(3) 口沙禍伝
【お題】本、地獄、禁止
昔々、遥か古の頃、ヒトは未だ自分の思いを誰かに伝える術すら持っていませんでした。
毛皮と服、猿とその果ての中間で、長らく呻き声のような言葉しか発することは出来なかっ
たのです。
それでも……長い長い時間を掛けて、一部の個体はようやくそうした音に意味を持たせら
れるようになりました。あれは●●、それは▲▲。声だけで伝わらないのなら、身振り手振
りの全身で。仲間達も徐々に彼らの意図する所を理解してゆき、即ち共有出来るようになり
ました。言語と呼ばれるものが、ただの音や声と根本的に違う為の要素です。
『~! ~~!!』
『~♪ ~♪』
目の前にいる筈なのに、思い通りには伝わらない孤独。
伝わるようになったことで、セカイ中に満ち溢れ──そして共有するようになった概念。
ヒトの暮らしは、以降劇的に変わってゆきました。いえ、正確に言うならば、そうした術
を得た者を内包する集団が、生存競争に勝ち残っていったと評するべきなのでしょう。
狩りの時、一斉に獲物へと襲い掛かるタイミングを共有することが出来ます。
採取の時、どの辺りにどれぐらいの食べ物が生っているかを共有することが出来ます。
危険が迫った時、安全な場所。安定して衣食住に繋げられる環境や技術の伝承。何より獣
なままに集い、或いはぶつかり合う以外の選択肢が生まれたこと。未然に防ぎ、集団として
維持可能な時間が大きく増えたこと……。
『こっち、は、食べたら、駄目。毒の実』
『こっち、は、食べられる。いっぱい生る。いっぱい甘い』
『うん。うん──』
粗末ながらも手先の器用さを活かして作った住処の中で、父は子に、大人は子供らにそう
して一つ一つを教えてゆきました。いつか自分が満足に動けなくなった時、この世からいな
くなってしまった時、彼らだけで食い繋いでゆく為の知識のありったけを。
それはかつて自分が、親や集落の大人達から教わり、実物を見て憶えたことでした。事実
そのお陰で無事に育ち、新しい家族も出来て安定した暮らしを手繰り寄せることが出来てい
ます。尤も、本当に絶対“安全”かと言われれば、必ずしもそうではないのでしょうが……
ずっとずっと昔に比べれば進歩したものです。落ち着いたと、老人達は口を揃えて懐かしん
で言います。
『? 何、してる?』
『おっとうの話、残してる。聞いてても、忘れる時、ある……から』
またずっとずっと、長い時間が流れていって。おんなじ繰り返しを何度も何度もヒトは営
み続けて。
誰が一番最初だったのかは、やはり判りません。今となっては誰も知りません。ただある
時、そんな大事な大事な話を──伝承を、忘れないよう“書き留め”ようとする者達が現れ
ました。最初は土、硬めの平石やなめした皮の上に、ガリガリと棒きれで刻むような程度の
脆いもの。それでも一生懸命に、彼らは先人達の言葉を幾つかの図形として残すことを思い
付いたのでした。怪訝に覗き込んでくる父に、年長衆に、新たな世代の担い手は言います。
『この形、●●って意味。この線と囲い、今話してた、森の場所』
『なるほど……? だが、言われないと、分からん……ぞ?』
『うん、うん。だったら皆で、分けっこする。誰かが書いても、同じ話になるよう、に』
つまり、文字の誕生です。先人の声だけを頼りにしていれば、いずれその語り部本人はこ
の世からいなくなってしまいます。その前にもっと別の形で──次の語り部が育つよりも早
くこちらの術が広く共有されてゆけば、そもそも誰か一握りの大人だけに任せなくても済む
という理屈でした。
もしかしたら、狩りの途中で命を落とすかもしれない。もしかしたら急な病で、全てを伝
え切る前に自分達の前からいなくなってしまうかもしれない。
『……』
ただこの時、それまでの世代と新しい世代、及び彼らとは全く別の集落の者達は、知る由
もありませんでした。やがて文字の発明により、重宝されし“語り部”としての立場を失う
ことを恐れた者達が、これを亡き者にしようとすることも。文字の存在を知り、ならば直接
