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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-129.August 2023
141/283

(1) 愚鈍の夢

【お題】諺、井戸、蛙

 円い石組みの上に、一匹の雨蛙がちょんと座っていました。縁の上から見下ろすずっとず

っと底、薄暗い水溜まりの中には、これまたもう一匹の泥蛙が潜んでいます。

 地上から延びる縄で繋がれた桶を足場に乗っている彼を、雨蛙は哂っていました。さも自

分より劣った存在であるかのように。自分の方がより多くを知っていると疑わずに。

『──おいおい、お前さん。まだそんな所に引き籠っているのかい? 勿体無いねえ……。

世界はこんなにも広いっていうのに。お前さんも聞いたことがあるだろう? 今年もそろそ

ろ“大海”が現れる時期なんだぜ?』

 石組みの縁の上で、雨蛙は煽りいいます。両手を大きく横に広げ、親の親、そのまたずっと前

の親から伝え聞いてきた絶好の繁殖地──“大海”を待ち侘びるのです。

『ああ、知ってはいるけど……。僕はここが気に入ってるんだ。程よく湿り気もあって、陽

に炙られることも無い。確かに切欠は、誤って落ちてしまったことだけど……僕はここで暮

らそうと思ってる。今から頑張って登ろうとしても、繁殖の始まる時期には多分間に合わな

いだろうから……』

 毎年雨の降りしきる日と、激しい陽射しの降り注ぐ日が何度も入れ替わる時期に、突如と

して地上に現れる巨大な水場。時折冷たい水が供給され、日毎に泥の中から等間隔で成長す

る草木がカモフラージュにもなる。彼らにとっては、他とない優良物件です。

 しかし泥蛙は、雨蛙の方を見上げこそせど、結局自らが落下してしまったこの水溜まりか

ら出ようとはしませんでした。

 身慣れた土ではなく、この高さまで埋め込まれた石組みの壁。実際本人の言う通り、今か

らここを脱出して“大海”へ急ごうとも、他のライバル達に先を越されてしまうであろうこ

とは確実でした。加えて何より──彼はもう諦めている節がありました。

 どうせ繁殖競争には勝てない、パッとはしないのだから、陽射し諸々に焼き殺されるかも

しれない外へとわざわざ出て行かなくても良いのでは……?

