(2) グソク
【お題】息、業務用、運命
「あら? 大二郎さんの所の坊やじゃない。久しぶりね~、大きくなったわねえ」
別に悪意がある訳じゃないんだろう。でも僕のことを知っている大人達は、殆どがいざ顔
を合わせるとそんな風に呼ぶ。
「ええっと……。コ、コウスケ君」
「違うわよ、ダイスケ君よ」
「……幸一です」
割と家から近所のおばさん達でさえ、その程度だ。もう昔っからのことなので慣れっこで
はあるものの、いい加減憶えてくれてもいいのにとは思う。
「ご、ごめんなさいね~?」
「あはは。ほら、私の方が近かったじゃない。ねえ?」
「……そうですね」
所詮、僕という存在など“その程度”の認識なのだろう。
この田舎町で長らく駐在として勤め、本分治安維持から日々の悩み相談にまで乗ってくれ
る頼れるお巡りさん、不破大二郎。僕の父はそんな、町の住民達から厚い信頼を得ている人
物だった。
でも……。実の息子から言わせて貰えば、あの人はそんな聖人君子なんかじゃない。あの
人はただ真面目で、不器用で、とにかく親切に親切を重ねて外にばかり良い顔をする公僕で
しかなかった。寧ろ家にいる時ですら、何処か目の前の家族ではない誰かのことを考えてい
る──そんな人間だったように思う。
「何だよ? この歳で吸ってちゃ駄目だ~とでも言いてえのか?」
大人達だけじゃない。幼い頃から僕は、常に不破幸一ではなく、不破大二郎という男の付
属品としてしか見られなかった。お飯事でも拳銃を撃つ“ちゅーざいさん”役を押し付けら
れたし、小・中学校でも駐在の息子だからと、誰が明確に言うでもないがずっと皆に距離を
取られながら生きてきた。
高校生になってもそれは変わらない。ふと通り掛かった、体育館裏のスペースで、何人か
の先輩が隠れて煙草を吸っている所に出くわしもした。まだ面識が浅い──別の町から通っ
ている面子は、そうして僕にも時々ガンを飛ばしてもきた。個人的には内心、嗚呼この人は
知らないんだと、ちょっぴり嬉しかったりもしたのだけど。
「お、おい。止めとけ」
「そいつの親父、この辺りの駐在やってんだぞ」
「え? マジで……? チッ。おい、俺達のこと、チクろうってんじゃ──」
「別に言いませんよ。こっちにメリットが無いですし。精々、先輩達の肺がんが何年か前倒
しになる程度のことでしょう?」
だから決まって、僕は斜に構えて言ってやったものだ。父さんとは違うと。僕はあの人の
おまけじゃないんだと。
大体警察官なのはあの人で、僕に不良達をどうこうする権限があるでもない。そもそもガ
タイの良い父と違って、僕は生来痩せ型でインドア派。腕っぷしなんて端から向いていなか
ったし、仮にその手のトラブルがあっても返り討ちにされるのは目に見えている。
(正義感を振るって良いのは、それ相応の力がある人間だけだ)
一時は良くも悪くも大き過ぎる父への反発から、彼らのような不良の仲間入りでもして困
らせてやろうかとも考えた。実の息子が非行に走れば、あの男の評判も暴落するだろう。
……思って止めた。結局そこまで振り切れるほどの行動力も無かったし、馬鹿馬鹿しいと
いう感慨が先に立ってしまったから。
要するにそんな“反抗”は、この先も父の影響力に振り回されることを、自分から宣言し
ているようなものだとの結論に至ったからだった。自分の人生は、あの人の名誉の為にある
んじゃない。付属品として以外の価値でなくてはならない。
「……何だよ。ポリ公の癖に度胸ねえなあ」
ぶつぶつ。だから決まって、僕を見たこの手の輩はそんな捨て台詞を放って去ってゆく。
残された吸い殻の跡。ぎゅっと独り、噛み潰すように結んだ唇。
だから僕は──あの人じゃない。
「大学……? お前、警察学校には入らないのか?」
高校生活も残り一年ほどとなった頃。駐在所の裏手に建つ自宅のキッチンで、あの人はそ
う僕に向かって訊ねた。
まるで自分と同じ道を志すことが当たり前かのような。新聞を広げ、只々純粋に驚いてい
るような素振りを見せるこの人に、僕は正直苛立ちを隠せなかった。
同じく台所でコーヒーを淹れていた母が、そんな場の空気を察してか、穏やかな苦笑いを
浮かべて僕達の間に入る。トン、トンとカップを二つ。テーブルの上に置いてフォローに入