“語り部”達の口を割らせずとも、生活を支えてくれる新しい資源が手に入る筈だと目論ん
でゆくことも。
詰まる所、誰がその“特権”を持つのか? その奪い合いに他ならなかったのでしょう。
集団で暮らし、生き抜くことに余裕が生まれつつあったことで、ヒトはそんな概念的な上下
関係にも執着するようになった──そう云われています。実際独占に近い形で、それら口伝
や文字という学を得ることは、往々にして頭一つ飛び抜けた収穫なり成果を周りに示す力と
なりました。示された富は、やはり彼らを傅かせるのには十二分だったのです。
……長らく、読み書きや計算、学と呼べるものは強者の特権として機能しました。或いは
強者だからこそ、身に付けることが出来たのか。どちらにせよ、後に支配者、集落ないし國
として拡大していった王らは更なる富を目指すようになりました。もっともっと。自らがよ
り優れているのだと、今やすっかり盤石になってきた生存技術の上で嗤います。
ですが彼らも、元を辿ればかつて新しく作り、或いは奪った側。つまりは切欠一つでその
立場は容易に逆転するということです。
大きな転機の一つは、文字をまとめた器物が、本という形を取って王達以外の者らにも届
くようになったことです。持つ者だった筈の者達は焦りました。徒に知恵を持たれては、自
身の絶対的な権威に関わる──しばしば彼らは、長らく付随してきた力でもって、野に広が
るそれを焼いて回るようになりました。やれお前達が持っていいものではないと、やれその
教えは邪悪だと。何かに理由をつけ、取り上げるようになります。焼くようになります。そ
れがやがて本から人自体に切り替わるのに……そう時間は掛からなかった筈です。
それでも、それでも。いたちごっこ。
本という名の文字の塊は、時代が進むにつれ印刷技術によって量産が可能となりました。
この時には従来の権力者達だけではなく、写本──書き写す対価として金銭を受け取る、そ
んな生業をしていた者達にとっても死活問題でした。しばしば焼かれる側が、時に焼く側と
一緒になり、再三その新たな技術と可能性を潰しに掛かります。根回しをし、或いはもっと
直接的に印刷機械や技術者を襲い、威迫を加えることもあったと云います。常にヒトは、持
たざる者へと落ちることへの恐怖に敏感でした。それはきっと……遥か大昔、食うことにも
困っていた先祖からの遺伝なのかもしれません。
『だったら──もっと先に、世界中へこの情報を届けよう。皆、どうか知ってくれ!』
『嗚呼、そうだ。別に一から自分で創り上げなくてもいいじゃないか。幸い今は、手本にな
りそうな情報がゴロゴロと転がっている』
時代は進み、時代は進み、やはりいたちごっこは。
やがてヒトが、ヒトを樽単位で殺めては殺められを何度か繰り返す内に、またしても持つ
者と持たざる者は変容してゆきます。長らく世を引っ搔き回していた文字の力、印刷の権力
は、また新たに胎動し始めた技術群によってその優位性を徐々に失い始めました。書籍とし
て世に送り出すよりももっと早く、そもそも事前に世界中へ敷いた配線を猛スピードで伝う
ことで、最早情報は印刷物であることも必須とはならなくなったのです。
勿論それは、人々の裾野を大きくする一方で、不法にこれらを得て且つ広める生業を生み
出すことにも寄与してしまいました。印刷の力、いつしか作家と呼ばれるようになった紡ぎ
手達は口を揃えて言います。
『あんな奴らは邪道だ。賊みたいなモンだ!』
『お前らのせいで、俺達が食える筈だった飯も食えない──』
ただ結論から言えば、そんないがみ合いすらも、所詮はとば口に過ぎなかったのかもしれ
ません。物理の紙か、電脳のデータか? しばしば大雑把に分断・対立させた人々の視線を
余所に、ある時また新たな技術が産声を上げたのです。それは後者──世に溢れるデータす
らも密かに糧にして、使い方次第では生身の人間すら超える正確さと創造性をも発揮し得る
第三勢力。人工知能ことAIの台頭でした。世の多くの人々が気付いた時には、その技術は
