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河井の家は奇妙だった。
河井と河井の奥方の関係が特に異質だった。
河井肥前守は奥方を名前はもちろん、なんとも呼ぶことはなかった。呼んではいけないと思っているかのように、呼ばなかった。不思議にそれで済んでいた。
奥方は河井を殿と呼んだ。
河井は幸太、甚助、三郎と一緒に寝た。奥方と寿々は別に寝た。
奥方は寿々には上等の着物を着せたが、自身はそれほどの着物を着ることはなかった。農作業をする姿も土民の女と特に変わらなかった。だから、奇妙なのは全て男たちの方の所作だった。
河井の奥方への接し方も普通ではなかった。奥方に指図することは絶対になかった。まるで他人の奥方に接しているように思えた。
幸太と甚助の二人と寿々の関係も異常だった。
幸太や甚助は奥方を母様と呼んだ。河井を父上と呼んだ。これは普通だろう。しかし、寿々を姫と呼んだ。
最初はそのくらい妹を可愛く思っているからそう呼ぶのだろうとも考えたが、接し方も変だった。兄らしく振舞わない。
一方、寿々は二人をにいと呼び、二人を区別するときは幸太にい、甚助にいと呼び、兄として接してはいたが、兄の接し方が兄らしくないせいなのか、わがままな行動が目立った。あれがほしい、これがほしいという妹のわがままを兄たちは喜んで許した。
三郎も一緒にいるときは姫と呼んだ。だが、寿々はそれを喜ばなかった。
幸太と甚助が、幸田川の川岸の草むらに魚を捕るためのしかけを設置しようと夢中になって格闘している時だった。
寿々と並んで川岸でそれを見ていた三郎に
「三郎は姫と呼ばないで。ほんとは兄様たちにも呼んでほしくない……」
と言った。
それから三郎は幸太や甚助に聞かれないで済むときには寿々と呼んだ。二人の兄と一緒のときは寿々を寿々とも姫とも呼ばないようにした。
寿々と呼ぶとき、三郎は幸太や甚助に申し訳ないように思うとともに、寿々と特別な秘密を共有している気分に浸った。寿々をこのうえなく可愛いと思った。
三郎がこの村に来て二度目の夏の甘美な思い出だ。
その年の十二月、三郎は幸太に思い切って聞いてみた。
何故、寿々を姫と呼ぶのか、と。
幸太は言った。
寿々は母上の子で、母上は寿々をつれて、河井の家に来た。父が母と寿々を二人に紹介したその夜、幸太と甚助に寿々を姫と呼ぶように父は命じた。
寿々は寂しいに違いないから、大切にしろ、と。
河井の二人の息子は河井にそっくりだった。どちらも河井以上に百姓の子に見えた。寿々と奥方と別物に見えたものだ。その疑念が解けた。
二人の息子はよく働いた。三郎も負けずに働いた。
翌年の正月、大雪の降った日の夕餉の時だった。酒をたらふく飲んで上機嫌の河井は言った。
「三人でこの村を豊かにするんだ。ゆくゆくは、三郎も嫁をとって自分の家を構える。この村には、これからたくさんの者たちが住むようになるだろう。村を一つにまとめるのは容易ではない。だから、河井の家と太田の家は強く絆を深めていかなければならない。これから村の両輪になる」