表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-136.March 2024
176/287

(1) 偏心願望

【お題】魔女、指輪、静か

 朝、寝室から降りてきたら、妻が離婚届を置いて家を出て行っていた。

 台所のテーブルの上に、結婚した時に贈った筈の指輪を重石代わりにして、例の緑枠で区

切られた書面がぺらりと置かれている。既に妻の側は埋まっていた。後は私と、要件に関わ

る事項がほぼ空欄になっている。

(……珍しくパソコンを触っていたと思ったら。これを落としてくる為だったのか)

 確かに昨夜、彼女とは強めの口論をした。特に金遣いの荒さ──私の稼ぎを、まるで湯水

の如く自身の贅沢の為にばかり使いがちな点を再三注意してきたのだが、彼女は一向に改め

る様子がなかった。昨夜も私のそれを“小言”と断じ、寧ろ激しく反論・罵倒を返してきた

ものだが──とうとうここまで来てしまったか。目の前の状況は、決して楽観出来る現実で

はない筈なのに、存外スンと冷え切ったおちついた自分がいることに驚く。

(さて。どうしたものか)

 とうに薄々気付いてはいたが、やはり私の在り様は、彼女の求める価値観とは大きく異な

ってしまったらしい。いや、元々合ってはいなかったのだろう。

 結局私は、体の良いATMでしかなかった訳だ。彼女は私を人間としてではなく、大手企

業勤めの夫というステータスを得る為に言い寄ってきたのだなと改めて思う。……週明けの

朝一にやることではないとは、正直思うが。

(とりあえず離婚届これは、克己に見つからないよう一旦しまっておくとして……。昼休みにで

も、本人と連絡が取れればいいんだが……)

