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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-128.July 2023
137/284

(2) 逃げ水

【お題】プロポーズ、希薄、時流

 思えば最初の違和感は、彼に求婚プロポーズされたその瞬間だったのかもしれない。

『──僕と、結婚してください』

 突然そんな風にかしずかれ、一世一代の告白を受けたのは、もう何度目になるだろうかと数え

直すことも今更になった頃合いのデート中。咲希は彼から半ば“不意打ち”の如く投げ掛け

られた言葉に、思わず唖然と立ち尽くしたことを憶えている。

 フッと、何時もの彼の優しい微笑みと、同じく周りを囲んで拍手を送ってくる通りすがり

だった筈の他人びと。程なくしてこのデート自体が予めセッティングされたもの──俗に言

うフラッシュモブなのだと、彼女は理解した。その上で、顔を真っ赤にして俯いて、一度は

反射的に結んだ唇から返事を紡ぐ。

『はい。よろしく……お願いします』

 大成功!

 彼及び通行人を装っていた協力者達エキストラはわあっと喜びを爆発させていたが、実の所当の咲希

自身は全く別の感慨をもってこの瞬間を迎えざるを得なかったのだ。

 要するに……。彼からのサプライズに“感動”するよりも先に、内心“ずるい”と思って

しまっていたこと。或いはそんな素直な反応すら返せないことを含めてのパフォーマンスだ

ったのかもしれないが、どちらにしても彼女としては喜べなかった。

(……こんな状況まで作られて、断れる訳ないじゃない)

