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後に幸田村と名付けられたこの村は太古の昔から、人が住んでは去り、住んでは去りを繰り返した。東西を分断する、村のほぼ中央を流れる幸田川がたびたび氾濫するからだ。
その廃墟の村に、再び人が移り住んだのは、永正元年(1504年)のことだった。
その者は河井肥前守と名乗った。出身は不明である。
その3年後、太田三郎は2番目の移住者としてこの村に足を踏み入れた。
明応2年(1493年)の伊豆討ち入り以降、伊勢盛時(北条早雲)は支配地と家来を急速に増やしていた。
家来には、鈴木一族のような紀州出身者も多かった。
鈴木一族は伊豆の江梨に居住し、大型の船を操り、物資を売りさばく商人だ。しかし、時には各地の支配者と結託し、支配者の要望に従い、敵地の漁村を襲ったり、上陸して敵となった者たちとも戦った。襲われる住民の側から見れば、無法者の海賊であるが、支配者にとって、この者たちを味方にするか敵にするかは重大だった。
伊豆に進出した伊勢殿が直ちに江梨の鈴木双信を訪ね、加勢を懇願したのも、その力を頼ってのことだった。双信もまた、伊勢殿に関心があった。伊勢殿が足利幕府の直属の家来であることが魅力だった。伊勢殿に近づくことは大きな利益を齎すに違いないと思った。
双信は歓待した。
私利私欲での歓待だった。が、双信は、一瞬にして、家来として仕えることを決意した。それほどの器量を伊勢殿に感じた。
双信だけではない。伊勢殿にはそうした新参の期待組が多く集まり、われ先に手柄を立てようとする、熱気に溢れていた。
移住者には年貢も労役もない、勿論永遠にではないが、ゆとりができるまでは課役は全てなし、だから、当面は自分の生活のことだけ考えればいい、未だ人が住まない地に住み、開発に尽力し、そして生活できるようになり、そのうち役を果たしてくれるならそれでよい、それが伊勢殿の望みである。
伊豆江梨の豪商、鈴木双信の家来、関口太兵衛が出した条件は魅力あふれるものだった。
明応の大地震が齎した様々な辛苦に今も皆苦しんでいる。逃れる道があるなら、直ぐにも飛びつきたい、そう思って聴いているに違いなかった。
表情をみれば、よく分かる。
三郎にしても、その思いは同じだった。
更に、話は続く。
相模は地に恵まれ、平地が多く、紀州の厳しい自然環境と比べれば別天地であること、にも関わらず未開拓地が多いこと、相模は長く戦乱が続いていたが、伊勢殿が平定して、安心して開拓が出来るということ、開拓地には既に開拓する者がいて、その者たちが新たな参加者を待っている状態であること、だから、移住者は歓迎される、そして、開拓に必要な知恵も出してくれるから心配もない……。
関口太兵衛の弁舌は滑らかだった。
彼はしきりに鼻に手をやった。できもので鼻は赤色に腫れ上がっていて、それが気になるようだった。触るたびに手で声が遮られ、不明瞭になりはしたが、それがまた、妙な抑揚となって、聴く者の気をひいた。
更に太兵衛の熱弁は続いた。
「伊勢殿は伊豆から相模に進出したばかり。相模の民は今、様子を見ている。殿は民の心を掴むことに腐心している。新たに獲得した未開拓地を殿の家来が開発する、その地の農民が見捨てた土地、そこを開発する、そして成功すれば、殿の名声が上がる」
目的はそれだけだと繰り返した。
人集めにやってきた男の言葉は確信に満ちていた。
この男の主の鈴木双信は紀州の出だ。熊野の地で「鈴木」という名を知らない者はいない。信頼できると三郎は思った。
三郎は、明応4年の地震の際、津波で父と2人の兄を失った。あの日のことを三郎は今も鮮明に覚えている。
父と兄たちは日が上がる前から磯釣りに出かける準備をしていた。
父と釣りにでかけるのは久しぶりだったから、兄たちは朝から陽気だった。三郎はまだ小さいので連れて行ってもらえなかった。
明応4年(1495年)卯八月十五日、朝から快晴であった。
