未だお馬鹿に夏は過ぎて
相楽遊人の高一の夏はあっという間に過ぎ去った。出された宿題は申し訳程度に手をつけ、旧友たちらと適度に遊びふけり、日々を自堕落に過ごしていたら、九月はすぐにやって来た。
この長い休みの間に面倒な諸手続きを済ませて他校へ籍を移してしまうという選択が彼には許されていたが、結局のところ実現には至らなかった。金井先生が担任の務めとして二、三の学校に打診し、前向きな返事をもらえたところから資料を取り寄せてくれたのだが、当の本人がその全てに「NO」を出したのだ。
金井先生に薦められた学校は確かに今の学校より偏差値が高かった。しかしいずれも進学校と呼べるレベルではなかった。そしてそれより上の学校からは先生の読みどおり色よい返事がもらえなかったのである。
このままではまずいかも知れない。流石の楽天家も焦りを禁じえなかった。ここで頑張らなければ、遊人は来年も、再来年もこの学校の生徒として高校生活を全うし、換えの利かない自身の学歴に県内ド底辺校卒業と記さなければいけなくなる。大学でいくらでも挽回が可能だとしても、今までどうにかこうにか優等生街道を歩めてきた遊人にとっては看過し難い汚点だった。
すでに休みは四分の三を消化していたが、ここに至って遊人は発奮した。友人からの誘いを断りこそしなかったものの、自ら何かを企画して遊びに出かけることはしなくなった。例年なら最終日の前日くらいに終える夏休みの宿題を終了三日前には片付け、兄から高校一年用のテキストを借りて自主学習に励んだ。始業式後に実施された抜き打ちテストにもただ一人不平をもらすことなく、むしろ好機と意気込んで臨んだ。
当然確かな手応えを感じた。あまつさえ彼の脳内には試験結果を公表する掲示板の先頭に自分の名前が張り出される光景すらありありと浮かんでいた。
これなら誰も口を出さないだろう。半年くらい遅れたけど、これでようやく俺もスタートラインに立てる。俺の高校生活はここからようやく始まるんだ。
遊人はその大げさなイメージの実現を信じて疑わなかった。
そして翌週、返ってきた答案用紙を見て愕然とする。
「……何……だと……?」
五教科平均七十点。休み前から何の進歩も見えない点数だった。もちろん目立たないように狙ってこの点数を出したとか、終了直前に解答欄のずれに気づいたとか、そんな事情は全くない。全力をもって臨んだ結果である。学年平均は六十前後なので「まあ優秀な部類」には入るが、それは前期の期末も同様だった。
馬鹿な。あんなに、あんなに勉強したのに。遊人は休み明け前の「たった三日間」を思い出して頭を抱えた。明け方に寝て昼前に起きる生活を改め、午前と午後に三時間、就寝前にもきっちり二時間勉強に取り組み、日付が変わるころには就寝する非常に健康な生活である。受験生が聞いたら鼻で笑いそうなスケジュールだが、遊びたい盛りの高校一年生にとってはそれなりの努力だった。
客観的に見て、彼の努力は十分報われたといって良い。しかし、遊人にはどうしてもその事実が認められなかった。
くそ、どうなってんだマジで。ちゃんとやってんのに、全然結果がついてこねえじゃねえか。こんな学校で平均そこそことか、終わってんだろ俺。進学とかいえるレベルじゃねえぞ。もっと頑張れってか。俺ってそんな馬鹿だったっけ。いやーないないない。ぜってーなんかおかしいって、これ。これじゃマジで転校とか無理じゃん。このまま三年ここで? ありえないありえないありえない……。
――何かやりたいことがあって、進学を希望してるんですよね?