 尤も数年の交際を続けていた彼は、普段から紳士的な好青年だったし、何より稼ぎは十分

だった。傍から見れば、間違いなく“優良物件”であるだろう。咲希自身も、そろそろ彼と

の今後をどうするか? 密かに考えを巡らせていたし、既に両親にも紹介して「早く孫の顔

が見たいねえ」云々と圧を掛けられていた矢先。ちょうど良かったと言えば、ちょうど良か

ったと言えなくもないのもまた事実だった。

『ありがとう、ありがとう、咲希! 絶対、絶対、幸せにするから……!』

『うん……』

 かしずかれた際、箱を開けながら渡された結婚指輪。

 その明確に物として残る証を掌に乗せたまま、咲希は酷くホッとして微笑わらう彼の姿を視界

に映しつつ、やはり気圧されがちで──。


 ***


「春花、秋菜~! そろそろ起きなさい! 遅刻するわよ~!」

『ふぁ~い』

『うん。今行く~』

 それから二十年近い時が流れた。今日も咲希はエプロンを引っ掛けてダイニングキッチン

の動線上を動き回り、二階でまだ眠っている娘達に呼び掛ける。ガタン、ガタタン! 一回

慌ただしい物音、その数拍後に寝惚けた声と穏やかな声が連続して帰って来、制服姿の当人

達が姿を現す。

「おはよ~……」

「おはよう、春花。ほら早く、顔洗って来なさい。秋菜もおはよう」

「うん。おはよう、ママ。ほら、足元気を付けて? ハルちゃん」

「ん~……」

 大雑把というかお眠さんな姉と、そんな姉を甲斐甲斐しく世話するように立ち回る、基本

大人しくもしっかり者の妹。

 二人の娘は、性格こそ対照的だがとても良く似た顔・背丈をしていた。当然だろう。何故

なら姉妹は姉妹でも双子なのだから。

「……毎朝毎朝飽きねえな、姉貴達は」

 一方そんな様子を横目で見遣りながら、既にテーブルの上で黙々とトースト主体の朝食を

齧っている少年が一人。春花・秋菜の二つ下の弟、夏樹だった。姉達と同じ高校の制服姿で

はあるが、こちらはもっと真新しい感じのする具合──今年入学したばかりの一年生だ。母

たる咲希もそうねと、小さな嘆息を吐いてはキッチンの動線に戻っている。

「それに比べて、あんたは何時も早起きで助かるわ。昨夜も、そこまで早く寝た訳じゃない

でしょうに。大丈夫?」

「平気。秋ねえはともかく、春ねえが騒がしいのにはもう慣れてるし」

「……苦労させられてるわねえ」

 もうちょっとコーヒー飲む? 苦笑しながら取り外したデカンタを片手に、気付けばそう

随分達観した性格になってしまった息子へ咲希は訊ねた。「いや、いい」だがこれも何時も

の反応ではあるが、対する夏樹は短く不要を返したと思うと、そそくさと食べ終わった自分

の分を流しに投入。洗い終えてしまった。デカンタを本体に戻し、再び朝のルーティンに戻

る咲希。詰め終えた三人分の弁当箱には、今日も色とりどりのおかずとご飯が二段構造で収

められている。

「はい、お弁当。もう出ちゃう?」

「ああ。姉貴達を待ってたら、俺まで遅刻する」

「ちょっと~、聞こえたわよ~? 夏樹~! もっと姉を敬いなさ~い!」

「はいはい、ハルちゃん。そういう台詞は、ナツ君より早起きして、ビシッと決まった時に

言おうね~?」

 廊下の向こう、洗面所から顔を出してきた春花及びこれに突っ込みを入れる秋菜が、揃っ

てリビングに戻ってきた。顔を洗って眠気がすっかり醒めたらしく、弟に捨て台詞を吐こう

とする勝気でミドルショートの姉。隣でニコニコ微笑わらっている、緩いおさげ髪に結わった妹。

「……行って来ます」

「あっ、ちょっ!? 無視すん──」

「ほら二人も、朝ご飯食べちゃいなさい。今朝もあんまり時間ないわよ?」

「は~い。ほら、ハルちゃんも。お弁当も、忘れず持って」

「ぬう……」

 もう慣れた、見飽きたと言外に突っ撥ね、早々に独り自宅を後にしてゆく夏樹。そんな弟

へのツッコミを入れている時間も惜しいと、残された二人は隣り合ってテーブルに着いてい

た。咲希も言うように、見上げた壁の時計が指す時刻は、音もなく問答無用で進んでいる。

もきゅもきゅと、この双子の娘達は巻きで朝食を摂り始めた。リビング壁面から見えるテレ

ビ画面には、今日の星座占いランキングが流されている。

「まったく……。昔はもうちょっと、愛想のいい子だったのにねえ」

「ナツ君は小さい頃から割と、大人しい子だったよ? ハルちゃんがお姉ちゃん風を吹かせ

過ぎて、色々無茶させるから……」

「え~? そんなことないと思うけどなあ。あいつがちょっと、陰キャ寄りなだけだよ。家

に居ても、偶に気配消してる時あるじゃん?」

「勉強したり、本読んでるだけだって……。寧ろハルちゃんの所為で、邪魔になっていない

かどうかが心配だよう」

「──」

 やいのやいの。成長した娘や息子達が、気付けばすっかり“日常”として見せるようにな

った朝の一齣。咲希は一旦落ち着いた家事の手を止め、静かにそんな娘達の姿と声を見守っ

ていた。「何で私オンリー!?」すかさずツッコミを入れている春花に、くすくすと秋菜は

動じず、逆に楽しんでいる節さえある。基本大人しくて良い子だが、しばしば姉弄りの際に

は妙なスイッチが入るようだ。母として、若干心配な気質かもしれない。

(……あの子達も、来年には受験生かあ。気付けばあっという間だったわねえ……。私も、

すっかりおばさんになっちゃって)

 ほろり情というよりは、自身に向けた哀愁に近い感情。咲希は結婚以来、出産・子育てに

費やしてきたこの十数年を思う。子供達の──若干個性の灰汁が強い感はあるが──無事に

ここまで成長した姿の分、反動のように自らが置いて来てしまったものを思う。

(本当に……これで良かったのかしら? 確かに今の生活に、家計にそれほど大きな不満が

あるって訳じゃないけれど)