 ようやく回り始めた頭で、初動を取り始める。指輪と書面をテーブルから除け、壁の時計

とスケジュールを相談。出社に支障を出す訳にもいかないから、こんな私事なトラブルは後

回しだ。どうせ彼女のことだ。ここまでして行動に移した──意思表示をしてきたというこ

とは、既に次の男の当てが付いているのだろう。場合によっては今こうしている間にも、そ

の別な男の下にいる可能性が高い。すぐ飛びついて電話した所で、本人が寝惚け眼の不機嫌

声で応じるか、無視されるかがオチだ。

 ……がっつくようで癪、という訳じゃない。

 少なくとも朝からこんな状況、息子に目撃されみらてしまっては──。

「何やってんの? 父さん」

「──」

 訂正。やはり私も動揺はしていたらしい。寝起き姿で降りてきた克己に、私は気付かなか

った。気だるげにあくびを一つ。思わず硬直していた私に、息子はあくまで淡々とした様子

でこちらを見ていた。即ち、取り除きかけた結婚指輪と、書きかけの離婚届を。

「……嗚呼。とうとうやりやがったか、あの女。それってやっぱ、昨夜の喧嘩?」

「あ、ああ……多分、な。克己、お前」

「まさか、今まで隠せていたとでも思ってる訳? 気ぃ遣わなくて良いよ。俺だって年明け

たら卒業なんだし」

 躊躇う私を、されど息子はあくまで冷静に──斜に構えた態度で「お構いなく」と告げた

上で、てくてくと横を通り過ぎて行った。洗面所で顔を洗ってタオルで拭い、眠気を一通り

取ってから戻ってくる。

 最初降りてきた時と合わせて、ぐるっと台所内を観察しているようだった。テーブルの上

は勿論、そこに料理された形跡は無い。即ち、私達の朝食の用意すら無かったのだ。

「……とりあえず、飯にしよう? 父さんも俺も、支度済ませなきゃいけないし」



 元々家事は折半──贅沢やら遊びで、きっちりと帰って来ないことも少なくなかった彼女

の分、私も息子も拙いながら一応の料理ぐらいは出来る。尤も、トーストやコーヒー、買い

置きしてあったミニサラダを目玉焼きと合わせる程度のものだが。

 つい先刻まで離婚届(と重石代わりの指輪)が置かれていたテーブルを囲み、私達は黙々

と朝食を摂る。どうにも気まずくて、暫く味わう余裕さえなかったが……先に口を開いたの

は息子の方だった。既に通っている高校の制服、カッターシャツ姿に着替えている。

「で? 父さんはこれからどうする気?」

「うん? ああ……。話し合いにしろ何にしろ、一旦仕事が落ち着いてからだな。事前に時

間を取ってもない状態じゃあ、正直動き回れもしない」

「社畜だねえ。ま、今回は間違いなくあの女に非があるし、この機会にバッサリ別れちまっ

たら? 今まで、父さんはあいつに好き放題され過ぎだったんだよ」

「……克己。自分の母親に“あの女”とか“あいつ”呼ばわりは」

「しちゃ悪いかよ? 俺達を放っぽり出して、余所の男の所へホイホイ乗り換える女だぞ?

