(3) 人間離れ
【お題】天使、中学校、悩み
「ねえ、聞いた? C組の陸君が“飛んで行っちゃった”んだって」
「嘘っ!? あたし一昨日、話したばかりだったのに!」
「あ~……。そう言われれば、確かに何か調子悪そうな感じはあったよねえ……」
そんなやり取りを身近に知ったのは、ある日の通学路でだった。いつものように鞄を肩に
引っ掛けて歩いていると、少し前方を行く他の女子グループがそうややテンション高めに話
していた。同級生が帰らぬ人になったらしいにも拘らず、およそ悼むような声色や顔色では
ない。
「──」
尤もこちらも、そう一々気に病んでやれる訳でもないのだが……。
彼女ら、他の学校へ向かう同級生達の群れの間にぽつんと混ざりながら、制服姿の美空は
努めて平坦な面持ちを維持していた。一人とぼとぼと歩く。
この手の“事例”は、前々から飽きるほど耳にしてきたが、それでも比較的自分に近い範
囲内だと正直気が滅入る。何処か遠い世界の御伽噺にしておきたかったのに、少なくとも向
こうも方はそんな心算など一切無いらしい。
(どうせ先生達は、無かったことにするんだろうな……)
慣れ切った、とうに磨り減ってしまった気持で嘆息をつき、空を見上げる。
美空は自分の名前が嫌いだった。美しい、澄み切った青空などというものは、生まれてこ
の方見たことがない。生まれ育ったこの町の姿形が大して変わりはしないように、自分達に
とって空とは、イコールずっと灰色かくすんだ黒だ。そこから時刻が夕方になり、燃えるよ
うな紅に化けたかと思えば、一転して紺色をひっくり返したかのような夜闇に変貌する。
ずっとずっと、自分達子ども世代にとっては、空はイコール不気味の象徴だった。
それでも何故か両親は、自分にこんな忌々しい字を当てた。美しくもないし、寧ろじっと
眺めていれば、時々“変テコな鳥人間”まで浮かんでいたりする。どうも親か祖父母より上
の世代は、今とは違う空というものを見聞きしたことがあるらしい。
ただ……こちらがそういった話を振っても、周りの大人達は決して答えてくれはしなかっ
た。逆に何処からその話を聞いた? 他に誰かへ訊ねたか? と確認され、二度とその話題
を出すなと厳しく釘を刺されすらする。自分達──今時の子供達にとっても、暗黙の了解と
してしまい込むべき話題らしい。いわゆるタブーの一つとなって久しかった。
「ちょっとお~。そこ、声が大きいってば!」
「先生が見てるかもよ~? 私らまで巻き込まれるの嫌なんだからね?」
「あー、はいはい。着いたら話しませんよ~だ」
「……早瀬か。悪い奴じゃなかったのにな」
「“飛ん”じまった以上は仕方ないっしょ。俺達も、さっさと忘れてやんねえと──」
「以上から、先程の公式を用いることでこの計算もぐっと簡単にまとめることができる訳で
すね。何故こうなるか? は説明した通りですので、今はこういうものだと丸暗記してしま
いましょう」
案の定、学校に着いてからも、教師達は件の“飛んで行った”同級生に関しては全くと言
っていいほど言及しなかった。流石に朝の段階では彼の席は残っていたそうだが、特段花が
活けられ置かれていた訳でもない。そもそも週明けぐらいには、しれっとその席すらも撤去
されてしまっている可能性だってある──美空自身、人伝でしか聞いた事の無い、その後の
扱い諸々の話だが。
「……」
朝から嫌な報せを聞いてしまったものだから、今日は一層授業にも身が入らなかった。元
から好きでもないし、興味が薄いと言ってしまえばそれまでだけども。
黒板の上に書き殴られた長大な公式が、何やかんやと省略されて収まる。教師はそういう
ものだと簡単にのたまってはくれるが、そうすんなり入り込んでくれるものか……。美空は
広げたノートの上で、ぼんやりくるくるとペン回しをしていた。書き写した板書も中途半端
ならば、脳味噌で理解が進む進捗状況も、半端なパーセンテージ。元よりマルチタスクに向
いている訳でもないという自覚があるため、どうやら今日も借金は滞りなく加算されてゆく
ようだ。
『今朝のホームルームでも、地井の奴何も話さなかったらしいぜ?』
『マジかよ。腐っても担任だろうが、あのハゲ』
『ハゲは余計w』
『お通夜モードなのは、私達から見ても明らかなのにねえ……。どうしてどこまで隠したが
るんだろう? 無かったことにしたがるんだろう?』
『大人にも色々あるんだろ。オトナノジジョーってのが』
『先月は北中でも“飛んで行った”子が出たらしいし、余計にピリピリしてるのかもね』
授業中にも拘らず、まともに授業を聞いていないのは何も美空だけではなかった。
クラスの面々だけで構成している、担任などには秘密のチャットルーム。目の前の数学教
師の目を盗みながら、皆もそうリアルタイムで情報を交換していた。美空も美空で、空いた
左手で自身のスマホを開けたまま、ぼうっとそんなやり取りを傍観している。
今の時代、この世の中には──何か重大な問題が横たわっていることは間違いない。まあ
それは何も今に始まった事ではないのだろうけど、ここまでして大人達が“無かったこと”
にしてやり過ごそうとするほど、事態は深刻なのだろうと彼女は推測する。手の打ちようが
ないのだろうと容易に考えは及ぶ。
(……素直に無理ですって、吐いちゃえばいいのになあ)
まさか子供達が全く気付いていないだなんて、思ってはいないだろう。いや、中には本気
でそう信じている大人もいるのかもしれないけれど。
ずっとずっと陰気で、曇りっ放しの空。今こうしてぼうっとしている、教室の窓からも見
える。高さがある分、登校途中の時よりもはっきりと確認できる。
“変テコな鳥人間”が飛んでいた。飛んで、というよりは、浮かんでいると表現した方が
正しいだろうか?
