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週刊三題 二冊目  作者: 長岡壱月
Train-101.April 2021
1/267

(1) 心淵

【お題】人間、水、空

 重い瞼を開ければ、視界いっぱいに地平が広がっていた。但しその全てはどんよりと薄暗

く、靄が掛かったように歪んでいる。

「……」

 貴方はただ、ぼうっと突っ立っていた。気付けばそこに佇んでいて、妙に重たい足を引き

摺っている。雨が降っていた。しとしとと、音も無い代わりにボロ布の袖に落ちる感触で、

貴方は自身が随分と濡れている事を知る。

 くすんだ地面、苔の色。

 視界のあちこちで大小様々な水溜まりが出来、静かに広く足元を浸食している。靄と重な

って、セカイがより一層歪んでゆくような錯覚に押しやられ気味だった。疲労と違和感。暫

くその場で、貴方は俯いていたが──その原因しょうたいにややあって気付く。

「アッ……アッ……!」

「逃ガサ、ナイ」

 貴方の足元に纏わり付いていたからだ。いや、正確には足元の水溜まりから、何人かの上

半身がずるりと這い出している。

 彼らは皆一様に、酷くやつれていた。そもそも辛うじて人の原型こそ留めているものの、

その体色は不気味なほど白く、およそ生気という概念とは対極に在るように見える。

 ずり、ずりと。彼らは非力な細腕でこちらに寄り掛かり、或いはこの場から離れないよう

にズボンの裾を握り締めようとしている。……実に不快だった。振り解くには十中八九造作

もない筈だったが、先ほどから打たれ続けている雨の蓄積と匂いから、貴方は力を込めるこ

とさえもどうも鈍くて億劫だった。

「っ……」

 さりとて、このまま彼らの為すがままにされている訳にもいかない。貴方は小さく唇を結

び、吊り上げてこれを振り解いていた。べちゃっと、苔生した地面と泥水に盛大に浸かり、

非力な彼らは転ぶ。仰向けやうつ伏せで力尽き、暫く小刻みに震えていたが、絞り出すその

声はとても痛々しかった。濃い怨嗟が込められているように聞こえた。

「イ、痛……」

「マ……。待デ……」

 結んだ唇に、思わず更なる力が籠っていた。貴方は歩き出す。尚も気だるさを纏う四肢を

引き摺って、それでも彼らと同じ距離に居るのが嫌で仕方なかった。自分は違うんだと思っ

たし、信じたかった。

「……」

 それでも。数歩進んでゆく中で、貴方は気付くだろう。いざ足を前に出し、その靄が掛か

った地平を突っ切って行こうとしても、景色は一向に変わることはない。

 同じだったからだ。地面は相変わらず凸凹で、水溜まりだらけで苔生しているし、歪んだ

ように遥か先など見通せない。自分がはたして本当に進んでいるのか止まっているのか、或

いは戻っているのかも。音の無い雨は、変わらず靄と共に降り続けるばかりだ。


 何より──視てしまったから。


 あの非力でやつれた人々、今し方貴方が振り解いた彼らのような者達が、気付けばそこか

しこの水溜まりから這い出ようとしている。弱々しい呻き声を上げて、縋りべき誰かを求め

て手を伸ばしている。

 嫌だったのだろうか? 逃げ出したかったのだろうか? 自分は違うんだと、言い聞かせ

てそれを証明したかったのだろうか?

