(5) フィア・レディ
【お題】ヒロイン、墓場、時流
雲間から時折日差しが覗く、とある日の昼下がり。彼女は王都の一角に広がる緑地公園、
こと点々と墓標が建ち並ぶ区画を訪れていた。
もこっとした黒いコサック帽と、所々に微細なレース模様が施された、同じく黒基調──
まるで喪服のようなドレス。
そんな装いとは対照的に、当の彼女自身は透き通るような白い肌と蒼い瞳、長い銀髪を靡
かせて、そっと寄り添うように膝を折る。胸元には、丁寧に包装された花束を抱いていた。
これを目の前に、ある墓標の一つへ捧げると、彼女はゆっくりと静かに語り始める。
「遅くなってごめんなさい。ここ暫く、色々と忙しくて……」
石に刻まれた名は、ラヘロス。かつてこの口一番の“英雄”として名を馳せ、しかし最期
は病に倒れて早逝した彼女の夫である。
人々の記憶に今も残る、濃くも短い人生を駆け抜けた奉仕の人。
国中はおろか、近隣諸国にも求められれば足を運び、その卓越した剣技と深い懐で数多く
の命を救ってきた文字通りの勇者。
ただ……妻であった彼女自身は、そのような彼の在り方を必ずしも快くは思っていなかっ
た。事実他人びとの為に東奔西走した末に、その人生は酷く短いものだったのだから。
早過ぎる死別。
まだまだ若い内に、彼女は一人取り残されてしまったのだ。
「……あれだけ盛大に持ち上げておいて、亡くなったら数年もせずに忘れられる。本当、勝
手よね。今でも一応、貴方に祈りを捧げてくれる住民も、いない訳ではないようだけれど」
夫・ラヘロスの墓石には、既に彼女以外の誰かが献花した痕跡がちらほらとある。
だが花の劣化具合や小ささ、周囲の人気の無さを思えば、ほぼ誤差のようなものである。
彼女はちらりと、名も知れぬ誰かの訪問を視界の端に映せど、その影の差した表情を崩すこ
とはない。淡々と、俯き加減のまま、今は亡き彼へと半ば恨み節のように語り続ける。
「私は……もっと貴方に自由に生きて欲しかった。もっと一緒にいたかった。他人を幸せに
しようとするばかりで、肝心の貴方自身の幸せが二の次だなんて馬鹿げてるわ。本当に、馬
鹿げてる」
そうは言っても──。
ただ彼女は一方で、そんな思いを仮にもっと強引に押し付けたとしても、彼の歩みを止め
ることは出来なかったのだろうなとも理解していた。その良くも悪くも真っ直ぐな性格──
己が割を食ってでも他人の為に笑い、怒り、奔走できる彼の姿があってこそ自分もまた救わ
れたのだし、恋焦がれたのだとも知っていたからだ。
『ど、どうしたんだい、そんなボロボロの格好で!? 嗚呼、綺麗な顔が台無しだ』
『良ければ話を聞かせてくれないか? 僕はラヘロス。まあ……何でも屋みたいなものさ』
彼との出会いは、今までも鮮明に憶えている。
元々良家の子女として生まれた自分ではあったが、父親が怪しい組織との取引に手を出し
て破産。事件の大きさから、国も表面化することを恐れて隠蔽に走ったらしく、一家は散り
散りになってしまった。当時はまだ右も左も分からず、一人路頭に迷っていた所に手を差し
伸べてくれたのが……彼だった。
別に頼んでもいないのに。
なのに彼は、こちらの身の上を聞いてコロコロと表情を変え、一緒になって悲しんでくれ
た。一緒になって怒ってくれた。彼の借家で一時期保護されながら過ごし、やがて自分を引
き取ってくれるという親族が現れたことで、彼との暮らしは一旦お終いになったのだが……。
どうやらその後も、彼は普段の稼業──便利屋もとい傭兵の仕事をこなしながら、時間を
作って色々と調べてくれていたらしい。そして全てが明るみにされ、事件の黒幕であった組
織が摘発され、失った名誉も回復された。彼と再会出来たのは、そうした諸々が一通り自分
の前から片付けられた後──何もかもが彼と、その仲間達のお陰であると、知ってからのこ
とになる。
(……貴方はいつもそう。声を上げていても、上げていなくても不意に何処からともなくや
って来て、色んな人を救ってゆく。私もその一人だった。あの時、貴方が何もかもを取り戻
してくれたんだと知った時、どれだけ嬉しかったか)
だからこそ、彼女は歯痒くて仕方がない。自分も色んな他人びとも、それこそ一生分の恩
を受けたというのに、当の本人はまるで気にする様子など見せなかった。寧ろこちらが畏ま
られると困った表情を見せて笑い、解決したのだから良かったと──言葉通り本当にただそ
れだけを報酬のようにして振る舞う。同じようなことを、東奔西走、息をするように次々と
やってのける。
……これはきっと、嫉妬の類なのだろう。彼女は自分にとって唯一無二の出来事だと大事
