(5) 加圧にて
【お題】本、大学、主従
「お~い、次はこの辺の分でいいのか?」
「ああ。なるべく崩さないように持って来てくれ」
休日の朝、人々が大よそ起き出し、めいめいにゆったりとした一時を過ごすであろう頃。
大吾はその貴重な時間を、学生時代からの親友の為に充てていた。予め約束してあった時
刻を前に彼の自宅を訪れ、その膨大な蔵書及び本棚の間を行き交う。
「ほいよ」
「うむ。……すまないな。折角の休みに、こんなことを手伝わせてしまって」
「気にすんなって。どうせ予定も無けりゃあ、家でゴロゴロ寝てるかパチスロにでも行って
たろうし。よほど浪費もしなけりゃあ、健康で文化的な使い方だろ?」
軽くアパートの部屋一つ分はあろうかというスペースに、所狭しと保管された大量の本。
その主たる旧友・金森は、そう大吾に申し訳なさそうな苦笑みを零して声を向けた。尤も当
の本人は、寧ろニカッと笑って気にする様子などなかったが。
蔵書を詰め込んだ部屋から一歩出、廊下を挟んだ向かいには金森の書斎がある。彼はそこ
に置かれた業務用のスキャナプリンタの前に立ち、大吾から受け取った自身の蔵書を、一冊
一冊開いて読み込ませていた。データ化された情報が、同じくUSBケーブルで繋がれた彼
のデスクトップPCに送られてゆく。
健康的で文化的──大吾の自虐的な科白の通り、今日彼が金森家を訪れていたのは、この
膨大な蔵書のバックアップを取る為だった。なまじ数が多過ぎるが故、先日電話で話した際
に手伝いを頼まれたのである。
「時間というのも、不可逆的なリソースだよ。しかも私ではなく、君のだ。それにこうして
機材を動かしている時点で、電気代も……」
「はいはい。理屈はとりあえず置いとけ。俺が気持ちよく協力してんだから、素直に受け取
っとけよ。ほれ、次」
「あ、ああ……すまん」
淡いカーキ色のベストをカジュアルシャツの上から着、角型の黒縁眼鏡を掛けた金森。彼
は終始この親友に気を遣っていたが、当の大吾の側がてきぱきと蔵書のバケツリレーを続け
てくれていたため、作業自体は滞りなく進んでいた。問題はとにかく、その全体量。只々そ
の一点に尽きる。
「……本当に助かるよ。私一人では、到底終わる気がしないからなあ」
「まあ、お前はひょろ長だしな。こういう体力仕事は俺の領分だろ。ただでさえ普段は、大
学の方で忙しいだろうし」
そうだな……。大吾に言われて、また次の蔵書束を渡され、金森はスキャンを掛ける。
彼の本職は、とある大学の講師だ。主な担当は文化史、文学方面。元々の趣味嗜好が高じ
て現在の肩書きに落ち着いた彼は、その専門分野からとにかく本の虫だった。傍から見ても
かなりの重症と呼んでしまって良いだろう。蔵書室の行き届いた整理整頓・保存状態の良さ
からも、その几帳面さは推し量れる。
「しっかし良いのかねえ? バックアップ取っちまったら、これ売っちまうんだろ?」
「ああ。流石に全部は無理だろうけどね。だが、少しずつでも処分はしないと……」
そんな彼が、自身の蔵書整理に手を出し始めた理由は、とても俗っぽかった。一方でその
経緯を聞いた大吾は、内心ちょっぴりホッとすらしたものだが。
半年ほど前、この自宅がある地区の一角で、周辺が騒ぎになるレベルの火事が起こったら
しい。火元の家は全焼、左右と後ろの隣接する家屋も幾棟かが少なからぬ被害を受けてしま
ったそうだ。当時の夜更け、けたたましいサイレンを響かせながら何台もの消防車が駆け抜
けてゆくさまを──自分達と地続きの遠巻きから上がる火の手を眺めながら、彼は妻子と共
に思ったらしい。
『もし火事が私の家で起これば、或いは延焼に巻き込まれれば……被害は比較にならない程
大きくなる』
有り体に言えば“危機感”であった。紙の本はよく燃える。それが職業柄、性分柄大量に