既に利便性を求める者達を取り込み、ゼロに戻し得ぬ存在として地位を獲得していました。
印刷の権力も、電子の権力も焦りました。
『拙い。拙いぞ。いがみ合いをしている場合じゃない!』
『おいおいおい……。ちょっと、ちょっと待て!』
『何勝手に、こっちが必死こいて修めたノウハウを使ってやがるんだ!? ああ!?』
……ただ単純に、いわゆる“共通の敵”が現れただけ、なのかもしれませんが。
いつの時代も、どれだけヒトが流暢になっても、立場を奪われかねないと悟った瞬間から
の攻撃性は変わりません。寧ろ何もかもが早く、集団でその“感情”が共有されるようにな
った分、この性質は強まる一方だったのかもしれません。
人々の間でも、この新たな技術に対する是非は大きく食い違いました。普段の生計、学業
の範疇でその恩恵を受けられると考える者はそこまで忌避感はありませんでしたし、逆に恩
恵を奪われる──自分に取って代わられると憂いた者の一部は殊更強く反発しました。
『今はまだ発展途上だからいいかもしれないけどな……。これでもう人間と遜色ないぐらい
のレベルが実現して、普及するようになったら、こっちは商売上がったりなんだよ!』
『ふ~ん? 別にいいんじゃない? 作家なんて、別になくても困らないし』
『いや、一概にそうとも言えねえだろ。一口に作家って言っても色々いるんだぞ? お前ら
が毎年キャーキャー言いながら観てるドラマだって、作ってるのは作家って括りじゃん』
『楽しめるのを作ってくれるんなら、人なのかAIなのかはどっちでも良くない?』
『それが他人事だと言っているんだと! ……貴女が今就いている仕事だって、いつかAI
に取って代わられるかもしれない。ムラっけのある人間より、機械やAIの正確な働きの方
がよほど経営者にとっては魅力的だ』
『あ゛? 機械やシステムの維持管理舐めんな。人間は勝手に自分で休んでメンテしてくれ
っけど、機械はそうはいかねえんだよ。そっちの労力だって半端ねえんだよ』
『これだから作家先生は……』
『職種どうこうって話じゃなくない?』
『まあ実際、普及はしても無くなりはしないと思うなあ。規制したって、してない国とか、
抜け穴は幾らでも見つけるだろうし……』
『どうせなら糞無能な政治家を、そっくりAIにとっかえちまおうぜ。よっぽどいい仕事し
てくれるんじゃね?』
何故こうなったのか、何処かで留まるべきだったのか? 全てに通用する答えなどきっと
無いのでしょう。仮にそのタイミングが在ったとしても、ヒトに自らそれを停止させること
は不可能だった筈です。邁進と功罪は両輪──片方だけでは、進むことも止まることも満足
には出来ないのですから。
(……どうせ好き勝手に奪われるのなら、もう公開する必要なんて無いな。もっと相手を選
んで、自分の把握できる範囲内で扱えるようになれば……)
遠い未来の話です。かつてとにかくオープンに、ワールドワイドにと拡張する一方であっ
た世界、特に個々人のレベルにおいては、ある時を境に限定的へと回帰する動きが強くなり
ました。それは“テレパス”──人工的な念話装置の登場により、技術的に可能となりまし
た。専用のデバイスを持つ者同士で認証し合い、ネット空間に言語化された情報を一旦出す
のではなく、直接相手の脳内に伝えたい情報・イメージを送り込むのです。
テレパスの登場は、これまで従来のコミュニケーションに懐疑的・消極的だった層の心を
がっちりと掴みました。往々にしてオープンにされたやり取りは、悪意によって炎上の火種
にされかねず、当人が望んでいない第三者からのレスポンス被害も相次いできたからです。
その意味で、じっくり“隔離”された環境下を作れる件のシステムは、瞬く間に新たな世の
中の形として広まってゆきました。
従来通りのオープンなままで良い者達は、各種インフラの表通りで歌い踊り、或いは喧々
諤々の口論を。そこから一歩どころか数歩引いていたい者達は、テレパスの中で個々に。
細々と。
……ですが、そんなある意味で理想的だった筈の均衡は、結局長持ちすることもなく破ら
