ニューヨークの思い出
第一話
「ニューヨークの思い出」
まだメイドインジャパンが粗悪品の代名詞だった時代、日本の製品を売るには大変な頃で、当時、日本の商社マンとしてニューヨークに赴任した父と母と三人で行くことになり比較的家賃の安いブルックリンに住むことになった。
この頃、数年前にドジャースがブルックリンからロサンジェルスに移りジャイアンツもマンハッタンからサンフランシスコに移ってニューヨークにはヤンキースしか無くなってしまった。
球団の無くなった街は治安が悪くなり徐々に黒人街となっていった。
私は、まだ日本人学校も無かったので地域の公立の小学校に入り、英語が喋れないから友達も出来ず、苛められて、いつも一人で帰り、煉瓦造りの集合住宅の壁にボールを投げて一人でキャッチボールをしながら母の帰りを待っていた。
私達家族は二階に住み、その下の階にはイタリア系の若い白人の男が住んでいた。
何をしている人かは知らなかったが噂ではマフィアだと云う。
或る日いつものように学校から帰って壁に向かってキャッチボールをしていると。
「うるせえな!」
と例のマフィアが出てきた。
私がビビッテいるのを見て。
「お前は、何でいつも一人何だ?」
と云った。
「僕は、日本人で英語が上手く喋れないから友達がいないんだ!」
とギコチナイ英語で云った。
「そうか。」
「それに戦争に負けたからね。」
「俺の国も負けた、ようしキャッチボールしよう」
私がこの街で、できた最初の友達は、この若いマフィアのジョーだった。
母親も父と同じ会社で働いていて、私は夕方まで一人で過ごさなけばならなかったからジョーは私にとって、この街の先生で親友といえる存在。
彼とのことは、両親には秘密で母親が帰る前にキャッチボールは止めた。
私は、この若いマフィアのおかげで差別、孤独、苛めに耐えられた。
大袈裟に云うと命の恩人ともいえる。
ニューヨークに来て二年目の秋、それは、この街での一番の思い出。
ジョーに連れて行ってもらったヤンキースタジアム。
この巨大な球場には、人が溢れていた。
野球観戦は初めてで、それがこのヤンキースタジアムでのワールドシリーズ第三戦、1964年10月10日土曜日のデイゲーム。
超満員のヤンキースタジアム9回の裏、先頭打者ミッキーマントルは初球をフルスイング、打球はライトスタンドへサヨナラホームラン。
ヤンキースファンの大歓声の中、僕とジョーは抱き合った。
忘れられない記憶。
今の私には、この思い出を語る相手もいない。
その三日後ジョーはマフィア同士の縄張り争いで銃で撃たれて死んだ。
一年後、私は日本へ戻り公立の学校に通い、二流の大学をて家電メーカーの営業として忙しく過ごし、二十八で結婚し、男の子が一人できたが五年後、夜の接待と浮気が原因で離婚、四十までに両親は亡くなり、親戚付き合いも殆ど無かったので、孤独な還暦をついこの間迎えたばかり。
子供の頃から素直な性格じゃなかった私からは、少しづつ人は離れていった。
そして今日も又、駅前の場末のBarのカウンターの角で一人寂しく
ウイスキーを呑む。
バーテンが話しかけてくれるのが一日の中で唯一の会話。
「今日も暑かったですね。」
「ええ、歳をとると夏の方がきついですね。」
なんてこともない会話。
そして、幼い頃のニューヨークの日々を回想しながら頭の中で「夜が来る」が流れる。
私は、それを聴きながらジョーと乾杯した。