18(2)
三増峠に通じる愛川村の比較的纏まった集落のある道で、忠勝は青根隊と出会った。武田軍に加わるということだった。
すでに10人ほどが加わっている。それに加勢するため、来たということだった。全部で8人だった。
「青根を必ず武田は通過する。だから、味方しないわけにはいかない」と隊の最後尾を歩く若者は言った。
忠勝はその若者に事情を話した。どうしても甲斐に行きたい。そのために、青根隊の一員として武田軍に加わらせてもらえないか。
若者は青根隊の中心と思われる、色の黒い、精悍な髭面の男に話を通してくれた。
「かまわない、と言っている。が、甲斐に行かれるかどうか。行きたい事情は分かるが、その理屈が武田に通用するかは分からない。それに……」と言って、間が空いた。言うのに戸惑いがあるのか、言いにくそうに男はそのあとの言葉を継いだ。「甲斐に行ったって、まともな生活はできない」
その日は愛川村で野営をした。事情を話した若者と親しくなった。
若者は青根の話をした。
「甲斐の兵が青根に侵入することはよくある。甲斐が飢饉だとね。村は焼かれ、女や子どもがさらわれた。村は話し合って、連れ去られた者たちを返してもらうよう、甲斐の殿様に頼みにいく。命に代えられないということで、銭や食糧、ありったけの財と交換をするという内容の書を使者に持たせてね。連れ去られたものの命には代えられないからね。使者の中には村を裏切って、甲斐の小山田様に仕えた者もいる。悲しい話だ」
「使者の家族、係累を殺せという者もいたが、殺さなかった。仲間だからな」
忠勝も幸田村の話をした。小林大悟のこと、いとのこと。それが村を捨てる理由となったこと……。
忠勝の話が終わると、
「大事なことは……」と若者は言った。
「何をするにしても、犠牲者は出さない、ということだ。お前の村は非情だな。お前の話を聞いて、大いに同情する」
更に若者は思い出したように、微笑を浮かべて言った。
「さっきの話だがその使者は内紛に巻き込まれて甲斐を追放されたそうだ。裏切り者の末路はみじめなものだ」
「そいつは甲斐を追われる際にわけのわからないことを言ったそうだ。あらざらむことのみ多かりき」
小田原に向かう武田軍を相模川で見てから8日後、青根隊にめぐり合ったその日に再び武田軍が現れた。
忠勝と青根隊は三増峠に向かう箕輪という場所で、武田軍を待った。
赤い甲冑の騎馬隊が先頭だった。
青根隊は、道に土下座して、隊の到着を待った。そして、髭面の男が「青根から来ました。何卒、部隊に参加させてください」と言った。
「ご苦労。誰か、この者たちを仲間のところに案内せい」と馬上の侍は言った。
先に加わった青根隊は、山県軍が率いる小荷駄隊の中にいた。
後から加わる、この青根隊もそこに編入された。
一通り、再会を喜び合った末に、漸く忠勝は紹介された。小声で。
そして、意外なことを知らされた。
「これから合戦が始まる」
峠に向かう道から離れ、左手の沢伝いに歩き始めた。
沢を越えると、そこは一面、背丈の低い枯れ草の続く、芝山だった。緩やかな傾斜の、その頂上付近のみ、数本の松があるだけだった。
山県隊は左翼に布陣した。続々と武田軍が頂上付近に陣を構える。
頂上の松のあたりに幟がたなびいた。大きな赤い幟だった。何本かの幟の中で、一際大きな、幅広の幟だけが黒だった。金糸で字が書かれているが、強い風に激しく靡き、読むことは困難だった。
山県隊が運んでいた小荷駄は、浅利隊に廻された。そのため、青根隊は浅利隊に編入された。任務は荷駄と、荷駄を運ぶ馬群を守ることだった。小荷駄の守備隊は大所帯となった。その多くが青根隊と同じくこの近辺の部隊だった。
一人でも戦闘に参加させたいのだろう、浅利隊はこの部隊にも長槍を持たせた。
忠勝は周囲を見渡した。目の前は武田の兵が埋め尽くしている。見上げた後方の山の天辺左翼に空間があった。そこは真紅の旗が立ち並んでいた。そこに信玄がいるにちがいない、と忠勝は思った。
空には黒鳥が舞っていた。その数が少しずつ増えていった。
「陣を張ったからといって、合戦が始まるわけではないが、準備だけは怠るな」と小荷駄隊を率いる馬上の男が言った。
静寂が続く。敵はまだ来ていないのだろう。
来たとしても忠勝ら青根隊からはその姿は見えない。前方には浅利の騎馬隊が、そして目の前には足軽隊の長槍が林立し、視界を塞いでいた。右も左も同様に兵ばかりである。青根隊を含む守備隊は最後尾に構えた。
食料である小荷駄を守ることが最終の任務だが、差し当たっての任務は小荷駄を積んだ馬を大人しくさせることだ。戦闘が始まっても、動かず、馬群を囲んで馬が暴れないようにするのだ。
これだけの兵に守られ、更に最後尾だから命の心配を忠勝はしなかった。
左翼の赤い装束の一団が動き始めた。
山県隊だ。先頭を進んでいた隊だ。
退却が開始された。
何事も起こらなかった。
静かな退却だな、と忠勝は思った。
しかし、不思議なことが起こった。後に続く部隊が一向に動かないのだ。いつまで経っても動かない。
山県隊の移動は何だったのか。
突然の発砲だった。
前方の騎馬隊の何人かが落馬した。
そのあと、豪華な装飾の甲冑をまとった武将が馬上から大脇差を抜いて高く掲げ、揺れ動く部隊に大声で何かを叫んでいた。それに続いて部隊が喚声で応えた。
「俺のあとに続け」とでも言ったのだろうか。長槍隊は一斉に槍で地面を何度も叩いた。
火矢が飛んできた。長槍に当たって前方に落下した。
煙が上がった。瞬く間に前方は煙で何も見えなくなった。
北条の作戦だった。駆け上がらなくてはならない北条隊がその不利を少しでも挽回しようとして風上を利用して火を放った。
馬が激しく動いた。
敵が襲ってきた。激しく槍がぶつかり合う音が響いた。
馬が何度も嘶き飛び跳ねたので、忠勝は必死だった。他のみんなも同じで長槍を地面において、ひたすら手綱と格闘した。
浅利隊は波のように動いた。前に押したかと思えば後ろに押し返された。
日が頭上高くあがってもその状況は変わらなかった。勝っているのかも負けているのかも分からなかった。
煙がようやく消え始めた。
背後から馬群の音が聞こえた。小荷駄隊の馬ではない。
赤い軍団が駆け抜けていった。退却したと思った、あの山県隊だった。
それが合図だったかのように武田軍の攻勢が一気に広がった。浅利隊も一斉に山を駆け下りた。視界が開けた。
青根隊は動く必要はない。
その場に取り残された。兵はあらかた消えた。
うめき、倒れた兵や馬が目の前にあった。
戦闘が終わると、まだ息のある、傷ついた兵の治療が始まった。
敵の兵の鼻を削ぐ者、頸を斬りとる者もいた。
多くの兵が倒れた者の武具、衣類を剥いだ。
急に闇が迫った。
日が落ちたのではない。
空が黒鳥で埋まっていた。
屍体から人が離れ始めると、明るさが戻ってきた。
黒鳥は次々と地上に降り、肉を啄み始めた。