脳内に思い起こされた不意の問いかけが、遊人の思考に待ったをかけた。同時に、あの日以来忘れようとしていたもやもやが再び胸の中でくすぶり始める。
遊人は途端、苦く顔を歪めた。このもやもやは常に彼を不安で不快な気持ちにさせる。休みの間は遊びがそれを忘れさせてくれたが、今の彼には逃避の先がなかった。
「おお、すげえ、余裕で俺の倍以上あるじゃん」
背後からの声に目を向ける。浅黒い肌の坊主頭が肩越しに遊人の順位表を覗き見ていた。
「暗ぇ顔してっからどんだけひでーのかと思ったら、お前やっぱ頭良いんだな」
感心しきりの青年は同じクラスの坂井健二だ。遊人とは出席番号が近く入学当初から親しい間柄だった。運動は出来るが勉強はさっぱりという典型的な体力馬鹿の健二は、内申点が足りなかったためにスポーツ科への推薦を諦め、名前が書ければ受かると評判のデザイン科を受験した口である。運動や芸術分野の設備が充実している楽学館高校には彼のような生徒が珍しくない。実技なし、筆記と面接のみで試験を受けられるデザイン科には取り分け多かった。
「倍って、どれが?」
迷惑げな遊人の問いに丸坊主の少年は爽やかな笑顔で親指を立てた。
「全部だな」
「笑い事じゃねーだろ。全部これの半分以下って、それほとんど全部追試ってことじゃねぇの」
「まあ、俺くらいのベテランになれば追試くらいは余裕よ。全教科二回以内にパスできるぜ」
自信に満ち溢れた返答に遊人は目を閉じた。ちょっとした優越感に浸りかけた自分を戒めている。下を見て安心しているようでは永遠に今の場所から抜け出せないはずだ。
と、横合いから聞こえた無遠慮な笑い声が遊人の代わりに坊主頭を嘲った。
「だっさー。全部赤点とか逆に凄くない?」
大口を開けて笑う姿には慎みがなかった。隣の席の佐々木絵美は華美なネイルが取れやしないか不安になる勢いで両手を叩き、可笑しくて堪らないという様子で身をよじる。
「どれどれ、見してみ」
ばっちりのメイクにゆるくウェーブのかかった栗色の髪。いくら服装や化粧に規定のない自由な校風といえども、派手さがことさら際立つその容姿は、彼女という人物をあけすけに表現していた。無遠慮に遊人の答案を覗き込んで、隠すつもりのない嘲笑を健二に向ける。
「いや、遊人も確かにすごいっちゃすごいけどさ、さすがに全部これの半分以下はないわー。あんた、そんなんでホント二年とかなれんの?」
「ほぉー、好き勝手言ってくれるじゃねぇの」
健二は売られた喧嘩を無視できるような男ではなかった。横目で隙をうかがうと、
「そーいうオメーはさぞかし良い点だったんだろう、な!」
体格に反した機敏な動きで、絵美の机上から順位表をひったくる。
「あ、ちょ」
慌てて立ち上がる絵美だったが健二のディフェンスは完璧だ。高く頭上に紙を掲げるだけで、身長差が絵美を寄せ付けない。健二は巧みに絵美をかわしながらその内容を検めた。面白みのない平均的な点数が大半。平均よりやや高い程度のものもちらほら。と、明らかに数字の桁が少ない教科が二つ目に入る。口は自然と笑いを噴き出した。
「何だお前、俺より低いやつが二つもあるじゃねぇか。しかも両方一桁とか相当やべーぞ。よく人のこと笑えたな、おい! この様で! あ、この様で!」
「るっせーな、返せ馬鹿!」
「数学なんか俺の半分しかねーじゃん。オメーこそ卒業出来んのかよこれで」
「全部赤点のやつにいわれたくねーし! 大体、トータルうちの方が勝ってっからな」
「どうせ2、3点だろ? 大して変わんねーよ」
「はぁ!? 一緒にすんな赤点ハゲ! もっと全然上だから」
「ハゲてねぇわ、坊主じゃ! 全国の高校球児に謝れ数学9点!」
聞くも無残な点数をクラス中に響き渡るような声で暴露され、絵美は両耳の先まで真っ赤になった。泣き出すのか、と思われた直後、
「……死ね!」
カッとなった絵美のつま先が健二の向こう脛を直撃する。
悶絶する健二から順位表を取り返した絵美は肩を怒らして教室を後にした。うずくまる健二はうっすら涙ぐみながらもその後姿に口角を上げてみせた。
「へっ、馬鹿のくせに人を馬鹿にするからいじられるんだよ」
それはお前もだろう、と遊人は思ったがあえて口にはしなかった。健二とてその報いは十分に受けている。脛をさすりながらの勝ち誇った台詞にはとても勝者とは思えない哀愁が漂っていた。
ともあれ、内容も経緯も小学生並みの喧嘩に遊人は目眩を覚えた。やっぱ駄目だ。ここにいると俺まで馬鹿になる。遊人は順位表をしまって立ち上がった。一に勉強二に勉強。たるんだ気持ちを引き締めて学力の向上に努めなければ、遊人に明るい未来はないのだ。
と、そんな遊人を見て健二も立ち上がる。
「あ、やべ、もう時間だな」
「時間? 何の?」
帰る気満々だった遊人は尋ねた。奇数週の火曜六限はロングホームルームと定められているが、今日は偶数週だ。尋ねながら遊人は気づく。いつもなら五限が終わるとすぐ帰りのショートホームルームを経て解散となるのに、今日は中々先生が現れない。
遊人の問いに、健二は不思議そうな顔で答えた。
「何ってコース説明会の。行こうぜ、実習室」