(2) 惨道
【お題】黒、地平線、十字架
過去ばかりに囚われず、未来を、前を向いて生きようと云う話はしばしば聞くが……僕に
は終ぞ性に合わない考え方だった。
まるで水と油のように。笑って流せるのなら、とっくにそうしている。他人の抱えている
深刻さなんてまちまちで、絶対評価なのに、勝手に上から目線で軽くするんじゃねえよと随
分苛立ったものだ。
「──また来たのかい、坊主? あんまり入り浸るんじゃねえぞ? こっちに引き寄せられ
過ぎて、吞まれちまうでな」
瞼の重さ、瞬きの合間に、気が付けば僕は再び“こちら側”に立っていた。
塗りたくったような暗い夜空に地の果て、緩やかにうねる大地一面にびっしりと広がる無
数の墓石。その一角で、今日も墓守の爺さんは独り黙々とそれらの世話をしている。
ボロボロに着古した帽子や上着、背負子に収まった鞄と、その口の隙間に差した棒切れに
吊り下げられているランタン。
お世辞にも明るいとは言えないこの光源を揺らして、じっちゃんは僕の存在を認めると、
そう肩越しにちらりとこちらを見遣って言った。のんびりゆったり。だがその間も、墓石ら
を手入れする作業ペースが落ちることはない。
「その、呑まれた側の大先輩に言われてもなあ……。説得力、無いよ?」
だからこそ、僕は苦笑う。
此処は異なる場所、現実ではないことは知っている。……だから何だというのだ? 遠巻
きでいる限りは、静かで眩しくなくて好い所じゃないか。
「その大先輩からの、有り難いアドバイスじゃよ。若いモンはもっと、未来を向いて歩くの
が仕事だでな? 明日・明後日、世の中の真ん中を生きとるのは坊主らなんじゃから」
「……」
なのに大人は、年寄りは、口を揃えてそんなお題目を唱える。次の世代というものを、都
合良く万能と見なしがちだと、僕は常々思ってきた。
面と向かっての嘆息を堪え、静かに目を細める。眉間に皺を寄せる。
要するにそれは、無責任なぶん投げじゃないのか? 自分達の盛りに果たせなかったもの
を、或いは好き放題にした何かの後始末を、体良く被せてしまうには丁度良いから。自分で
はない生贄だから。
……元々、ヒトの時間感覚は、過去を正面に見据えた姿だったそうだ。「先」日は未来の
ことではなく、すぐ視界の向こうに在った出来事。未来がどうなるかなんて、誰にも判らな
い。だからかつての人々は皆、未来を、今辞書で云う「先」に背中を向けた状態で暮らして
いた。ムーンウォークみたいな。そんな形容の仕方が多分解り易い。今の感覚からすればふ
ざけているように見えても、彼らは各々の時代を必死に歩いていた──。
「じいちゃんを恨んでいる訳じゃないよ。でも僕が、こうしてこっちに来がちってことは、
つまりはそういうことなんじゃないかな?」
目の前の地面よりも、ずっとずっと遥か遠くまでびっしり聳える墓石の山。その一つ一つ
が、文字通り過去誰かが生きた証、象徴だ。即ちこれだけの数、或いは視えないレベルでそ
れ以上の厖大な人生が、いつかの時点で潰えたことを意味する。
はたしてその全員が、少なくとも過半数が、僕達遠い「未来」の為に己を捧げたと判るも
のだろうか? ……自分には、イエスと言える確証など無い。時代の要請に、上に立つ者ら
の圧力に、そう燃やす他なかったんじゃないか? それが素晴らしいことだと、美しいもの
だと、互いが互いに言い聞かされていただけなんじゃないのか?
『──』
とてもじゃないが、僕は胸を張ることなど出来ない。仮にも託されてきたのだとしても、
その責任はあまりにも重過ぎる。
今も昔も──昔以上に、僕達の暮らす世の中は醜くなっているんじゃないか? 豊かさを
憂いなく享受できるのはほんの一握りで、ヒトの害悪さ、どす黒い本質的な部分はまるで成
長していやしない。益々濃縮されていっているのが現実だ。
それこそ“ご先祖様に顔向け”なんて出来たモンじゃないだろう。墓守のじいちゃんも、
じっと視界いっぱいの墓石を辛そうに見つめている僕を、ふいっと見透かしたように捉えて
いた。手入れの手が止まっている。カラン……。棒切れにぶら下げられたランタンが、軽く
歪んだ音を鳴らしている。
「──そうか。とうに手遅れか」
「惜しいのう……。一体どの代で間違ったのか……」
墓石もそうだけど、じいちゃんと僕の間に直接の繋がりは無い。何十代? 何百代? 数
え切れない、それこそ本当に“キリの無い”バトンを繋ぐ中で、託されたものは確実に歪ん
できた筈だ。そもそも大半の誰かさん達は、その意義や目的すら持ち合わせていなかっただ
ろう。だからこそ、過大になるとも言える。
無いものを有るものに、有るものを無いものに。
そこまでして、厖大な姿を維持する意味なんてないんだよ──僕はじいちゃんに叫びたか
った。何時、何処で、誰から墓守を宛がわれたかは知らない。でも只々、もう何も言わぬ墓石
達を綺麗に整えたって、貴方は報われないだろう? キリが無いだろう?
