(1) ニードルマン
【お題】サボテン、地雷、恐怖
『ねえ、どうして僕達は分かり合えないの?』
『君と私は他人だからさ』
『じゃあどうして、僕と貴方は違うの?』
『そうして問い掛けていること自体が、その答えだとは思わないかい──?』
私達は泣きながら生まれて、苦しみながら生き、そして嘆きながら死ぬ。
だがそれでは……あまりに憐れじゃあないか。一体何の罪があって、今この場所に、この
時代に産み落とされたのだろう? せめて罪を抱えているからではないと思いたい。せめて
そこまで、目の前の全てが悪意に満ちているとは思いたくない。乱暴に一絡げに、全てを呪
いたくはない。そう願う。
──誰もが望まれ、祝福されて生まれてきた。そんなものは理想だと分かっている。寧ろ
先に生き残ってきた者達が、そうした大前提を暗に押し付けがちだからこそ、そこから零れ
落ちた命に声を上げさせないのだと。抱いた心が“間違っている”と、各々に返す呪いとし
て呑み込ませることを強制する。
それでも……願った思い達に“偽物”なんてものは無かった筈だ。
叶ったから、叶わなかったから。ただ結果だけでその始まりから否定してしまうのは、あ
まりにも哀し過ぎる。
『ねえ、何で逃げるの? もっと私を愛してよ?』
『近付くなよ。どうせお前も、信用ならない奴なんだろう……?』
子供の内に通過したのなら、まだ幸いなのだろう。私達の殆どは患ったままなのだが。
思うに、求め続ける者は外側へ向かう者、内側に向かう者のどちらかに大きく分かれてし
まうのではないだろうか? 終ぞ得られなかった願いを、満足を与えてくれる誰かを探し求
めて彷徨い、或いはそんな他人はいないと絶望してみせる。いないのだから、探し回るだけ
労力の無駄だと──傷付く経験ばかりが増えると結論を出してしまって。
哀しいことだ。それでも私は、両者に根本的な違いは無いように思える。いや、そう考え
てゆかなければ救いが無いからだ。本当に、これっぽっちも。
……どちらも、本当は欲しくて堪らないのだ。欲しくて堪らなかった。ただ実際に行動に
移し、がむしゃらにぶつかってゆくのか、それを“みっともない”ことだと自ら封印するよ
うになったかの差でしかないのだと。
貴方は『ヤマアラシのジレンマ』という言葉をご存知だろうか?
全身が針のような体毛に覆われているヤマアラシ同士は、身を寄せ合うことで互いに相手
を傷付けてしまう。だからこそ彼らは常に、近付き過ぎず遠過ぎずの距離感を維持せざるを
得ない──人間同士のそれもまた、同じようなものだというたとえ話である。
ただ私は、これは厳密には違うのではないか? と思っているのだ。教訓としては確かに
通底しているのだろうが、我々はそこまで目に見えてその“針”を自覚できない。始めから
知っている訳ではないと考えるからである。
そう、例えるならそれはちょうど……私達一人一人が、その身に無数の小さな棘を生やし
て佇んでいるようなもの。自らの力だけでは、到底解決できないような“渇き”の大地に、
とかくじっと足をつけて離れられないような状態。
自覚の有無などは関係ない。おそらく皆が皆、飢えているのだ。いつか終ぞ満たし切れな
かった渇きに──愛を得られなくて、ガバッと両腕を広げつつ待っている。
もっと愛して欲しい。
だけど、傷付くのも苦しい。
どちらの経験が浅く、愚かだという話ではない。少なくともその次元で優劣を競っている
ようならば、彼らは向こう十数年逃れることは叶わないだろう。結論的なことを述べてしま
えば、どちらも十分に“与えて”はいないからである。誰かから与えられることばかりを求
め、自らの心身に宿った無数の棘に注意が向いていないのである。
……愛してくれと叫び、相手を突き刺しながら抱擁する。
……相手から見える棘に怯え、腕を広げることを止めて閉じ籠もる。
救いに乏しいのは、そうした各々の凶器に、私達が想像以上に気付けていないからなのか
