(1) 心淵
【お題】人間、水、空
重い瞼を開ければ、視界いっぱいに地平が広がっていた。但しその全てはどんよりと薄暗
く、靄が掛かったように歪んでいる。
「……」
貴方はただ、ぼうっと突っ立っていた。気付けばそこに佇んでいて、妙に重たい足を引き
摺っている。雨が降っていた。しとしとと、音も無い代わりにボロ布の袖に落ちる感触で、
貴方は自身が随分と濡れている事を知る。
くすんだ地面、苔の色。
視界のあちこちで大小様々な水溜まりが出来、静かに広く足元を浸食している。靄と重な
って、セカイがより一層歪んでゆくような錯覚に押しやられ気味だった。疲労と違和感。暫
くその場で、貴方は俯いていたが──その原因にややあって気付く。
「アッ……アッ……!」
「逃ガサ、ナイ」
貴方の足元に纏わり付いていたからだ。いや、正確には足元の水溜まりから、何人かの上
半身がずるりと這い出している。
彼らは皆一様に、酷くやつれていた。そもそも辛うじて人の原型こそ留めているものの、
その体色は不気味なほど白く、およそ生気という概念とは対極に在るように見える。
ずり、ずりと。彼らは非力な細腕でこちらに寄り掛かり、或いはこの場から離れないよう
にズボンの裾を握り締めようとしている。……実に不快だった。振り解くには十中八九造作
もない筈だったが、先ほどから打たれ続けている雨の蓄積と匂いから、貴方は力を込めるこ
とさえもどうも鈍くて億劫だった。
「っ……」
さりとて、このまま彼らの為すがままにされている訳にもいかない。貴方は小さく唇を結
び、吊り上げてこれを振り解いていた。べちゃっと、苔生した地面と泥水に盛大に浸かり、
非力な彼らは転ぶ。仰向けやうつ伏せで力尽き、暫く小刻みに震えていたが、絞り出すその
声はとても痛々しかった。濃い怨嗟が込められているように聞こえた。
「イ、痛……」
「マ……。待デ……」
結んだ唇に、思わず更なる力が籠っていた。貴方は歩き出す。尚も気だるさを纏う四肢を
引き摺って、それでも彼らと同じ距離に居るのが嫌で仕方なかった。自分は違うんだと思っ
たし、信じたかった。
「……」
それでも。数歩進んでゆく中で、貴方は気付くだろう。いざ足を前に出し、その靄が掛か
った地平を突っ切って行こうとしても、景色は一向に変わることはない。
同じだったからだ。地面は相変わらず凸凹で、水溜まりだらけで苔生しているし、歪んだ
ように遥か先など見通せない。自分がはたして本当に進んでいるのか止まっているのか、或
いは戻っているのかも。音の無い雨は、変わらず靄と共に降り続けるばかりだ。
何より──視てしまったから。
あの非力でやつれた人々、今し方貴方が振り解いた彼らのような者達が、気付けばそこか
しこの水溜まりから這い出ようとしている。弱々しい呻き声を上げて、縋りべき誰かを求め
て手を伸ばしている。
嫌だったのだろうか? 逃げ出したかったのだろうか? 自分は違うんだと、言い聞かせ
てそれを証明したかったのだろうか?