 夫は今朝も早くから出勤していった。当時からあの優男風に見えてバリバリの技術屋で、

今ではとある大手メーカーの研究主任という要職に就いている。だというのに、妻である自

分や子供達と過ごす時間も積極的に作ってくれるし、帰宅している間は家事もそこそこ手伝

ってくれる。本当に、好い人……。

「あ。ねえ~、ママ~! 今日パパ早めに帰れそうだって~! メッセージ来た~!」

「家族RINE、私達で返しておいていい?」

「え? あ、うん。お願いできる?」

「は~い!」

 家族仲も良好。少なくとも共有するような連絡事項は、今のように家族内のグループチャ

ットですぐに発信・返信するのが当たり前の風景になって久しい。普段から思春期真っ盛り

なのか、基本皆とも距離を保ちたがる息子はともかく、これまで目立って子供達と自分達と

の間に大きなトラブルが起きたこともない。こちらも都度叱るべき所は叱っているつもりで

はあるが、やはり理想的父親像というものが大きいのだろうか? 背中で語る──しっかり

と稼いできて、尚且つコミュニケーションにも手を抜かない。場合によっては、自分よりも

夫の方が子供達に懐かれているのでは? と感じる瞬間ときすらある。

「んぐ、んぐ……」

「ハルちゃん。そろそろ出ないと」

「あ、うん。もうちょっとで食べ終わるから……」

「後片付けはこっちでしておくから、行って来なさい。秋菜、春花をお願いね?」

「うん。分かってる」

「んっく……。ごちそうさま。何で秋菜の方が任されてるのさ~? 私は姉だぞ~?」

「はいはい。だったら、もっとお姉ちゃんらしい所、私にもナツ君にも見せましょうね~」

 朝食を平らげ、春花が秋菜に背を押されるような恰好で出て行った。身支度の詰めや弁当

包みを手に取るのもそこそこに、最後の最後まで姉妹の仲睦まじいやり取りをこちらに聞か

せてくれながら。

「は~い。行ってらっしゃい」

 小さく手を振って見送り、パタンと閉じた玄関の扉を暫し眺めた後、咲希は一人残された

家の中でじわりと孤独にも似た感触に苛まれ出す。

(……解ってる。今更如何こう出来るってものじゃないことぐらい)

 きっと傍から見れば、比較的裕福且つ理想的な家族。夫も子供達も、自分には勿体無いぐ

らい有能で優しい。良い子に育ってくれた。

 だからこそ──あの時からずっと、繰り返し繰り返し彼女には裏返しのような不安が付き

まとってきた。考え過ぎだ、贅沢だと一蹴しても、頑固にこびり付いて剥がれない。


“本当に、選んでくれたのが私で良かったのだろうか?”

“あの時もっと違う返事、選択をしていたら、自分の人生は変わっていたんじゃないか?”


「……」

 じゃぶじゃぶ。娘達が置いていった朝食の皿を、流しの中で洗う。咲希は手元・眼下で手

を動かしながらも、思考は何処か遠く過去にあった。全ては二十年ほど前、当時交際してい

た夫から突然告げられた、今から見ても結構気障ったらしいプロポーズ。

 繰り返すが、別に彼のことを、夫のことが嫌いだった訳じゃない。ただあんな突然で、周

りが見えている場を用意されて。ある種退路を塞がれた上で返事を要求された時点で。

 結婚から妊娠、出産、今日に至る子育てまで。ドタバタと過ごす日々に呑まれて仕方なか

ったと言えば仕方ないが、あの時から一抹の不信感──のようなものが自分にはあったので

はないか? 子供達がそこそこに独り歩きし、落ち着いてきた分、彼女はふとした隙間時間

に考えるようになった。もしかして夫は、自分のことを好きというより、妻子を大事にして

いる己に酔っているのではないか? そんな視点が生まれていたからだ。尤もそんな理屈な

どは結局責任転嫁というか、夫に求められるがまま今日まで妻として歩んできた、流される

ままだったことへの反省から来ている。攻撃性に転じた揺り戻しだ。……そこまで明確に言

語化出来てはいずとも、心の何処かでその存在は認めていた筈で。

「これで、よし」

 洗い物も済ませ、キュッと蛇口を締める。取っ手に掛けてあったハンドタオルで、濡れた

手をさっと拭う。

 一方で彼女の脳裏には、ぐるぐると思考が巡る。追憶が顔を出す。夫が“優良物件”であ

ればあるほど、では自分は? 自分はこのままで良いのか? という自問といが激しさを増す。

何となく安寧に、これからも平穏無事な家庭の中に浸かったままで良いのかと、心の奥底で

チリチリと得体の知れない焦燥が燻る。自覚されない黒い火種が、他ならぬ彼女自身の劣等

感の中から生じて久しい。


“どうして彼は、ああまでして私のことを選んでくれたのだろう?”