もしれない。元よりヤマアラシの針のように大きくはなく、自らこれを用いて相手を倒すと
いう発想そのものが後天的であろうからだ。哀しいかな、そこが悲劇の要因であり、言い換
えれば希望へと自らを繋ぐ糸口にもなり得る。
『では訊こう。そもそも君達は、相対する彼ないし彼女に、一体どれだけのものを与えてき
ただろう? 自ら傷付くことを厭わず──抱き締め返すことをしただろうか? どれだけ、
繰り返してきただろうか?』
ビジネスライク。淡白な表現を使ってしまえば、理由はおそらくその一点に尽きる。少な
くとも貴方が、相手がその棘を恐れずに腕を広げてくれるには、前段階としてその痛みが報
われるだけの利益が約束されていなければならない。或いは、広げて抱き締め返しても構わ
ないという“信頼”が先ず大前提として両者の間に在る。
尤も、こちら側の全幅のそれが、結果として一方的なものに終わるというケースも珍しく
はないのだが……少なくとも多くの彷徨い人はここを勘違いしている。本質は、我々各々が
棘に塗れていることではなく、その上でも交わり続けてきたか? その一点に行き着くとい
うことだ。
貴方を知らなければ、彼や彼女は貴方に近付こうとすらしないだろう。いや、貴方がそこ
に居ることすら認識できないかもしれない。過程を吹き飛ばし、目的だけを要求しても、そ
うは天秤が傾かぬという理屈だ。
十分に得られず、傷付くばかりの結果を味わってきた者であればあるほど、その繋ぎ目は
人知れず硬くなる。より頑なに、より不可逆的に……。
加えて我々は、各々にその“弱所”を多く抱えている。箇所の多寡は勿論、ものによって
は他人びとにとって思いもよらぬ部分に、それが在ることだって珍しくはない。……中々ど
うして、そんな理すらを解さない者達も、残念ながら存在しているが。
ただでさえ全身に無数の棘を備える我々である。知らねば見えぬし、相手にその開陳の意
思がなければ確かめることも困難だろう。その上で、何処に触れればそれまで積み上げてき
たものが一瞬で崩れ落ちかねない“弱所”に当たるのか──彼・彼女の逆鱗に触れ、侮辱と
して取られてしまうのか?
故に人と人が抱き締め合うことは、あまりにもリスクが大きかった。理想を、ヒトはかく
あるべしと唱えるほどに、寧ろ自らの手でこれらを膨らませ過ぎてきた感さえ否めないのだ
から。
『じゃあ……もういいんじゃね?』
『もっと身内で固まってさ? 小さく、何とか生き残りさえすればさ?』
誰かが明確に言ったのだろうか? 私には分からない。だが進む時の流れは、確実にそう
した“ローリスク”の選択肢を“賢明”だと吹聴して回る者達に味方してきたように思う。
それでも私達は、彼・彼女らのそれを責められるだけの資格はない。自らの棘や痛みすら
碌に御せないままであるのに、身勝手だと言い詰められようか? 先に生きた者が無条件に
偉いのではない。巡り巡って、人史以来の業に回答を出せなかった──出そうとしてこなか
った末の反撃なのである。ささやかで、それでいてとても冷たい“最後通牒”なのである。
少なくない者が、寄り添うことを諦めた。苦しんで生き、嘆いて終わる最期ならば、せめ
て可能な限り苦しみの少ないセカイを望むようになった。誰かの“弱所”を踏み抜く前に、
自らの側が退場してしまおうと決意した。叫ぶ者が、両手を広げる者が、不快に映るように
さえなった。彼らを通して、自らにも生える棘を、静かに静かに憎むようになった……。
『ねえ、何で逃げるの? もっと私を愛してよ?』
『近付くなよ。どうせお前も、信用ならない奴なんだろう……?』
傍へ寄ろうとすれば引かれ、引かれれば踏み込めない。
私達は皆、哀しき棘の塊だ。大地はとうの昔から乾いているというのに、各々が蓄えるこ
とばかりに必死で、分け与える為の歩みにすら心的外傷が付き纏う。
(了)