正直俺は、あいつをもう母親だとは思ってねえ。俺のことは気にせずに、父さんが安心して

暮らせる方に舵を切ってくれるんなら願ったり叶ったりだ」

「……すまんな」

 ズズ、と少し苦めに入ってしまったコーヒーを啜りつつ、私はそれでも謝らざるを得なか

った。もうすっかり大きくなったとはいえ、一人息子にそんな心配を長らくさせてきた時点

で父親失格だ。今まで金遣いや色んなことで揉めてきた私達の姿を、絶望と諦観と共に眺め

続けて育ってきたからなのだろう。彼女への義憤いかりはあるが、それより優先すべき懸案はこ

の子を守ることだ。……この子も、この子なりにずっと考えてくれていたのだろうから。そ

の言葉に甘える、というと形無しだが、少なくとも味方はいると捉えよう。

 私はこれまでの経緯を思い出しながら話す。息子と、克己とこれからのことを。願わくば

三人ともがそれぞれに次善・最善の再スタートを切れるのならばと。


 妻は──経済目的で私と結婚した。知り合った時、私が大手企業勤めで高収入だと聞いて

狙いを定めたのだろうと思う。

 ただ私は、そこまで貪欲にはなれなかった。人生の内で数えるほどもない女性歴、期せず

して迎えた妻と、新しい命。無理は出来ないと思った。家族を守る為には、ただがむしゃら

に働くだけでは駄目だと知っていた──私の生家がそうだったから。ならば今度は私が、彼

女達と良い家庭を築こう。家族との時間を大切にし、なるべく穏やかに暮らしてゆけるよう

にと。

 しかし……結果的にそれが彼女の不満の始まりだったらしい。家族との時間を優先し、社

内での出世レースから“脱落”した私に、彼女は徐々に強く当たり始めた。元々私自身、そ

こまでゴリゴリに誰かを蹴落としてまで登り詰めよう、という意思に乏しかったのもある。

あくまで今の会社に就職したのは、好きな業界でお客様に喜んで貰う為だ。それが偶々、大

手という形で縁を結べたに過ぎないと思っている。……それが既に、私と彼女が持つ前提の

違いだったということなのだろう。薄々解ってはいたことなのだけど、今まではずっと見て

見ぬふりをしてきた。家庭を守る為に、自分が多少損な役回りを押し付けられても仕方ない

と思っていた節があった。夫というのは……往々にしてそんなものだと。


『世の中にはもっと、大金を稼ぐビジネスマンがごろごろいるのよ?』

『あなた、男として恥ずかしくない訳!? 文句言うなら、もっと稼いで来ればいいでしょ

うが!』


 夫婦としての情は、お互いとっくに冷めていた。それでも何とか体裁を保って家族として

過ごしていたのは、息子が居たからだ。後は単純に離婚するとなると、方々に悪影響が出る

ことが予想される。個々の事情、妻の浪費癖が私達の場合あるとしても、大抵の第三者はバ

ツイチという大雑把な情報だけで「私」に何か難があると想像するだろう。そうなれば仕事

も、今までのように比較的穏やかには進まなくなるかもしれない。

「──面倒臭いなあ、大人って。偏見じゃん」

「皆が皆、そこまで他人のことを調べ上げる心算もリソースも持ち合わせていないんだよ。

知れるなら知っておきたいとは思っているんだろうけど」

「だから週刊誌とかが売れる訳ね~」

「否定はしない。……が、お前の今の歳でそのスレ方は父さん心配だなあ」

 朝食も大方済ませて、ぼちぼち片付けに入る。朝一からのトラブルがトラブルだけに、や

はり普段よりも大分時間が押してしまっているようだ。食洗器に放り込むだけ放り込んでお

いて、さっさと出た方が良いか。克己から皿を一枚、また一枚と受け取り、私は壁の時計と

再三のペース配分を相談する。

「そう言うんなら、始めっからあんな夫婦関係を子供に見せるなっつーの。そりゃあ誰も完

璧な人間なんていないけどさ……。ガキの身からすればそれが“全部”になっちまうよ。父

さん自身に対しても、やっぱ拙かったし不憫だって思うし」

「克己……」

 結局、背中を押してくれたのが、その言い訳かせとなっていた息子だというのが何とも皮肉な

所か。あくまで淡々と、すっかりアイデンティティにしてしまって久しい斜に構えた態度こ

そ取っているが、心中穏やかではないだろう。私も私で、他人のことを言えた外見ではない

のだろうが。

「離婚したら、寧ろ金食い虫が減るから楽になるんじゃない? まあ、俺が進学したらその

分吹っ飛びそうではあるけども」

「……そうした心配はしなくて良い。以前から別で貯めてるよういはしてるし、母さんもまたふらっと帰っ

てくるかもしれないだろ?」

「離婚届までチラつかせてかあ? 喧嘩で腹立てた延長線だとしても、やっていいことと悪

いことがあんだろ」

 制服の上着に袖を通し、鞄を肩に引っ掛けて息子が登校の準備を整える。私も、スーツに

身を包んで“いつもの”態勢だ。少なくとも、このゴタゴタが落ち着くまでは、あくまで対

外多数には平穏無事を装わなければならない。

「はは……」

 すぐ間近で人となりを見てきたとはいえ、まだ未成年の我が子に切り捨てられるとは。

 私も、口ではそう今回の家出も一時的なものだと思いたかったが、内心これは良い切欠に

なるなと考えていた。途中の手続きプロセス周りで色々とゴネられる未来は見えているが、そこは親、

大人の領分。何にせよ一つずつ対処してゆくしかない。

「じゃあ、行ってきます。父さんも気を付けて」

「ああ。一旦時間を置くよ……。行ってらっしゃい」



「綾瀬さん、奥様と別れるんですか?」

「うん。多分、そうなると思う。あ、これ解ってると思うけど、当面内密にね?」