そもそも鳥人間という形容すら怪しい。周りが大よそ、ざっくりとそんな呼び方をしてい
るから日常的にそう呼んでいるものの、よく観察すればするほど、不気味を通り越して苛立
ちさえ覚える。
体色は灰色の空に紛れがちな、白亜の細身。まるで搾りカスのような痩せ細った身体に、
しわしわの手足。ムンクの叫びみたいな、縦長に歪んだ顔。何よりも背中からは無数の、木
のような枝分かれした骨格の翼が生えていて、苔生した羽根が揺らいでいる。中にはそれら
と背中、両足が一体化して、最早人よりも植物──浮かぶ枯木のような見た目にすらなって
しまっている者も少なくない。
(早瀬君、あの中にいるのかな……?)
ぼうっと肩肘をつき、ペンを回す手も止まったまま美空は窓の外を眺める。
件の彼とはそこまで接点もなく、会話することも殆ど無かったが、いざ帰らぬ人になった
と聞けば探してみたくなった。“飛んで行って”しまったのなら、少なくともあの不気味な
何か達の一つになった筈なのだが……。
「こらっ! 授業中に携帯弄るんじゃないの! 没収するわよ!?」
ちょうど、そんな最中だった。他のクラスメートが一人、運悪く授業中の数学教師にスマ
ホを弄っている所を見つかってしまう。
無情かな、次の瞬間他の皆はサッと机やポケットの中に自身のそれをしまいこんでいた。
言い訳しようとしたこのクラスメートの抵抗も虚しく、スマホは取り上げられる。どうやら
寸前でチャット画面は切ったらしく、やり取りがバレはしなかったようだが……この男子は
以降授業の間、手持ち無沙汰に悩まされることとなった。
ややヒステリックに、この独身女な数学教師は、キリッと自身の赤縁眼鏡のブリッジを支
え直しながら言う。
「全く……。貴方たち最近、弛み過ぎよ? 勉強に集中なさい。勉強に」
だから最初、思っていた以上にストレスでも溜まっていたんだろうかと、美空は思った。
件の同級生、C組の彼が“飛んで行って”から数日。夜、自宅の部屋でゴロゴロしていた彼
女は、ふと自身の背中から襲ってくる違和感に思わず顔を顰めたのである。
(? 何だろ……? 痒い? 内側が、熱い……?)
尤も、違和感それ自体は何日か前から在ったのだ。むずむずと背中の圧迫感というか、張
っている感じが。ただ始めの内は特に気にせず、放っておけばその内治るだろうとすぐに忘
れてしまっていたのだが……。
「お母さん、お父さん。熱冷ましある~?」
「ええ、まだ薬箱に残ってたと思うけど……。どうしたの? 風邪?」
「うん……多分……。何だか背中の方が気持ち悪いっていうか、身体の中に痰みたいなもの
が溜まってる感じがしてさあ。あくまで、イメージだけど……」
自室を出て、階段を下りてダイニングへ。
そこでは夕食後、洗い物をしていた母とテレビを観ていた父がのんびりと夜長の時間を過
ごしていた。最初は不意に降りて来た娘から、そんな症状を訴えられて、視線を向けてきた
だけだと思われたのだが──。
「ッ!? お、おい! それは本当か!?」
「み、美空! それって何時から? 何時からそんな感じがあったの!?」
「うわっ! な、何? お父さんもお母さんもいきなり……。はっきり覚えてはないけど、
先週の中頃くらいじゃないかなあ。最初は大して気にしてはなかったんだけど……」
まるで手術後の外科医に縋り付くような、必死の形相で両肩を掴んでくる父。
美空はいきなりのことでびっくりし、同じく矢継ぎ早に妙な質問をしてくる母にも、怪訝
な表情を浮かべつつも正直に答えていた。
正直、大した事ではなかろうと思っていたのだ。まだまだ自分は若い、一介の女子中学生
に過ぎない。なのに……こちらの違和感を告げられた二人、両親は、あたかも世界の終わり
でも見るかのような絶望の感情に駆られている。
「……そんな。早い、早過ぎる……」
「何で私達の子が。何で、よりにもよって……」
「? 何の話?」
がっくりと膝を突き、その場に倒れ込むように項垂れた両親。尚も背中の内側からむずむ
ずと、熱を持った違和感を抱えながらも、当の美空はその真意が解らなかった。勝手に理解
されて、絶望されて。……大人はいつもそうだ。こっちから訊いてもまともに取り合ってす
らくれない癖に、全部自分達がこっちをコントロール出来るものだと思っている。それが未
来の幸せに繋がるんだと信じている。
希望なんて、時が経つほどにどんどん薄れて消えてゆくものなのに。
異変はその日の夜に起きた。家族や周囲の知る所となった。娘の訴える症状に、両親は急
いで病院に助けを求めたが──間に合わなかった。
“飛んで行って”しまったのだった。彼女はその夜、両親が対応の為に目を離したその隙
に、背中からぱっくりと割れて“羽化”を果たしていたのである。
両親や救急隊が駆け付けた時には、既に抜け殻だった。彼女の自室には、生気を失った眼
の彼女のガワだけが残されていた。開け放たれた窓とベランダから、枝葉のような羽を広げ
て浮かび、最早彼女だと判別不可能な姿で、遥か上空の“同胞”達と合流してしまって。
(了)