ってくれる。
「幸一には酷よお。あなただって、この子がそう丈夫なタイプじゃないってことぐらいは分
かっているでしょう?」
「それは、そうだが……。本気で鍛えれば、多少は……」
「ならない。警官にだけは、絶対にならない」
ぴしゃりと。僕ははっきりと言い切った。なるべく怒号や罵声にならないように、この人
と真正面から喧嘩にだけはならないように、朝食の残りを気持ち急いて胃の中に押し込む。
どうせ次の瞬間には、言い返される内容は決まっているからだ。
「どうして!? 町の人達だって、私達のことを信頼してくれている。お前だって、きっと
私の──」
「僕は父さんじゃない! 何度言ったら分かるんだ!」
堪忍袋の緒。嗚呼、こうして切れるのは何度目だろう。
きっと本人の言葉の後に続くのは、私の後継者になれる。後継として赴任して欲しい。大
方そんな所だろうか。父自身も長年の寄る年波で、いずれ今の仕事ぶりにも限界が来ること
は判り切っている。だからこそ後任を、同じ勝手知りたる息子に託せるものなら託したいと
でも考えているのだろうが……。
「……僕は超人じゃない。父さんにはなれないし、なる心算だってない」
「こ、幸一!」
やっぱり話は、何時だって平行線で。押し付けられるばかりで。
今朝も駄目だったな。僕は早々に席を立ち、椅子に引っ掛けていた鞄を拾って廊下へ出て
行った。ドア一枚を隔てれば、もうそこは別空間だ。
『……どうしてああも頑ななんだ。選択肢の一つ、でも良いのに』
『向いていないって思っているからよ。あの子はどっちかと言うと私似だから……。ごめん
なさいね』
畜生。だから何で、そこで母さんが謝るんだよ?
同じ被害者じゃないか。いつもいつも“大二郎さん所の奥さん”とばかり呼ばれて、家で
も対等というよりは、まるで父さんの補佐みたいなことばかりやって……。付属品扱いされ
ていることで、実は安全圏に居られると思っているんじゃないか?
……今思えば、父さんだけではなく母さんとも疎遠になったのは、こうした二人のやり取
りが何度か耳に入ったからだったのかもしれない。
結局最初の希望通り、僕は高校を卒業後、遠くの大学へと進んだ。故郷から、父さんの影
から全く離れた環境が欲しかったからというのが、一番の理由だったと思う。少なくとも、
そこに明確な夢とか、将来のビジョンがあった訳じゃない。
(──ふう)
凡人は凡人らしく、凡庸に。地味でも人並みにサラリーマンをやれれば御の字だと思う。
尤もそんな当初のふわっとした人生観は、実際に社会人生活へと突入する頃には尚未だ夢
だったんだと思い知らされていた。
突出した能力の無い凡人は、今日びそもそも平均的な仕事に就くことすらも難しい──収
入も暮らしも人脈の層も何もかも、このご時世はとにかく両極端に振れたがる。
幾つかの会社を転々とした後、僕はとある清掃業務をメインとする会社に就職していた。
朝方や夜、中小様々なオフィスビルを掃除し、その従業員らが出社してくる前には大方仕事
を終えて入れ替わるように立ち去る──元々人付き合いが苦手というか億劫で、人仕事より
も黙々と物仕事をしている方が性に合っている自分にとっては、存外気楽な職場だった。勿
論基本は体力勝負だし、現場によっては複数人で臨むこともある。
……あの人が昔、もっと身体を鍛えろ、筋肉をつけろと口煩かったのも或いはこうした汎
用性も踏まえてのことだったのかもしれない。時々思い出して、忌々しくなる。ふるふると
頭を振って握るモップの手を強め、目の前の床や壁に全神経を集中させる。
(二階もこれで一通り……かな? 後は日誌を埋めて、退出準備を……ん?)
異変があったのは、ちょうどそんな折だった。
しんと静まり返ったオフィス社屋内を、独り黙々と掃除し終わった明朝。そろそろ帰り支
度をしようかと二階の渡り廊下に出た直後、ふと視界の端に他人の“人影”が過ぎったよう
に感じたからだ。
……嫌な予感がする。
此処の現場は小規模で、担当しているのは基本僕一人だ。この時間帯にオフィスに入れる
のは、予めIDパスを受け取っている社員か出入り業者ぐらいで、そもそもこんな朝早くか
ら出社してくる社員さんだって居ない筈。
(誰だ……? まさか、泥棒……!?)