 貴方はまた止まりかけたその足を、何とか前へ前へ進めようと努めた。視線と視界は大分

俯き加減で、なるべく彼らと目を合わせないように。少しずつ歩も焦りから速くなる。一刻

も早くこんな所から抜け出したかった。もっと別のセカイばしょに行きたかった。

「グル……ジ、イ……」

「ダズ、ゲデ……」

 微かであっても、耳に届き、残る音響。彼らのそれは心からの苦悶であったし、或いは他

の誰かに向けられた怨嗟であった。痛みを通り越し、怒りが内側からほぼほぼ外側へと転嫁

し切った末、その実彼らはその“沼”から抜け出ることすら忘れてしまっている。

「……っ!」

 邪魔だ。貴方はそう悪意を返して振り解いた。幾度となく、執拗に伸びてくるその手を、

歩みを妨げてくる無数の感触を拒んだ。最初の気だるさは残っても、気付けば彼らへの怒り

が勝り、却って前進する熱量エネルギーを与えてくれる。……たとえその火が、自身の中で黒く不穏に

燃えるさまに勘付いていたとしても。

「ドウ……シテ……」

「何デ、オ前、ガ……」

「私ハモット……。モット……」

 聞き覚えのある言葉だった。声は知らない、彼らは知らなくとも、心はきっと憶えていた

のだ思う。脈絡の無い、お互いに全くの個別な怨嗟を放っていた筈なのに、貴方の苛立ちは

増す一方だった。

 努めて聞き流し、無視して通り過ぎ、また蹴り返す。雨音よりも自身の鼓動と鈍い衝撃ば

かりが厭に響き、不快だった。こっちが聞きたいくらいだ──言葉に出来ないモヤモヤを、

貴方は必死に堪えて進むのだろう。

「……」

 一体何時から、彼らと自分が違うと錯覚していた? こうしてまだ歩けるのは、自分の実

力ではなくただの偶然かもしれないのに。もしかしたら本当の姿は、彼らと何ら変わらない

んじゃないか? 不快感で振り解くその理由も、実際は只々“そうじゃない”と証明したい

がための誇示ではなかったのか?

「俺ハコンナ……コンナ、筈ジャア……」

 ぴくりと刹那、誰かのそんな声が聞こえたような気がした。聞こえたのだ。貴方はキッと

思わず振り返り、踏み潰そうとしたが、当の本人が判らなかった。足元の、あちこちの水溜

まりから這い出てくる、白くやつれた彼らの姿を、一人一人誰某だと見分けられる知識も余

裕も最早持ち合わせてはいなかった。

「タス、ケテ……。助ケテ!」

「コンナ所デ、死ニタクナイッ……!」

「っ──!」

 求める声が違い過ぎる。態度が違い過ぎる。

 貴方は踵を返した。俯き加減の口元を歪めつつ、敢えて前を向こうと努めた。しかしその

行為と判断はもう、純粋に彼らを見下す為だけとは言い難い。余裕なんて無くなっていた。

彼らと違うことをして、此処には居なくて、とにかく彼らと融け合わないように融け合わな

いように目を背けることしか出来なかったのだから。

「アア、アアアァ……ッ!!」

「シ、沈ム……。タ、助ケ──」

「嫌ダ! 嫌ダ嫌ダ嫌ダァッ……!!」

「何デ? 何デ何デ!?」

 だけども、貴方は逃げられない。彼らは逃げられない。私達は逃げられない。

『──?!』

 そんな、次の瞬間だった。突然頭上から幾つもの声がしたかと思うと、同じく靄が掛かり

歪んでいた空から、また別の白い人々が塊になって“堕ちて”来た。叫びながら、絶望しな

がら、雨降る空に沼のような大穴を見せつけ、どうっと何処か遠くの地面こちらがわへと転げ落ちてゆ

く。貴方の視線は、釘付けになる。

「……イ、イダイ」

「重イ、苦ジイ……。誰カ……助、ゲテ……」

「何デ……? 何デアタシガ、ゴンナゴトニ……?」

「オデハ、一体……?」

「……ボウ無理ダ。頼ム。誰ガ、誰ガ殺ジテ、グレ……!」

 蠢く呻き声は減らなかった。寧ろ時が経てば経つほど増えてさえいる。

 貴方は暫く唖然とし、つられて雨雲に空いた沼を見上げていたが、それもやがては埋め直

されるように消えていった。その直前直後、更に上、更に上にと別の沼が延々覗いているよ

うに見えた。視界のあちこちに無数の白い手足、人影がちらつき、一つの塊のように木霊し

ながら閉じられてしまう。

「……」

 貴方はゆっくりと視線を落とした。これ以上見ないように。これ以上、声と白い姿の圧で

己が潰れてしまわない内に。……ビチャリ。こちら側に落ちてきた者達の気配が、それでも

尚、頼んでもいない癖に耳に貼り付く。湿り気を帯びて纏わり付く。


 凸凹に荒れ果て、苔生した地平はそのままだった。今此処も変わらなかった。

 何も座標は、横軸一本とは限らない。誰も、そんなことは保証していっていない。

                                      (了)

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