18(1)
幸田村を離れ、北に向かった。
鶴間村に入れば、座間に抜ける道がある。
四辻で、東に向かう旅人に道を訊いた。右は金森、左が座間へ行く道だった。
旅人は言った。
「武田が来る。座間には行かないほうがいい」
座間を下り、相模川に出る。
武田軍は既に到着していた。
今まさに、相模川を渡るところだった。
忠勝は相模川を広く見渡せる高台に移動した。
遥か遠く、当麻のあたりから煙が上がっている。相当前に町に火が放たれたのだろう。広範囲に火は広がっていた。
当麻のあるあたりまで、見える範囲全てに武田軍がいた。そして一斉に相模川を渡りだした。
武田軍に加わるつもりだった。
間に合わなかった。
しかし、落胆はしなかった。
戦いに加わりたくはなかった。ただ、この地を離れたいだけだ。
甲斐にいくために武田に加わるのだ。帰路で十分だ。
小林大悟が毒殺された。
遺体は河井家の実質の権限を持つ河井盛義と、盛義に支えられて歩く河井肥前守を先頭にして村民全てが参列して丁重に葬られた。
墓はいとの希望で、小林大悟の家の前に建てられた。
いとは村で守ると河井盛義は墓の前で誓った。
忠勝はそれを信じたわけではなかった。
ただの脅しだと盛義は言った。
だからこそ、信じられなかった。盛義が守る手立てを講じないからだ。
村民の皆の命がかかっている。脅しに屈しないとどうして言えよう。
盛義がいとのためにしたことは一つだけだった。河井家の一間を空けて、忠勝といとを住まわせたことだけだ。
いとは何も言わなかった。
忠勝はいとと村を出ることを考えた。いとの立場を考えると、村から出ることが最善だった。
いとにそれを告げたが、いとは反対した。行く当てがないからだ。
手だてもないまま、時間だけが経過した。
忠勝が目覚めたとき、いとはもういなかった。不安が広がった。いとは村を出るつもりだ。そう思った。
いとが家を出て、どれだけ経っているかは不明だった。もう手遅れかもしれないと思ったが、いとは大悟の墓には寄るだろうと踏んだ。
忠勝は黙って、河井の家を出た。
男が数人大悟の墓の前にいた。
一人だけ知っているものがいた。伊藤大輔だ。大悟に頬を切られた、あの伊藤大輔だ。不吉だった。
男たちが忠勝に気づいた。立ち去ろうとした。
思わず、忠勝は「待て」と発した。
「殺してはいない。勝手に死んだのだ」と大輔は言った。
忠勝は板戸を開けた。勢いで板戸は外れて忠勝の前に倒れた。
板間にいとは横たわっていた。喉に短刀が刺さっていた。
いとは生きていた。いとの口が動いていた。口から泡が出ていた。
忠勝はいとの前に座り、「死なないと言ったのに……。どうして……」と嘆いた。
意識はなかった。短刀を抜かないと、と咄嗟に思った。
忠勝は思い切り短刀を抜いた。血が吹き上がった。
間を置かず、直ぐにいとの首が傾いだ。
憫然思外の顛末に、忠勝は白化していくいとの顔前で、呆然として、へたり続けた。
大輔は幸田村の誰かに頼まれたのだ。いや、河井も村人も全ての了解のもとに実行されたに違いない。誰も脅しとは思っていない。相手は大悟を殺しているのだ。河井も誰も彼も、そもそも最初からいとを守る気などなかった……。
武田軍が視界から消えると、相模川を北上した。
目的地は八菅だ。山伏の動向を知りたかった。大悟を殺し、いとの命をないがしろにした山伏の今を知りたかった。
八菅は静かだった。
明らかに幸田村とは違っていた。幸田村の百姓は皆戦々恐々として不安を抱えながら暮らしているのに、ここの百姓は平然と生活していた。
忠勝は道で出会う百姓に、なぜ逃げないのかと聞いた。
答えは意外なものだった。
「俺たちには関係ない」というのだ。
「武田がくれば、略奪が始まるのではないか?」と聞くと、「先ず、起きない。ここは甲斐でもあるんだ。ここに来る前にたっぷり略奪をしている。ここを敵にまわすようなことはしない」と答えた。
「北条の命令に従わなかったら、北条に殺されたりしないのか。俺の村では甲斐から来たものが疑われて殺された」