 その後出社してから、私はこっそり上司に離婚の予定を報告し、関係する社内の事務に滞

りが起こらないよう取り計らって貰うよう頼んだ。「ほう?」上司は少し驚いていたが、そ

れだけだ。妻の評判を聞いているのかどうか、或いはそこまで興味がないだけなのか。

 数日して、総務を訪れた私に、若めの女性係員がヒソヒソ声で確認してきた。多少面識は

ある相手だったが、気持ちテンションが上がったような……? 一般的に女性というのは、

この手の噂話が好きとは云うが……。

「は、はい! 勿論です!」

 声が大きい。思わず私はしーっ! と口元に指を当て、彼女を黙らせた。おそらく職務と

して真面目ではあるのだろうけど、これはあまり都度話さない方が良いかもしれないな。結

社内こちらで手続きが必要なのは、扶養関係やら何やらの変更だけだし……。

「す、すみません……。それで、手続き的にはどれぐらい先の……?」

「どうかなあ。私もそこまで詳しくはないから、実際落とし所が見つかるまでにどれだけ時

間が掛かるかと言われても……」

 案の定、離婚届を持ち出してきたのは彼女側だというのに、慰謝料の請求はあった。曰く

約束と違っていったことで、精神的な苦痛と不自由を被った──要するにもっとこの男は稼

いでくる筈だったという恨み節か。あれから何度か設けた協議の場でも、向こう及び次の男

らしい、若い実業家を名乗る人物の態度は変わらなかった。


『まあ僕としては、貴方には早く櫻子さんと別れてくれればそれで良いんですけどね。少な

くともその額よりは、彼女に良い思いをさせてあげられるし、用意があります』

『……そうですか。だったら、そもそも請求自体無くして貰えると有難いんですがね。こち

らには進学を控えた息子もいる。綺麗さっぱり片付きさえすれば、あの子にももっと進路に

対して集中させてやれますので』


 まあ、類は友を呼ぶという奴で。

 正直私自身、腹に据えかねていた部分もあった。寧ろあの最初の朝、息子に代弁されて、

抱いて良いんだと許された節がある。

 協議の場で、最初相手の男──言ってしまえば不倫された仇はそう余裕綽々と宣ってきた

ので、ならばと吹っ掛けてやった。あくまで慰謝料の請求を外さなかったのは、私への意趣

返しだろう。少しでもぶん取れる金さえあれば、あるだけ毟ってゆく。状況と彼女の性格的

に考えて、理屈も論理武装もグチャグチャなその主張は、要するにそんな意図であったとし

か捉えられない。だから……出しに使った克己に悪いが、そこで少し退路の一つでも邪魔出

来れば御の字だと思った。往々にして(元)夫とは、ただそれだけで立場が悪くなりがちな

のが世の常だからだ。


(正直、あそこまで効くとは思わなかったが)

 あくまで“話し合い”だと高を括って、向こうも弁護士などを用意していなかったという

のもある。実際の所、不倫なのだから呼び難いというのはあったにせよ。

 だから私は……さっさと終わらせたかった。こんなことで、今更揉める時間を長くするな

んて馬鹿らしかった。『慰謝料を取り下げてくれるなら、今すぐにでも離婚に応じる』彼女

の誤算は、そこまで私があっさりと身を引いてしまうと考えなかった点だろう。良くも悪く

も自意識が高いというか……。世間体もあり、多少は縋る筈。その間に獲れるものは獲って

おこう。そんな目論見が足元から崩されたのだから。

 何より──息子への詫びが聞かれなかったのが、私自身一番カチンときていた所で。

 私が問うても、さも当然のように『こっちに来ても気まずいだけじゃない?』と返してく

る始末だ。そりゃあ確かに、克己からすれば今まで全く面識のなかった男ではあるが……親

としての責任感というものはないのか。そこがある意味、私が最後の予防線を切った瞬間で

はあったと思う。

「まあ、なるべく、早い内に片付くようにはするよ。息子は私が引き取ることに関しては、

既に決まっている所だからね」

「そうですか……。お子さんにとっても、早く新しいお母さんが決まった方が色々とやり直

しは利きますもんね?」

「……うん?」「うん?」

 応対してくれた係員、胸元の名札には『和泉』の苗字が書かれている彼女から、そんな返

答が飛んでくる。私がどうも意図を読み取れず、一瞬小首を傾げたのに呼応し、彼女もまた

同様に小さな疑問符を返していた。返して──何故か顔を赤くする。

「と、とにかく! プライバシーはしっかり保護致します! それはばっちり、確実に!」

「ええ。お願いします。手続きが必要になった時には、またこちらへ伺いますので」

 まあ、一応他人の不幸事だし、テンションを上げ過ぎて今更恥ずかしくなってしまったの

だろう。改めて彼女にそう後の事務を託し、私は再び所属フロアへと踵を返した。

(──? 克己か)

 ちょうど、そんな時だった。ピロンと小さくメッセージアプリの新着音がスーツの内ポケ

ットの中で鳴り、何の気なしに確認して私は数秒後後悔する。そこには(元)妻の、新しい

男によるものと思わしき自撮りの投稿が、息子によってリポストされていたのだった。

『父さん』

『あの女、また調子に乗ってやがんよ』

『また贅沢出来て嬉しいんだろうなあ。こんなドレス着て、若作りしちゃって……』

『あれか? 美魔女って奴? 大分死語だけど』

『身内がやると、こんなに気持ち悪いモンなんだなあ……』

                                      (了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