水、裏取引、世界
「──私はただ、目の前で苦しみ続ける患者達を救いたかっただけなんだ」
古く苔むした屋上の縁に座り込んだまま、男はゆっくりと吐き出すようにごちた。
積年の思い、後悔。かつて自らホスピスを営み、終末医療の一端を担っていた医師として
の面影は今や何処にもない。着古したボロボロの衣服に身を包み、酷くやつれてしまった無
精の髭面でじっと眼下を、ビル群を浸す淡い黄色の水面を瞳に映している。
「……」
そんな彼の横顔を、少し距離を置いて相対する青年は、静かな怒気を蓄えた眼差しで睨み
付けていた。
同じく服装は着古し、お世辞にも綺麗とは言えない。だが現在となっては殆どの生き残り
がそんなものだろう。コートの下に、ギチッと何かを隠し持ちながら。
「君は目の当たりにしたことがあるかい? 最早手の尽くしようのないほど病魔に侵され、
ただ死を待つだけの彼らを。逃れられない痛みに苦しみ、一日を耐え凌ぐことがどれほど身
を削ってゆくのか。……地獄だよ。彼らにとっては、一日はおろか、一分一秒すらも酷く長
い時間に感じられていた筈だ」
「……だからあんたは、あの薬を作ったのか」
「ああ。世の中の仕組みが許さないとは分かっていた。だが日々目の前で苦しみ、魘される
ように私へ“終わり”を懇願してくる彼らを……口先ばかりの綺麗事で騙くらかすことなど
できなかった。現在の医学ではもうどうしようもない以上、せめて彼らには平穏な最期を迎
えさせてやる義務がある」
終始青年は、口をへの字に曲げて不機嫌の極致にあった。努めて一番の衝動を押し殺して
問うと、男はさも仕方なかったと言わんばかりに同意を求めてくる。哀しい表情だ
った。医療諸々など青年には門外漢だったが、男は男なりに酷く悩んだ末に切った舵だった
のだろう。……少なくとも本人は、そう主張している。
「とある製薬会社の研究員だった古い友人の助けを借りて、私は可能な限り最期の最期まで
苦しむことのない、新たな処方薬の研究を始めた。古今東西、安楽死に用いられてきた薬品
は幾つもあるが、どれも服用方法や患者との相性次第で不完全な発揮となるものが少なくな
い。そうではなく、一旦投与すれば誰しもが確実に、そしてゆっくりゆっくりと本人が自覚
できずに逝く。そんな効能が理想だった」
「……そうして出来たのが“LOOSE600”って訳か」
「そうだ。あの薬は被投与者の神経伝達を鈍らせ、同時に身体中の細胞を機能停止させる。
投与後およそ六十分で、その効果は身体の隅々まで行き渡り──感じる余韻さえ与えず一気
に絶命たらしめる」
かつて、元ホスピスの医師が執念の下に生み出したのは、そんなこれまでにない安楽死に
特化された薬剤。とかく自ら最期を決めたいとと望む患者に対し、その穏やかな幕引きをも
たらす為だけに作られた禁忌の新薬。
「はっ! 要するにやってることは人殺しだろうがよ。結局てめえがあの薬を世に出した所
為で世の中は、俺の家族は──!」
「なら患者達を、苦痛に悶えさせながら生き長らえさせれば良かったのか!? 何も見てい
ない癖に分かったような口を利くな! 私だって……あんなこと……起こすつもりなどなか
った。あんなことの為に研究したんじゃない……!」
青年は遂に耐え切れずに感情を爆発させ、真正面からこの男の願った道を断じて詰る。男
も男で、ふいと自分の下を現れた──十中八九追ってきた彼の罵倒に黙ってはいられず、死
んだような眼をギラつかせて反論する。
しかし次の瞬間には、男は思い出し方のように酷く苦しみながら頭を抱えていた。
事実としては全くもって青年が正しい。だがそれはそれとして、現在のような状況になっ
たことに関しては、彼とて決して本意ではなかったからだ。
「……知ってるよ。てめえを追う途中で色々調べた。まあ、今生き残ってる奴らの中じゃあ
ほぼ常識みたいな感じになってるが」
「……だろうな。そうでなければ、私も長年逃亡生活など余儀なくされてはこなかったよ」
LOOSE600が広く世に知られるようになった切欠は、男のホスピスでそれが使用さ
れるようになったからではない。男と共同で秘密裏の研究を続けていた件の友人、その彼が
所属していた製薬会社から、研究データが何者かに盗まれたことに起因する。
「どのような事情であれ、この国では安楽死は殺人罪。嘱託殺人だ。新薬が完成間近となっ
ても、そう易々と“治験”を行える訳じゃない。私達はとにかく慎重に、秘密裏に、数値と
して信頼できるデータを取らなければならなかった」
「だから、自分のホスピスの患者を使った、と?」
「……新薬の効果については、事前に詳しく説明した。その上で、本当に打ちたいと希望す