に抱えてきたのに、彼にとっては数多の“善意”の一つに過ぎない。それは再会の後、こち
らの猛アタックの末に夫婦となってからも変わらなかった。この時既に“英雄”として名を
馳せ始めていた彼は、尚も人々の為にその力と技、真心を振るい続けた。
「私は──貴方の妻なのよ? 貴方を誰よりも、幸せにする必要があった。幸せにしてあげ
なければいけなかった」
一人の女性として、人間として。それでも彼女の本心は、すっと彼の徹底した自己犠牲の
精神を危ぶみ続けていた。他人の幸せを願い、叶える為に奔走するばかりで、ちっとも自分
のそれを顧みようとしない。そのリソースの一部を、少しでもいいから己に注いでくれと願
っても、諭しても、終生夫の優先順位が変わることはなかった。実際、妻として大切にして
くれてはいたが……そうではないのだ。
妻として家族として、彼女が望んでいたのは、もっと彼にのんびりと生きて貰うことだっ
た。先ずもって自分を大切にして欲しかった。まだまだ続いたであろう日々を、一緒に過ご
せればいい。ただそれだけの願い──。
『フィルミリア……。ごめんな』
『もうこれ以上、僕は君のことを守ってあげられそうには……』
“英雄”は病に倒れた。市井の人々を、時には国の危機すらも幾度となく救ってみせた勇
者は、若くしてその生涯を閉じた。
急速に進んだ病状に、得意の剣を握る力はおろか、ベッドから起き上がることすら出来な
い。だというのにその最期の最期まで、彼は傍らで看病し続ける彼女にそう謝ってさえいた。
彼女だけではない。突然の報を聞いて見舞ってくれていたかつての関係者や、王の遣いも
また、そうした姿を目撃していた。最期はひっそりと気配を殺すように、そんな彼らが顔を
出していない時を狙い澄ますが如く、逝った。
「──ねえ、貴方。貴方は本当に満足だったの? そこまでして誰かの為に走り続けて、命
をすり減らして。こんな短い人生で、本当に良かったの?」
“英雄”の死は、当初大々的に取り上げられた。あまりにも早い、あまりにも偉大な損失
過ぎると、生前縁のあった多くの人々がその弔いに加わってくれた。一時は王や有力貴族達
による、国葬の実施まで構想に上がったのだが……唯一の家族であり、喪主も務めた彼女は
丁重に断った。せめて死後くらいは、静かに眠らせてあげて欲しいのだ、と。
「……」
解っている。あの説得は半分事実で、半分は自分の我が儘だった。それに彼の弔いを盛大
に執り行うことが、王達が己の威厳を内外に示することになる──彼の死すらも、他の誰か
の良いように消費されてしまうのが、酷く悔しかった。目の当たりにしたくないという一心
で、何とかそこまでは大事にさせずに済ませた。
公園の中を、風がサァッと吹き抜けてゆく。彼女の帽子や銀色の髪が、大きく掻き上げら
れて揺れる。
……全然報われない。彼女はずっと思ってきた。
愛する人が信じた善も、そんな彼と共に在ろうとしたこれまでの半生も。結局あの人は良
いように使われるだけ使われて、人並みの幸せすら充分に得られず死んでいった。自分や多
くの人達に、与えるだけ与えて不平等にして──。
「ああ、此方におられましたか」
「困ります。何も言わずに出て行かれては。せめて我々の幾人かを、護衛としてお付けくだ
さいませ」
ちょうど、そんな時だった。
それまで亡き夫の墓標の前で一人座り込んでいた彼女の背後から、明らかに市民という形
容では済ませられないような一団が近付いて来ると、声を掛けてくる。皆揃いの軍帽や外套
に身を包み、腰にはサーベルないし銃を提げている。先刻までじっと俯き、静かに“対話”
をしていた彼女が、数拍たっぷり間を空けながら彼らを睥睨。その冷淡さを更に色濃く見せ
て言う。
「……執務室の者達には言いましたよ? 少し時間が空いたから、夫の墓に参って来ると。
この時間だけは、決して邪魔をしないようにと厳命してきた筈ですが」
はっ。やって来た一団、軍服姿の男達はそんな彼女の台詞に、少々ばつが悪そうに応じる
も誤魔化すだけだった。
彼女が、かの“英雄”ラヘロスの愛した女性だとは皆分かっている。だからこそ、彼女に
とってその墓参がどれだけ重要な一時かは知っている心算だし、邪険にしている所を見られ
れば悪手であるとも理解はしている。
「承知はしております。ですが……」
「貴女様は今や、かの王を討ち倒し、周辺国にもその機運を広めるに至った、我ら革命政府
の旗頭ではありませんか」
「御身は最早、貴女様お一人のものではございません故。護衛の要員については、どうかご
容赦いただきたく……」
(了)