あるのだ。万が一そうした災害で燃え移ったり、或いは倒れてきた時、真っ先に犠牲になる
のは自分達だ。妻と子、守るべき家族の命すらも危険に晒すかもしれない……。
「まあ、どれを捨ててどれをキープするかは、俺じゃあ分からんが。それこそ他のセンセイ
方に譲るとか寄贈するとか、色々やりようはあらあな」
「一応声は駆けて回ってはいるよ。実際それで既に手元を離れた物もある。あるが、まだま
だ処分し切ると呼ぶには足りないな」
もう何度目かも分からない、スキャン完了を知らせる電子音を聞いて、金森は開いていた
本を回収。表紙に『済』と殴り書きされた、足元の段ボール箱へと収めた。これが一杯にな
る度、大吾が再び蔵書室内へと戻してゆくという流れだ。バックアップしたものと未だ出来
ていないもの、ともかく両者の区別と移送がすぐに行えるようにという意図である。
「だろうな……。まだまだ三分の一も終わってねえんじゃねえか? 今朝からだけでも結構
詰めた気がするんだがなあ」
「何度も言ってすまないが、なまじ数が多いからね。君には、もう何回かこういった時間を
作って貰わなければいけないかもしれない」
「それはいいんだよ。ガッチリ齣割りが決まってるそっちとは違って、俺の方は空きの捻出
ぐらいどうとでもなる」
「それでいいのか……?」
「良いんだよ。寧ろ馬鹿の一つ覚えみたいに特攻しまくったって、向こうがヘソ曲げる確率
の方が高ぇんだし。ならもっと、一回の密度を詰めた方が結局良い記事にはなる」
大吾自身も、この手伝いがたったの一日二日で終わるとは始めから思っていなかった。暇
が出来た折につけ気長に、互いに都合をつければいいと考えていた。痺れを切らさず、じっ
くり腰を据えて闘う──彼の本職・雑誌記者にも通じる姿勢だ。
尤も、対する金森の方はと言えば、手伝わせている側という申し訳なさもあってやはり良
い表情はしていないようだった。作業そのものは淡々、長年の付き合いからくる阿吽の呼吸
で進んではいるが、モヤモヤと色々な考えが巡っているらしい。
「……君は」
「うん?」
「君は、良い記事とはどういうものだと思う? いや、記事だけに限らず論文なども含めた
文章全般と言うべきか」
「あ~……? そうだなあ。なるべく嘘じゃあなく、それでいて読む側が食い付いてくれる
書かれ方をしてる奴、って所か」
「なるべく、か」
「ああ。結局“真実”なんざ見る側によって変わるからなあ。かと言って、現象ベースに徹
して“事実”を伝えた所で、読者のニーズとは一致しねえ。“事実”すらそもそも、そいつ
が視たいように視るからな。商売としちゃあ、そっちに振って煽った方が正解ではあるんだ
ろうが……」
最初は少し怪訝に、抱えた蔵書束の横から顔を出した大吾も、ややあってぶつくさとそう
自身の思う所も織り交ぜて答え始めていた。
こいつの問おうとしていることは、何となく解る。ただ雑誌──ゴシップの類と学者セン
セイの論文では、そもそも前提にしている条件が違い過ぎる気もする。
「そうだな……。だがそれでも、君はあくまで“嘘じゃなく”か……。根っこの部分は変わ
らないな」
ふふっ。なのにそうやって苦笑われるものだから、大吾はまた別の意味で眉間に皺を寄せ
た。おそらくは嫌味ではない、寧ろ真逆の反応なのだろうが……妙にスッキリとはしない。
それは十中八九、他ならぬこの親友が自ら放った問いに対し、後ろ暗いものを抱いていると
気取ったからなのだろう。
「……時々思うんだ。私は職業柄、こうして大量の文献を集め、目を通しているが、きっと
大多数の世の人々にとっては酷くつまらないものなんだろうな……と」
曰く、悲しさと一抹の憤り。本来過去・現在・未来、知は人を豊かさに導いてくれる道標
となる筈だが、自分達学者ないし文化人の多くはその威光を己と同一視しがちだという。何