る患者のみに絞った。そもそも、一気に大人数へ投与するには内外にリスクが大き過ぎる。
一時は安楽死が合法化されている、海外の国々で試せないかと手を回そうとしていた程だ」
「だが──そうして段階を踏もうと足が止まっている内に、事件は起きた。友人の研究所内
で保管していたデータに、私達以外の第三者がアクセスした形跡が認められたんだ」
淡々と詰め、睨み付ける青年。大きく頭を抱えたままの男は、最初そう弁明のような経緯
を話していたが、核心となる事件に差し掛かった途端にトラウマが蘇って震え出した。今も
尚、その際の焦りを憶えているのだろう。やつれた姿が、更に自ら圧力を受けて軋んでゆく
ように錯覚する。
「気付いた時、私達は急いで裏切者を探したよ。だが私達が奴を見つけて問い詰めた時、既
にデータは裏ルートを経由して流出した後だった。奴は、友人の同僚だった男は、只々金に
困って私達の研究を売り飛ばしたそうだ。奴は哂っていたよ。『どうせ殺すんだ。十人だろ
うが百人だろうが、似たようなモンだろ?』とな」
「……」
かくして一人の医師の、良かれと思って情熱を注いだ研究は、それらとは全く違った悪意
を持った者達の知る所となった。投与すれば、六十分後確実に死ぬ薬──こと政敵の抹殺な
ど暗殺目的に転用すれば、これほど効果的な代物はないだろう。
しかし事態は、そんな悪意ある彼らをも超えて未曽有の惨事を引き起こすこととなった。
それこそ現在、世界各地の都市が淡い黄色の水面に沈んでしまった、直接的な原因である。
「あの薬は、そもそも死期の迫った患者──人体としては著しく衰弱した肉体に投与するこ
とを前提としたものだ。本来一度に投与する量は微小。なのに彼らは……盗んだデータにも
書かれていた筈なのに、用法用量など完全に無視して乱用し始めた! 病魔に侵されている
でもない、健康な人体に! 互いの敵を殺す為だけに、世界のあちこちで矢継ぎ早に!」
かつて医師だった男は叫ぶ。己が作り出した成分が他人の悪意を介し、暴走を始める姿を
止められなかった。大国間、ひいてはそれらと敵対する国々の暗部同士が我先にと“先制攻
撃”を標榜して投入した結果、起きたのは──“ヒトの融解”だった。
「……私達が何度か、現場へ駆けつけて目撃したのは、大量のLOOSEを注がれて体内か
ら融けてしまった被害者達だった。悍ましかったよ。繰り返すが、あれは本来ごく少量で適
正量だ。それをあんな加減も何もなく注射されれば、細胞の機能停止が感覚の鈍化速度と釣
り合わなくなる。強過ぎる効果が、人体そのものすら維持できなくさせるなど……私達でも
データに取れてすらいなかった」
男は言う。
あれを見た瞬間、知った瞬間、自分達はもう後戻りのできない段階まで来てしまったのだ
と。この悪用の果てにあるのは、文字通りの滅びしかないと。
「後は……君も知っての通り、国同士の融かし合いだ。人だったものから溢れ出た過剰なま
でのLOOSEは、居合わせた周りの人間、それ以外の生物までも巻き込み、僅か数年で地
上を融解した命達の沼へと変えてしまった。……友も犠牲になったよ。私達には止められな
かった。寧ろLOOSEを生み出した張本人として、人々から追われるようになった。もう
患者達を看取ることなどできずに、何処もかしこも黄色い海の下──こんな筈じゃあなかっ
たんだ。こんな筈じゃあ……。私はただ、彼らを苦しみから救おうと……」
男の呼吸が再び荒くなる。己の過去を、罪が鮮明に蘇り、何もかも忘れて狂ってしまいそ
うになる。
それでも男をこれまで繋ぎ止めていたのは、曲がりなりにも彼が医師だったからか。或い
は己の研究に協力し、最期の最期までその暴走を止めようと抗っていた友への哀悼、贖罪意
識からだったのか。
「……」
しかし、次の瞬間だったのである。
それまでじっと、男の独白を途中から黙り込んで聞いていた青年が口元から静かに息を吐
き出すと、無言のまま数歩前進。気付いて顔を上げた男へと間髪入れず、コートの下に潜ま
せていた拳銃を取り出すと、彼の胸を撃ち抜いたのだった。
怒気を孕んだまま、ぎゅっと力を込められた引き金。目を見開いて──いや、自分の下へ
詰りに来た時点で予想はしていたのかもしれない当人が眼下、件の黄色の海へとバランスを
崩して落ちてゆくの見下ろしながら、青年はたっぷりと間を置いて吐き捨てた。上る硝煙と
シンクロするようにスゥ……と、その感情も開いた口の両端から灰みがかった空へと昇る。
「──うだうだ五月蠅ぇんだよ。結局、てめえがこの滅亡を作った元凶だってことには変わ
りねえじゃねえか」
(了)