『ああ、もう! この愚図が! だったらそこで一生、口を噤んで暮らせ!』

『折角このオイラが、親切で声を掛けてやったってのに……。“大海”を知ろうともしない

奴には、底辺がお似合いさ!』

 故に雨蛙は、中々這い上がって来ないこの泥蛙に痺れを切らし、そう罵声を残して跳び去

って行きました。上下関係を作ろうとする時点で、相手に言葉は届かないのです。


『──“大海”? 違うよ。貴方達の言ってるここは、田んぼって言うの。この時期に人間

達があちこちで、自分達のご飯を作る為に使ってる、小さな池みたいなものよ?』

 白い野鳥は、雨蛙達が話すそれを聞いて、きょとんとした様子で答えました。彼女らの足

元に広がっているのは、地面を浅く掘って泥にし、水を張った人工の池・田んぼです。稲の

苗と苗の間に潜む小さな虫を啄みながら、彼女はついっと初夏の青空を見上げていました。

『えっ?』

『海じゃ……ない?』

『だって、こんなに広いのに……』

『そりゃあ貴方達のサイズじゃねえ。私からすればまだまだ小さめの水場程度よ? 厳密に

はここも池じゃないし、深さももっとあるからね。海はそれよりももっともっと広くて深い

の。池よりも広くて長いのが川、その川が幾つも集まって流れて行った先が、海って所かし

らね』

 雨蛙達は、ポカンとした表情でそう語る白い鳥かのじょを見上げていました。時期によってはこの

辺り一帯を離れ、遠く大陸すら渡ってゆく彼女らにとって、世界とは雨蛙達のそれよりも遥

かに広いものでした。戸惑い、衝撃を受けている彼らを何処か微笑ましく見つめながら、白

い鳥はふぁさふぁさと羽を揺らします。

『私達だって、本当はもっと落ち着いた暮らしをしたいのだけど……。食料がいつも十分に

ある場所の方が珍しいもの。貴方達とは違って、こっちは何年も何年も季節を凌がなければ

いけないから……』

 当の雨蛙達、こと近くの井戸で泥蛙に意地悪をしていた一匹の狼狽えようは激しいものが

ありましたが、対する白い鳥の方は寧ろそんな彼らを羨ましがっている節すらあります。な

まじ寿命がそこそこ長く、一所に留まれない生態であるため、彼らのように一つのセカイで

完結できる在り方が“楽”に見えていたのでした。


「──おん? 野鳥か」

「放っとけ。別に害さなかんべ。寧ろ田んぼの虫さ、食ってくれてる」

 まだガッツリと日が昇っている内から農作業に勤しんでいると、気付けば少し遠巻きの水

田に白い野鳥が一羽やって来ているのが見えました。草引きに水の管理。麦わら帽子と首元

に掛けたタオルで汗を拭いながら、高齢の男性二人は言い合います。

 空は快晴。ただそれは即ち、今日も厳しい暑さだということでもあって……。

 じわじわと蝕まれる体力や気力を、彼らはとうに染み付いた長い習慣でもって打ち消して

きました。これまでも、これからも。少なくとも当人達はそうする気でいました。正確には

他の生き方を知らないと表現すべきだったのですが。

「……今年も、あんま育ちはよくなかんべな」

「んだ。これだけ異常気象だ~、異常気象だ~って言われてるかんなあ。うちらだけ順当に

育つんがおかしいんやもしれねえが……」

 生まれも育ちもこの地元、片田舎。長らく農家をやってきた彼らではありましたが、昨今

の気候の変化は明らかに異常です。従来までの暦と、実際に苗を掌に滑らせて推し量る成長

の感触。もっと雨が──梅雨時に十分に降らなければ、どれだけ水を張っても豊作と呼べる

生育には届きません。

「だってのに、お上も組合も、増産しろの一点張りだあ。ぶらんど米? って奴にこの辺り

の米さなっとるからとは解っとーが、育たねえモンは育たねえよ」

「解っとる、解っとる。んでも、作らなきゃ御飯食えねえのには変わりねえさね。まだ儂ら

の米を、勝手にありがたがっとるだけ儲けモンと思わなんだら。街のモンが大枚叩いてこな

くなりゃあ、それこそこの辺り一帯、商売上がったりだーで」

 んだ……んだ。

 長靴を履いて水田の中に入っていた一人が畦道に上がって来、もう一人がこれを引っ張り