と滑稽ではないかと。論文と物語、知識と娯楽。結果人々に好まれ久しいのは後者で、尚且
つそれも、しばしば彼らに隷属する消耗品であって当然とする風潮すらある。
一応自分は、大吾のように、世俗に対してマウントを取ろうという意識は薄い。あくまで
今の立場も自身の好きが高じただけであって、他人がどう思うが長らく二の次であったから
だ。
だがそれも……今や妻子ある身と先の火事、諸々の保身を考えて行動している目下、揺ら
いでいると言わざるを得ない。
「別にいいじゃねえか。エゴだろうが何だろうが、家族を守りたいってのは立派な理由だと
俺は思うがなあ。まあ独り身が言っても説得力ねえかもだけど」
「……」
作業は黙々と進んでいる。金森は吐露の後、暫く黙っていた。親友だからこそ漏らしたと
いう側面が大きいのだろうが、それはそれとして“らしくない”と自らを戒めているのだと
思われる。
だからこそ大吾は、努めて軽い調子で応じていた。実際その動機が、恥ずべき悪だとは到
底思えなかったからだ。
「そりゃあ、俺みたいなマスコミ関係もお前達学者センセイも、割と“冷や水をぶっかけ”
てなんぼみたいな所があるけどさ……。こっちは商売の為、そっちは学問的に間違ってるの
を正す為で、性格を詰めれば大違いにしても」
「かもな。君も言うじゃないか。どちらにせよ……興味のない他者にとっては、性悪に映る
ことに変わりはないが」
「ははっ。そんなモン、一々気にしてたら仕事になんねえよ。いいじゃねえか。冷や水だろ
うが性悪だろうが。お互い様だろ? そういうことで突っかかってくる奴は、どうせ他の人
間や話題になっても似たような反応を寄越すんだし。お前がその辺の感情に、慣れてないだ
けだ」
「……。ふむ」
大方長らく共に暮らした蔵書──大なり小なり己の中にあった自負が、データに置き換え
られてゆく中で抵抗し始めたからなのだろうと、大吾は漠然と思った。当の金森も、じっと
視線をスキャナの操作画面に落としたまま再思索を重ねている。ミクロな自分の暮らしも含
めた、象牙の塔的な理想像から反転することへの戸惑いの現れなのだと。求められて与える
ものか、押し付けるものか。別にそこで全てが決まる訳でもなかろう。やりたいこと・やっ
たこと、どう思われるかは両成敗だがイコールじゃない。
「パパ~!」
「あなた、銀上さん。そろそろお昼ですよ、一休みしましょう?」
ちょうど、そんな時だった。作業中の二人の下へ、廊下奥のダイニングからエプロン姿の
女性とまだ幼い男の子が顔を出してくる。金森の妻と子供である。
「ん? ああ……もうそんな時間か」
「ああ、どうもすみません。お邪魔してます」
「いえいえ」
「あ、ダイゴおじちゃんだ~! パパが来るって言ってたの、おじちゃんだったんだね」
「おうよ。お前、蛍か。暫く見ない間にまた大きくなったなあ~!」
はははは! 先ずは友の細君に挨拶をし、続いてすっかり顔見知りになって懐いた、あど
けない幼子を抱え上げてやって笑う。
先刻までの空気、変遷してゆく自身の重苦しさが一挙に和らいだ──束の間であっても忘
れることが出来たのかもしれない。金森も作業をキリの良い所で止め、一旦スキャナプリン
タの電源を切り、彼ら三人の間に加わって言う。
「すまないね、深雪さん。こいつの分まで用意して貰っちゃって」
「ふふ。気にしないで、いつものことじゃない。それに私じゃあ、危なくて近付けないし。
お礼も兼ねて……ね?」
彼女は夫に似て細身の、白くたおやかな人物だった。自分には向かない力仕事、尚且つ夫
の大事な仕事道具に関わることだからと、その手伝いに来てくれた大吾にも感謝の言葉を欠
かさない。
「はは……。すみません、ゴチになります」
「お口に会えばいいのですけど。今日はミートソースとナポリタンですよ」
「やった~! 僕、お肉の味大好き~!」
(了)