(……違うんだよ。じいちゃん)
呪いのようなものだ。いや、呪いそのものだ。
僕は恐ろしい。文字通り、僕達の立つこの地面には、厖大な誰かの死が埋まっている。声
なき声で託された何かが横たわっている。なのに現実でガヤガヤと日々を貪る奴らは、自分
の保身しか考えていないような奴らは、まるでそんな事実が視えないでいる。仮に視たとし
ても、視なかったことにしがたる。……時には墓石らを祀り上げ、だから彼らの為に我々が
踏ん張らなければ! と宣ってみせる癖に。
本当に歴史を、命を重んじているのなら、口が裂けてもそんなことは言えない筈……。自
ら宣言して、引き受けたその重みで、そう遠くない内に押し潰されてしまうのは明らかなん
だから。心意気ばかりあっても、気炎を揚げ合う仲間がいても、自分達に都合の良い部分ば
かりを見過ぎている。足元に集め、迫ってくる古き暗がりに、正気のまま見つめ合える人間
なんているものか。
「やはり、儂が言っても説得力は無いかもしれんが……止めておいた方がいいぞ? 儂らの
ことなんぞ、適当でええんじゃ。偶にちらっと、意識の隅に出てくる程度でちょうどええ。
まあ、中には籍に入っても尚、坊主らを苛むことに全霊を賭けたがるモンもいないとは言わ
んが……。それでも基本的に、己が重荷になってしまうことなど望んではおらんよ。只々、
未来のお前さんらが幸せになってくれれば良い。その為に、儂らはかつてを生きた──」
「それが重いって言ってんだよ。叶えてあげられなくて、こっちだって苦しいんだ」
ふるふると首を横に振った。割り込むように、そんなせめてもの願いを言い終わらせる訳
にはいかなかった。
呪いであって、負い目であって。
嗚呼、もしじいちゃんが、今の時代を見たら何と言うだろう? どう映って、正直な所を
思うのだろう?
確かに豊かにはなったのか。でも結局僕達は満たされず、極端に走り、そんな“他人事”
から距離を置いて平穏──平々凡々で切り抜けることすら、しばしば許されない。向上心か
ら降りた人間は邪魔者だから。
再三、あっちとこっちを彷徨うようになったからこそ解る。言い切れる。事実どうかじゃ
なくって、所詮は絶対評価だから。悪く観たければ、そういう一面ばかりを殊更取り上げて
視るし、良く観たければそういう一面ばかりを根拠に謳う。百パーセント、じいちゃん達を
安堵させられる“未来”なんて無いんだ。きっと、時間が経てば経つほど、その綻びが視え
てくる。僕はそれが怖い。幻滅される、その裏返った憎しみが辛い……。
「──恐れることはないんじゃがな」
「まあ、無理もないか。呑まれ過ぎては、或いは──」
会話は、じいちゃんと墓石達との時間は、そこまでだった。
ハッと我に返って、僕は顔を上げる。差し込む陽射し、アスファルトの黒い地面と、自身
を取り囲むように聳えるコンクリートジャングル。
「……」
嗚呼、今回はあれで終わりか。どっと嫌な汗が出ていたが、悲鳴なんてものを上げる訳に
もいかなかった。只でさえ急にビクついて、軽く天を仰ぐように手で庇を作った僕を、行き
交う無数の他人びとが異物を見るような目で見ている。殆どは興味・関心すら示さずに風景
に融けてゆくモブだったけれど、だからこそちらほらと投げられた眼差しの威力が増す。陰
湿で容赦のない敵意のようなものが突き刺さる。
(じいちゃんが、帰してくれたのか?)
陽射しや眼差しがしんどくて、改めて視線を落とした。手の庇で作った影が合わさり、足
元のアスファルトがより黒く強調されているような心地がする。あそことは全くもって別空
間なのに、未だあの延長線上に居るような心地だった。過去に──無数の死の上に自分達が
立っているのだと、その厖大さで死にたくなる。何もかもから、解放され楽になりたいと、
静かな衝動が己の内を苛む。
(……帰ろう)
早く。一刻でもこの場から、彼らから。
僕は渋々、いや、追われる錯覚を抱えたままで歩き始めた。足元の黒が急に沈み込んで、
自分を喰い殺しては来まいかと、あらぬ怯えを抑えながらスクランブル交差点を進んだ。他
人事のような靴音、とうに前ボタンを開けっ放しにして、はためくスーツの上着。その下の
ワイシャツの隙間へと、ひゅるり生温かい風が一筋潜り込んで。
(了)