三人が出かけてから、どれくらい時間がたっただろう、頭上高くに太陽は昇っていた。
突如、大きな揺れがやってきた。その時、三郎は家から一番近場にある、収穫を終えた瓜畑を耕す母の手伝いをしていた。母は枯れた瓜の葉を拾い上げては、三郎に渡した。三郎はそれを抱えて、畑のすぐそばの土手のへりから投げ捨てた。揺れ始めたとき、三郎は土手に向かう途中だった。
母は揺れが始まると、瓜の葉を抱えたまま立ち尽くしている三郎のもとに駆け寄り、彼の頭を押し、座らせ、そして抱きしめた。
揺れは収まる気配も無く大地を揺らし続けた。経験したことのない巨大な揺れが長く続いた。
漸く揺れが収まると、母は三郎を立たせ、手を引いて家に向かった。
不思議と家自体は無事だった。しかし、家の中は別で、土間にあるものは全て倒れ、竈も壊れて使い物にならない状態だった。
母は暫く呆然としていたが、やがて災いを受け入れる気持ちになれたのか、静かに、片付け始めた。三郎もそれに続いた。二人はただ無言で動き続けた。
低く、腹に響くような、重い音が遠くから聞こえてきた。
それが何であるか母はすぐに理解できたのだろう、三郎の手を引いて家を出た。そして、音のする彼方を見下ろした。
熊野川は、川と呼べないほどの巨大な幅の波を伴って、平地を遡っていた。普段の熊野川は三郎の家からはるか遠くに流れていて、小さく見えるに過ぎなかったが、今見る熊野川は平地を全てのみこみ巨大な濁流となって、家を、作物を破壊していた。
そして流れが止まると波は一気に引いた。場違いな静けさの中、見るに堪えない姿となった雑多な残骸を残し、波は去っていった。そして、川だけがいつもの姿になった。
見る世界全てが荒れ地と化し、畠も家も何もかもが無くなった。
三郎は両手で母の腰にしがみ付いて、ただ立って今は静かになった川を見ていた。
今も父と二人の兄の死体は見つかっていない。だから、本当は死んだのかどうかも分からない。近くの岩場に行ったのだと思うが、どこに行ったのかも分からなかったから、探しようも無かった。帰って来ないから、死んだとしか考えられないのだ。
母は気丈だった。そして、父や兄の死を認めてはいなかった。
「お前は死んだと思っているのかい。今日、いやあ、大変だったよ、って言って帰って来るかもしれないじゃない。どう思うかが大事なんだよ。生きていると思えるうちは生きているんだよ」と母は言った。
その理屈は三郎には強がりにしか聞こえなかった。が、そう思う母を分からない訳ではなかった。そう思わなければ壊れてしまう……。
母は愚痴とは無縁な生活を続けた。
それは三郎にはありがたいことなのだろうが、どんなに強がりを言おうと、口数も笑顔も減ったのは明白だった。その母の姿は痛々しかった。
生活の糧は死んだ父の兄が引き継いだ本家の手伝いで得た。兄嫁はまた、母の姉でもあったから、母も三郎も心の負担とはならなかった。
だが、その家は決して近くはなかった。
幼い三郎には辛い距離だった。朝と違い、家に帰るときには、三郎はいつも愚図った。母を困らせたくは無かった。それでも、疲れが三郎を愚図らせた。
姉は一緒に住んだらと何度も言ったそうだ。しかし、母は決してそれに同意しなかったという。
母は自分だけでなく三郎にも甘えを許さなかった。そのうちに三郎は甘えないことが普通になった。三郎の脳裏から、次第に優しかった過去の母の姿は消え、厳しく無口な母だけが残った。
その母を二度目の大地震、明応7年午8月25日の地震で失った。
その時、三郎は家の前の庭で、一人で遊んでいた。珍しく、その日、姉の手伝いはなかった。
この日のことも忘れない。
三郎は庭にいた。ただ飽くこともなく、夢中になって蟻の大行進を見ていた。なぜ、そんなことに夢中になったのか、覚えていない。
そして、地震がやってきた。
三郎は地面に這いつくばった。
そのうちに母が助けに来てくれる、と思った。母は家の中にいた。家からきっと飛び出して助けてくれると思った。