忠勝は納得ができなかった。
「北条も下手なことをすれば、公然と敵に回るものが出ることを知っているからな。ここは北条と武田の間者が入り混じっているところだ。誰がどこの間者かだれも分からない」と百姓は言った。
結局、武田狩りは幸田村のような北条の力が強く及んだ箇所でしか起きていないのだ。支配地全てで起きているのではない。相模川を越えたらそこでは何も起きていないのかもしれない……。忠勝の心は暗澹たるものになった。
「武田に味方する百姓もいるのか?」
忠勝は若しいるのならその百姓と一緒に武田側に回ろうと考え、そう訊いてみた。
「いるかもしれないが、知らん。しかしなあ。そういうやつは馬鹿だ。彼らはここを通過するだけだ。去ってしまえば、ここは北条の領地だ。あきらかに武田に組みしたとなれば、北条だって黙っていない。武田に組みしたものがどうなるかは目に見えている。世の中の動きなど分からず、右往左往している百姓でいるのでいいのだ。……みんなそうしている」
確かに、理屈だなと忠勝は思った。その理屈はどこの村でも通用する理屈だとは思わない。少なくとも幸田村では通用しない。北条殿に味方しないという選択はなかった。再び、悲しみと怒りが広がった。
「八菅や日向薬師の山伏はどうするんだろう?まさか、何もしないというわけにはいかないと思うが……」復讐したい相手だった。
「彼らが一番かわいそうさ。彼らの中には武田の間者がいる。武田と結んでいるときはよかったが、今はそれが仇となっている。武田の間者は皆処分したと言っているが、殺されたものが間者かどうか……」
「どうして、そんなことまで知っているのか」勢い込んで忠勝は言った。
「山を降りた山伏がそう教えてくれた。山伏が皆死んでしまったら、困ると言ったら、数人が山を降りてくれた。その山伏が教えてくれたのさ。山伏と親しいものはいくらでも周りにいるし、何でも情報は入る」更に、男は続けた。
「かわいそうなのはそれだけじゃない。彼らはずっと北条に世話になってきたから、武田と戦って手柄をあげなければならない。それも、武田の間者がいて、その動きが筒抜けになっているかもしれないのに、だ。それも、信用されてないから北条軍には加われない。彼らだけで戦わなければならない。全滅覚悟の戦いだ」
「それも山伏と親しいものから訊いたのか。実際に起こるのか」
武田側に加わったときにこの話をしよう。この情報は宝になるかもしれないと忠勝は思った。
「それは俺の想像さ。だが、この辺に住む百姓は皆そう思っているさ。北条殿が七社権現を建ててくれた。宿坊を建てる際にも随分助けられたものだ。それに答えなくてはならない。あわれなものさ」
「山伏に直接話を聞けないかな?」そんな気はなかったが、つい口から出た。
「お前は何者だ。まさか、武田の間者じゃないだろうな?」男の態度が変わった。
「まあ、そんなことはないか。山伏に訊いてどうするのだ。訊いたって本当のことは言わない。山伏は嘘を言って、噂を広めるのが仕事だからな。本当のことを言ったら、間者にならない……」
忠勝は少し慌てたが、男のほうが一枚も二枚も上手だった。百姓は「何も起こらない」ことが一番なのだ。誰にも邪魔されずに……。そのために、方法を選択するのだ。幸田村のだれもが、大悟を見捨て、いとを見捨てたのも同じ理屈だ。理屈は分かるが、忠勝はその側にいることはできなかった。だから、村を捨てた。
忠勝の行動は決まった。武田軍に加わる。ここの百姓で加わるものに出会えたら、その者たちに加わる。出会えなくとも、一人で加わるだけだ。幸田村で起こったことを言えば、信じてもらえる。
甘い見通しであることは分かっていた。しかし、武田に加わるだけの理屈はある。あとは伝え方だ。気持ちは通じるはずだ。
忠勝は百姓に「武田はどこを抜けて甲斐に帰るのか?」と聞いた。
「相模川沿いを抜けて、三増峠を越えるだろう。それしかない」と百姓は答えた。