れてしまいました。テレパスを利用していた者達の一部、その相手側が、そもそも悪意をも
って暴露するといった事件を度々起こしたからです。クローズドになったとはいえ、それは
別に彼ら同士の諍いの消滅を意味してなどいないのですから。
特に致命傷となったのは、政治家や富裕層などの、社会の上位階級の者達のそれが明るみ
に出たことでした。暴露の為に近付いた“裏切者”は勿論、それ以上に彼らから“本音”を
引き出そうとしたハッカー達の犯行が、後に世界を取り返しのつかない衝突にまで追い遣っ
てしまったのです。
「──要は、もうこいつの言ってることは信用できない! って奴だね。なまじ思っていた
ことがそのまま伝わってしまう技術だったそうだから、いざ本命の部分以外の──隠したか
った方の本音まですっぱ抜かれたら、そりゃあお互いブチ切れるわおっかなくて話せないわ
になるよ」
「実際それで……当時の人達は、世界中で泥沼の戦争をおっぱじめてしまった。私達のご先
祖様は、そんな世の中を見限ってそれまでの生活を全部捨てた。テレパスも便利な生活も何
もかも。一旦全部捨てて……ずっと大昔の、もっとヒトが穏やかに暮らせていた頃に戻ろう
と考えたらしい」
「ふ~ん?」
遠い未来の話。いえ、もしかしたら現在進行形の今かもしれません。
その日、一人の父親が我が子に、そんな長い長いヒトの歴史を話して聞かせていました。
自分達の先祖、この山と森に囲まれた集落を切り拓いた人々が、かつて暗黒時代の戦火を逃
れてきたらしいこと。だからこそ、自分達は今の暮らしをゆるりと守ってゆかなければなら
ないんだよと、我が子に言い聞かせていたのでした。
尤も……まだ幼い、毛皮の半袖短パン姿のこの男の子にはまだ難しい話だったようで、優
しい口調ながらも教訓を込める父の前で退屈そう。生返事を寄越し、意識は既に窓の外から
覗く里山の空気に向いています。
彼も父も、外を歩く住人達は皆原始的──狩りで獲ってきた獣の皮をなめし、角笛や布の
鉢巻きなどを巻いた衣装。家屋も軒並み高層ビルなどとは正反対で、こんもりドーム型の土
壁が仲良く軒を連ねています。
「……やっぱお前にはまだ早かったかなあ? でもいずれは、お前の息子や娘にも、同じよ
うに話してやらなきゃならん歴史だぞ?」
「分かってる~、分かってるって。というか父ちゃん、それどれだけ先の話だよ~」
あはは。父親は案の定との感想に至ったのか、苦笑いを浮かべていました。当の息子がも
う飽きているのはお見通しで、最後にそんな念を押す文句は付け加えたものの、今回は切り
上げてしまおうと決めたのでした。ふいっと、彼と共に窓の外から里の様子を眺めます。
「……。父さんがまだもっと若い頃の話だけどな。昔、長老達の話を聞いて、逆に外の世界
がどんなものなのか気になって出て行ってしまった子がいたんだ。あの時は周りが随分と止
めたようなんだが、聞かなくてな……。結局あれ以来、あの子は帰って来なかった。外の世
界云々より先に、獣にでも襲われて死んでしまったのかもしれないが……」
「外の世界……。そんなの、あるの?」
父親からすれば、かつて自身も苦汁をなめた出来事。
しかし対する息子には、それはある種の“希望”のように見えたのかもしれません。話に
は聞いていた里の外、大人達曰くずっと昔に大きな戦争で人の住めなくなった大地。広大な
未知、冒険譚。ただ我が子からの問いに、彼の応答は歯切れの悪いものでした。
「さてなあ……? あるかもしれないし、ないかもしれない」
ぽつんと幾つかのこぶ型に、鬱蒼とした森と山々の中に埋め込まれたように広がる彼らの
集落。山を越え、谷を越え、濃く漂う霧と雲の向こうに、俯瞰するように飛んだ鳥の視界に
は黒く煤けた何かが映るような。ゴツゴツと、数多に割れて尖り、無造作に突き刺さってい
る不気味な影。或いはその更に向こうでじっと佇んでいる、今や生き物の気配の感じられな
い巨大な廃墟達……。
「どっちでもいいんだよ。私達──ご先祖様達は、そういうものと二度と関わらない為に、
此処で暮らし始めたんだからな」
(了)