そう思った瞬間に音をたてて家が崩壊した。この時の地震は明応4年の地震より小さかったのに、家が潰れた。
三郎は母を助けに行きたかった。が、恐怖が三郎の動きを縛った。
三郎は地面に這いつくばって、地震の終わるのを待った。
あの時、なぜすぐに助けに行かなかったのかと何度も何度も悔いた。家が潰れて、その中に母はいるのを知っていたのに、なぜ。
何度も、あの日を思い出す。その度に涙が溢れた。
母の下半身は潰れた屋根や瓦礫に埋もれていたが、上半身は瓦礫の隙間から見ることができた。
母の頭から大量の血が吹きだしていた。
近くに血に塗れた大きな石があった。前年の台風の際に、屋根に乗せられた木皮が風で飛ばないよう二人で積んだ大石だった。
何回呼んでも母は応えなかった。それでも三郎は手をいっぱい伸ばし、母の襟元を掴んで、揺らし続けた。涙が止め処なく流れた。
その後の記憶はあまりない。
はっきり覚えているのは、叔母の胸に縋り付いて泣いた記憶だ。
三郎は母の傍から離れなかった。その三郎を見つけると、叔母は三郎に駆け寄り、すぐに抱きかかえた。三郎は叔母の首に縋りついて泣いた。叔母も三郎の頭に頬を擦り付け、声を上げて泣いた。
悲惨な過去かもしれないが、三郎は特別不幸なわけではない。どの家にも同程度の不幸を地震は齎した。
そして、その後の、三郎は恵まれた。
彼は叔母夫婦に引き取られた。
叔母の家は、明応4年の地震で倒壊はしたが、死人もけが人もなく、津波の被害にもあわなかった。海からは距離のある、熊野川からも遠く離れた地に家はあった。山沿いの地ではあるが、それなりの農地を持った農家だ。
「どうせ、立て直すつもりだった、粗末な家だったから、ちょうどよかった」と叔母は7歳になった三郎を引き取る時に話してくれた。
「家も広くなったし、気にすることはない」
叔母の夫も賛成した。優しい夫婦だった。年老いた祖父も祖母も優しかった。三郎は何不自由なく暮らすことができた。
三郎は叔母にとっては自慢の「子」だった。
叔母には三郎より3つ上の喜助という長男とその上にあやとつねという二人の娘がいたが、その三人の前で三郎はよく褒められた。
「三郎は決して弱音をはかない。母さんも父さんも兄さんも、家族みんなを亡くしたのに、ちっとも辛そうにしていない。見習いなさい」
三人の「兄姉」はきっと面白くないこともあったと思う。喜助がこんなことを言ったことがあった。
「自分で選んだわけでもないのに、親がいないからって、サブは褒められて、同じことしても俺は褒められない。自分の力ではどうしようもないことを理由にして、差を付ける、こんな理不尽なことあるか」
喜助の気持ちがよく分かった。喜助の表情を見ると、それが本気であることがよく分かる。でも、喜助もその理屈が大人に通用しないことは承知しているだろう。
喜助は正しいことを思っているのに、どうして通用しないのだろうと三郎は不思議に感じた。
喜助がそう思ったとしても、三郎との関係に齟齬はなかった。三人の兄姉に三郎は大切にされた記憶しかなかった。
だれもが不幸を抱えている。希望が見いだされたら……。それだけを聞きたくて集まっている。
全ての者たちが弁士の話に心を動かされている、三郎はそう感じた。
夏の暑い日だった。人々の汗と熱気が重なり異様な空気があたりに充満していた。三郎の心も高揚した。
巨大地震で家族も家も失った三郎に、選択の余地はなかった。
いつまでも甘えてはいられないと三郎は思った。いや、それ以上に、何かをしたいと思った。三郎は16歳になっていた。焦りもあった。
三郎の心が定まるのにそう時間はかからなかった。相模の地は希望のみを与えた。
三郎は決意を叔母に話した。
もう十分お世話になったということ、死んだ父も母も兄たちもきっとそうしろと言うと思うということ。
叔母も叔父もひきとめはしたが、三郎の決意が翻らないことを悟ったのだろう。慰留を続けなかった。
三郎はそれを有難く感じた。「怖いことなど何もない」三郎は何度も心に言い聞かせた。