上げて大きく深呼吸を吐きました。嘆きと言ってもいいのかもしれません。二人は汗で滲む

額や首を拭いながら、傍に立ち並ぶのぼり達を、暫しぼんやりと眺めていました。

『名産 ●●錦』

『ようこそ! 米所▲▲の里へ!』


「──うわっ、また値上がりしてるわあ。この商品……」

「先々月ぐらいも上がってなかった? 本当、ここの所生活がどんどん苦しくなっちゃって

困るわねえ……」

 都会の一角にあるスーパーで、顔見知りになった主婦同士がそんな会話をしていました。

惣菜棚に陳列された見慣れたおかずを手に取り、気付けば何度目かの細かい値上げが実行さ

れていることに気付きます。

「もう、余所の店に行こうかしら?」

「チラシと睨めっこね。でもこのご時世、大体のものは値上がりする一方だから、寧ろあち

こち行っている間に時間もガソリン代も馬鹿にならないのよねえ……」

 この年代特有の現象なのか、或いは彼女らの性格の所為なのか。割と大声であーだこーだ

と話しているその姿を、バックヤードで作業している店員らしき若者が苦々しい表情で一瞥

していました。但しそんな視線に当の本人達は気付く様子も無く、今日も今日とて買い物と

言う名の雑談会に花を咲かせています。

「贅沢品はともかく、食料品は毎日絶対必要なのにねえ……。これもあれ? 例の紛争の影

響なんですっけ?」

「らしいわねえ。私はそういうの、よく分かんないけど。うちの主人も、よりによってあん

な穀倉地帯で戦争するな、って愚痴りながらビール飲んでたわ」

「はあ。国は何をしてるのかしらねえ? 私達はこんなに切り詰めながら生活をしているっ

ていうのに。税金だけ取って、な~んにも還元してくれないじゃない」

「そうよねえ。その癖に、頼んでもいない、余計な事ばかりには熱心なんだから……。余所

に回すお金があるんなら、先ず私達国民に使いなさいよって話!」


「──先生。明日出る内閣支持率の各社プレリリースです」

「うむ」

 都内のとある議員事務所で、彼は秘書から内々に直近の情報を受け取っていました。自身

のデスクの上に、過去数回分と合わせたグラフの紙面を開き、暫くじっと目を通します。点

と線で結ばれたその全体像は、山折り谷折りを繰り返しながらも着実に下降コースへと進ん

でいました。

「……二十を割るのも、時間の問題だな」

「はい。最近の総理のやり方には、かねてから国民の不満が大きいですからね」

 知っている。さもそう言わんばかりに、この有力議員の一人は、ちらっと秘書かれを一瞥する

だけで言葉を続けはしませんでした。証拠が残らないように、自身のライターで紙に火を。

燃えて灰になるそれを傍の水入りグラスに突っ込んで消化し、彼にすぐさま片付けさせます。

席を外してゆくその背中を見送りながら、議員は内心考え込むのでした。

(民意と政治課題の乖離は何も、今に始まったことではないが……。今の有権者は皆、各々

の生活にばかり目を向けている気がしてならん。只でさえ我が国は、覇権主義を取る隣国が

多いというのに……。外交のリソースすら惜しみ、情報システムの構築さえ“嫌悪感”一点

で遅らせれば、その分得をするのは奴らなのだぞ……?)

 内心の苛立ち。しかし彼自身、そんな本音をいざ何処かで漏らしてしまったが最後、己の

政治家生命が少なからず絶たれてしまうことは理解していました。

 元より自分達の仕事には絶対の“正解”など無い──必ず利害は対立し、損をする者と得

をする者が出てきます。不平不満は無くならず、足の引っ張り合いや嫉妬は茶飯事です。そ

の上で社会全体が良くなってゆく道を、文字通り責任を負って拓いてゆくものだと彼は考え

てきました。事実であることが、必ずしも正しい訳ではないのです。他人びとによって心地

良いものばかりではないのです。

 民主主義とは、そういうものであり続けてきました。

(……私も、次の選挙では落されてしまうかもしれないな。他の者達は、あの手この手で生

き残りを優先するのだろうが……)