貴方はまた止まりかけたその足を、何とか前へ前へ進めようと努めた。視線と視界は大分
俯き加減で、なるべく彼らと目を合わせないように。少しずつ歩も焦りから速くなる。一刻
も早くこんな所から抜け出したかった。もっと別のセカイに行きたかった。
「グル……ジ、イ……」
「ダズ、ゲデ……」
微かであっても、耳に届き、残る音響。彼らのそれは心からの苦悶であったし、或いは他
の誰かに向けられた怨嗟であった。痛みを通り越し、怒りが内側からほぼほぼ外側へと転嫁
し切った末、その実彼らはその“沼”から抜け出ることすら忘れてしまっている。
「……っ!」
邪魔だ。貴方はそう悪意を返して振り解いた。幾度となく、執拗に伸びてくるその手を、
歩みを妨げてくる無数の感触を拒んだ。最初の気だるさは残っても、気付けば彼らへの怒り
が勝り、却って前進する熱量を与えてくれる。……たとえその火が、自身の中で黒く不穏に
燃えるさまに勘付いていたとしても。
「ドウ……シテ……」
「何デ、オ前、ガ……」
「私ハモット……。モット……」
聞き覚えのある言葉だった。声は知らない、彼らは知らなくとも、心はきっと憶えていた
のだ思う。脈絡の無い、お互いに全くの個別な怨嗟を放っていた筈なのに、貴方の苛立ちは
増す一方だった。
努めて聞き流し、無視して通り過ぎ、また蹴り返す。雨音よりも自身の鼓動と鈍い衝撃ば
かりが厭に響き、不快だった。こっちが聞きたいくらいだ──言葉に出来ないモヤモヤを、
貴方は必死に堪えて進むのだろう。
「……」
一体何時から、彼らと自分が違うと錯覚していた? こうしてまだ歩けるのは、自分の実
力ではなくただの偶然かもしれないのに。もしかしたら本当の姿は、彼らと何ら変わらない
んじゃないか? 不快感で振り解くその理由も、実際は只々“そうじゃない”と証明したい
がための誇示ではなかったのか?
「俺ハコンナ……コンナ、筈ジャア……」
ぴくりと刹那、誰かのそんな声が聞こえたような気がした。聞こえたのだ。貴方はキッと
思わず振り返り、踏み潰そうとしたが、当の本人が判らなかった。足元の、あちこちの水溜
まりから這い出てくる、白くやつれた彼らの姿を、一人一人誰某だと見分けられる知識も余
裕も最早持ち合わせてはいなかった。
「タス、ケテ……。助ケテ!」
「コンナ所デ、死ニタクナイッ……!」
「っ──!」
求める声が違い過ぎる。態度が違い過ぎる。
貴方は踵を返した。俯き加減の口元を歪めつつ、敢えて前を向こうと努めた。しかしその
行為と判断はもう、純粋に彼らを見下す為だけとは言い難い。余裕なんて無くなっていた。
彼らと違うことをして、此処には居なくて、とにかく彼らと融け合わないように融け合わな
いように目を背けることしか出来なかったのだから。
「アア、アアアァ……ッ!!」
「シ、沈ム……。タ、助ケ──」
「嫌ダ! 嫌ダ嫌ダ嫌ダァッ……!!」
「何デ? 何デ何デ!?」
だけども、貴方は逃げられない。彼らは逃げられない。私達は逃げられない。
『──?!』
そんな、次の瞬間だった。突然頭上から幾つもの声がしたかと思うと、同じく靄が掛かり
歪んでいた空から、また別の白い人々が塊になって“堕ちて”来た。叫びながら、絶望しな
がら、雨降る空に沼のような大穴を見せつけ、どうっと何処か遠くの地面へと転げ落ちてゆ
く。貴方の視線は、釘付けになる。
「……イ、イダイ」
「重イ、苦ジイ……。誰カ……助、ゲテ……」
「何デ……? 何デアタシガ、ゴンナゴトニ……?」
「オデハ、一体……?」
「……ボウ無理ダ。頼ム。誰ガ、誰ガ殺ジテ、グレ……!」
蠢く呻き声は減らなかった。寧ろ時が経てば経つほど増えてさえいる。
貴方は暫く唖然とし、つられて雨雲に空いた沼を見上げていたが、それもやがては埋め直
されるように消えていった。その直前直後、更に上、更に上にと別の沼が延々覗いているよ
うに見えた。視界のあちこちに無数の白い手足、人影がちらつき、一つの塊のように木霊し
ながら閉じられてしまう。
「……」
貴方はゆっくりと視線を落とした。これ以上見ないように。これ以上、声と白い姿の圧で
己が潰れてしまわない内に。……ビチャリ。こちら側に落ちてきた者達の気配が、それでも
尚、頼んでもいない癖に耳に貼り付く。湿り気を帯びて纏わり付く。
凸凹に荒れ果て、苔生した地平はそのままだった。今此処も変わらなかった。
何も座標は、横軸一本とは限らない。誰も、そんなことは保証していない。
(了)