“私達はただ、同じ大学の学部に居ただけの、先輩後輩だったのに。偶々取っていた講義が

幾つか被ったことで、知り合いになった程度の切欠に過ぎなかったのに”


 ***


『やあやあ、久しぶり~。元気してた?』

ゆい? 久しぶり。もしかして、卒業式以来?」

『だったと思う。番号が生きてて良かったよ~。どうやら良い人も見つけたみたいだし?』

 切欠は、その日の夜のことだった。早めに帰宅した夫も含め、家族五人で夕食を囲み、洗

い物後のまったりとした時間を過ごしていた最中、ふと咲希のスマホへ懐かしい人物からの

電話が掛かってきたのだった。高校時代のクラスメートの一人・唯である。驚いてすぐ気の

利いた言葉を返せないこちらとは裏腹に、彼女はそうニッと通話の向こうで笑ってくれてい

た。どうやら電話越しに父子おやこ水入らずで過ごす夫達の声が聞こえているらしい。

「そう……なのかな。私にとっては、もう当たり前の風景になっているんだけど」

 言って咲希は、その応答が受け取り方によっては自慢なり惚気になるのでは? と危惧し

た。娘達と一緒に、ゲームで対戦している夫。息子は息子で同じくリビングには居るが、こ

れに参加する訳でもなくソファでじっと本を読んでいる。

『ははは。だったら大事にしときな~? もう十年二十年と経てば、ごっそり様変わりする

だろうしねえ』

「え、ええ……。そうね。来年にはもう、上の子達も受験だし……」

 少なくとも電話越しからは、旧友ともの声に険は感じられなかった。若干からかい気味で続く

そんな言葉に、彼女も合わせておく。『ほう、受験?』暫し二人は、お互いの近況を伝え合

った。やれ今どの辺りに住んでいるのか? 何時結婚したのか? 何をして、どんな歳月を

歩んできたのか……。

『──そっかあ。元気そうで安心した。タイミングも結構ギリギリだったかなあ? ねえ、

咲希。再来月の半ばぐらいって、何か予定入ってる?』

「再来月? う~んと、特にこれと言ってまだ決まってるものは無いけど……。強いて言う

なら子供達の部活絡みくらい」

『うんうん。実はね~、今度そのぐらいにうちのクラスの同窓会をしようって話が出てるみ

たいなんだ~。咲希の所には、まだ案内来てない?』

「えっ? ううん。そういう郵便は……まだ」

『じゃあ送ってる最中なのかなあ? こっちは今日夕方にポストに入ってたから、そっちも

もしかしてと思って』

「ああ……」

 そうして多少の長話を経た後、聞かされた本題は、彼女にとって思いもかけないものだっ

た。電話の向こうで旧友ゆいが、同じく見込みが外れて思案の声を漏らしている。確かに自分の

所に届けば、かつてのクラスメート達にもと考えるのは自然だろう。

「前にも誘いはあったんだけどねえ。ちょうどあの頃は、下の子が中学に上がって間もない

頃だったし……」

『あ~、やんちゃ盛りだ~。まあ無理強いはしないよ。イケるなら久しぶりに会えるかなあ

って思っただけで』

「うん。そう言えば、今回の幹事って?」

『利根川君。こっちにも彼名義で送られてきてるから、間違いないと思う』

「そっかあ……。彼かあ……」

 視界の向こう、同じ部屋の中で束の間の団欒を過ごしている夫達の姿を眺めながら、咲希

は過去の記憶に思いを馳せていた。確か彼と言えば、当時からぐいぐいと周りを引っ張って

ゆくリーダータイプだったと記憶している。尤も見た目や性格が少々荒っぽいため、合う人

と合わない人の差も大きかったように思うが。

『私は前回の時にも会ってるけど、結構ワイルド系のイケおじになってたよ~? そっち系

ならモテそうなのに、まだ独り身なんだってさ』

「あはは。何、その情報? 別にそんなの、訊いてないけど……」

 通話の向こうから聞かされる旧友ともの話に、当初咲希は苦笑を浮かべて受け流す程度の認識

しかなかった。自分も彼女も、既にめいめいの道へ進んだ身。家族のある身。懐かしさこそ

呼び起されても、それ以上の感情など、今更熾る筈も無かったのだ。

 無かった──筈なのだ。

                                      (了)

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