 先生? 灰にした紙を処分し終わり、戻って来た秘書が怪訝な様子でこちらに声を掛けて

きました。この議員は静かに我に返り、未だ年若く経験も十分とは言えない彼を言葉もなく

見つめ返します。

「いいや、何でもないよ」

「私達が先だったのか、彼らが先だったのか……。益体の無い考えを掃っていただけさ」


 その惑星ほしは、長い歴史の中でこの数千年ほど、急激に文明を築き上げてきた種族が支配者

として君臨しているようでした。そう言えばまだ多少マイルドですが、要するに環境を自分

達の都合の良いように破壊・改変しては、一方でその利益を巡って文字通り大量の血を流す

ことも厭わない──流させることも厭わない。良くも悪くも本能に忠実で、矛盾に満ちた蛮

族でした。

『──なあ、どうするね? そろそろあいつら、宇宙こっちにも進出して来そうな勢いだぞ? 今

の内に技術ごと潰しておかないと、いずれ同胞らにも牙を剥くかもしれない』

『可能性はまあ、あるかなあ……。ただその時はその時で、ぶち殺しまえばいいだけじゃね

えの? 所詮は辺境の蛮族風情だろ? 俺達の敵じゃねえって』

 話し合っているのは、少なくとも“人間”とは呼べない姿形、緑の肌を持つ一団でした。

 深い暗がりが延々と広がる空間、宇宙の一角からこの地球ほしを観察し、三つある眼で尖り耳

をヒクつかせて警戒しています。尤もその理由の多くは、自分達と同等の存在になることへ

の恐れというよりも、要らぬリソースを払わざるを得なくなることへの面倒臭さに近いよう

でした。無数の機器とディスプレイに映し出される、今も尚各地で戦争を起こしては止まな

現地民にんげんたちに、彼らはあーだこーだと若干呆れた様子のまま議論を続けています。

『またそうやって……。過去にも油断してたら、やれ迫害だ差別だと言って突っ込んできた

馬鹿どもがいただろうが。俺達がこうしてあちこちに派遣されてるのも、面倒な芽を早めに

見つけて摘んでおく為だと司令も──』

『あ~、はいはい。分かってるって。じゃあ何か? お前はあの惑星ほしを今すぐにでも消しち

まった方が良いと考えてるのか? それこそ俺達の任務はあくまで“偵察”で、直接ドンパ

チやる訳じゃねえだろうが。判断は結局、司令部のお偉いさん方だろうがよ』

 慎重論を述べる仲間の一人が、そう楽観論的な別の一人に言い返されていました。あくま

で自分達の役割に準じ、いざ面倒が起こった時には必ずしも最前線にいる訳ではない──指

摘された内容は紛れもない事実のため、彼も咄嗟に反論することは出来なかったようです。

『ぐぬ……。そう、だがな。ただ私としては、司令部には危険性ありと報告したい。彼らの

寿命的にはもっと何世代も後の話になるだろうが、技術的にはこちらに進出し得るものが既

に磨かれつつある。マークしておくに、越した事は無い』

『へいへい。流石は俺達の班長さんで……。まあいいぜ? さっきも言ったが、決めるのは

司令部だしな。お前らもどうだ? 報告の方向性、そういう感じで構わないか?』

 コクリ。同じ母船ふねに乗る他の仲間達も、特に反論する訳でもなく賛同します。そもそも注

意すべき他星が見つかったという報告は、それ自体が彼らにとって“成果”ともなる側面が

あるからです。一団のリーダー格──慎重論の隊員は、改めて皆の了解を得て頷くのでした。

『では、帰還の準備と報告書の作成に移ろう』

『太陽系第三惑星、地球。危険度は、現状評価でCからCプラスといった所か。だが彼らの

一部が持つ貪欲さと凶暴性は、将来的に我々連邦の領域を侵してくる可能性がある。司令部

には、評議会を通してその性質を十分に周知──排除までのプロセスを予め固めておく必要

ありと報告したい』


 ***


(──んぅぅ?)

 ぼんやりと覚醒してきた意識の端で、彼はゆっくりと目を開こうとします。

 何だかついさっきまで、やけに壮大な物語がギュンギュンと迫って来ていたような……?

(ま、いいや)

 ですが次の瞬間、彼はそれらを全て投げ棄てました。特に憶えておくことでもないだろう

とぶつ切りにしました。文字通りブツンと、世界は消え去ります。

 黒い広大な空に輝いていた星々と、その一点一点をフォーカスすれば息づいていた者達。

その全てが彼の目覚めと共に無に帰しました。何もかもが、あっさりと終わって始まりまし

た。ぐぐっと背伸びをして、彼は寝床から起き上がります。カーテンの隙間から漏れる朝日

が嫌に眩しく、引き籠りがちの身体には堪えます。

「……ふあ」

 とはいえ、まだ欠伸は出て身体は寝ていたい、休みたいと全力でアラームを鳴らしている

ようでした。積極的にエネルギーを消費するよりも、しないように温存するよう振る舞うこ

とが生態として染み付いて久しい。そんなタイプの人間が彼でした。

 ベージュの褪せた短パンと、青いTシャツ姿。ぐしゃぐしゃになったベッドの上のタオル

ケットは、今朝も音も無くすぐ傍で丸く固まっています。

『ちょっと~、タケシ~! いい加減に起きなさい! 母さん、もう出るからね!?』

「あ~い。分かってる……。適当に朝飯も済ませるから、降りるから……」

 階下で怒鳴るように、同居する親の叫び声が聞こえてきました。彼はそれをようやく目覚

まし代わりに、たっぷりと贅肉の付いた身体を起こしてゆきます。怠惰な一日が、また今日

も過ぎてゆきます。


 ……。


 何を惜しむ必要があるのでしょう?

 世界とは、そんなものです。終わりが来れば全て等しく幻。どれだけ必死に生きた所で、

その“外側”に居る誰かにとっては、取るに足らない刹那の夢に過ぎないのなら。

                                      (了)

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