二階の渡り廊下、正面エントランスから吹き抜けになっている眼下を手すりから恐る恐る
覗き込み、じっと息を殺して気配を探る。最初は相変わらずしんとして、やはり気のせいだ
ったと思ったのに──奴はいた。こそこそと、明らかに周囲を警戒しながらの歩みで自分の
足元、つまりは社屋の裏口から入ってきたと思われる男が一人、エントランスを直角に突っ
切るように進んでいる。
(社員じゃないよな。うちの作業着でもないし……。今日応援があるなんて聞いてないし)
薄暗くて少し見え辛いが、少なくとも相手は僕の知る関係者という感じではなかった。最
大限好意的に解釈すれば、そもそも自分が掃除だけで社員達と面識がある訳でもなく、もし
かしたら忘れ物か何かを早めに取りに来た……可能性も、ある。
「……」
無理だった。どう考えても相手の挙動は怪しいし、加えてあいつの進路──このままでは
一階のメインオフィスの入口だ。あそこには確か、金庫もあった筈。もしかしたらもしかし
なくても、中に入っている金を狙う心算なのか。
(どうする? どうする? 泥棒なら警察に……。いや、ここで声を立てたら拙いか)
スマホから直接110番を叩こうにも、相手に気付かれたら何をされるか分からない。背
格好は比較的若そうだし、場合によっては凶器の一つや二つ隠し持っていそうだ。
なら警報装置か……? 各オフィスには確か、最低一つは通報してくれるボタンがあると
聞いているが、一介の清掃員には全部の部屋に入れる権限が無い。此処から一番近くては入
れる場所となれば、犯人と同じ一階の別オフィス。今日最初に掃除していた所ぐらいだ。
(……やれるのか? いや、そもそもこんなの僕の仕事じゃないだろ。危ないことは専門の
人間に任せておいて、僕はこのままこっそり帰って……)
論理的に考えればそれが最適解。自分は一介の委託業者で、警察官じゃあない。警察官な
のは、遠い故郷の父の方だ。何故僕が、あの男みたいに。向いていないんだと思い知ってき
たから、独りあの町を出て都会のいち歯車で満足する道を選んだっていうのに。そう在るべ
きだと言い聞かせてきたのに。
「っ──」
なのになあ。どうしてこうなった? いざ動こう、逃げようとした瞬間、脳裏にイメージ
が過ぎった。このまま自分が何も見ていない・聞いていない体で奴を放っておき、まんまと
金を盗まれたら? 大体あいつが早番な社員達の出社時間までに、さっさと帰ってくれる保
証なんて無いのだ。他にも金目の物をと欲張ってオフィスをうろうろし、運悪く鉢合わせて
しまう可能性だってある。その時……彼らはどうなる?
(……せめて、顔だけでも。間違いなく泥棒だと判れば、こんなぐるぐる迷う必要だって無
いだろう? そうだろう?)
言い聞かせる。ギュッと、傍に寝かせていたモップを道具ケースから抜き取る。
武器らしい武器と言えば、これぐらいか。気付かれずに済めばそれで良し。ガラス越しで
構わない。奴が金庫を弄っている所を確認して、それから──。
***
『次のニュースです。本日明朝、●●区五丁目のオフィスビルにて、胸や首を刃物のような
もので刺された男性の遺体が発見されました』
『警察の発表によりますと、被害者は同区の清掃会社作業員、不破幸一さん三十二歳。ビル
内ではほぼ同じ頃、緊急通報用の警報ボタンが押されており、駆けつけた警察官らが男性と
揉み合いになっていた住所不定無職、押尾一成容疑者を現行犯確保。容疑を建造物侵入と窃
盗未遂、及び強盗致傷に切り替えて捜査を進めています』
とある昼間のニュース。それはきっと、世間全てから見れば、あっという間に聞き流され
消化されてゆく情報の一欠片で。
テレビに映し出されたアナウンサーとテロップ、現場を空撮した映像には、昼間から一部
ブルーシートを被せられた、街中のとあるオフィスビルの姿があった。捜査員らしき人影が
幾人か忙しなく出入りし、関係車両が辺りを遮るように停められている。
『──』
事件の報はまだ初期段階で、流れてくる情報はそこまで多くない。だがこのニュースを目
の当たりにしていた一人の父親と母親は、碌な言葉も出ずに打ちひしがれているように見え
た。妻の方は、魂が抜けたかのように泣き崩れて愕然とし、夫の方は激しく頭を抱えている。
テレビ画面の向かい正面、テーブル席に座ったまま、俯き加減でその現実を直視すること
すらも出来ない。
(了)




