気づき
「あぁ~負けちゃいましたか~」
脱力とともに喜子は突っ伏した。そのまま顔を上げないので泣いているのかと思って遊人が覗き込むと、突然がばっと体を起こす。存外緩んだその顔は満足げだった。
「でも、楽しかったです。いや~やっぱ良いですね~煌きは。あっという間の一時間でしたよ」
そう言われて初めて遊人は時計を見た。ほんの二十分ほどにしか感じていなかったのに、もう十二時前だ。
「う~んカードのめぐり合わせが良かったので行けるかと思ったんですけど、やられちゃいましたね。白集めより貴族の確保を優先するべきでした。やっぱりバランスより三色くらいを限定して伸ばした方が良いんですかね。相楽くんも先生も傾向としては似てるし、白に当ててた分を一つでも黒に回せば」
腕を組み、しきりにうなずいては一人自己分析する喜子を尻目に、遊人は言った。
「出してこないから、てっきり出せないくらいコストが高いのかと思ってました」
「一手番前まではそうだったよ」先生は肯いて答えた。「ノーコストで黒が買えたから最後にぎりぎり出せた。あれが二点だったのがラッキーだったね。一点だったら十五で並んでたから。最後の手番、長考してたのはゲームを終わらせるかどうか悩んでたのかな?」
「はい」遊人は苦笑した。「もう一手番かければもっと高いのが買えるんじゃないかって。今思えば無駄な時間でしたけど」
「そんなことはないよ、あそこは悩んでいい場面だった。『宝石の煌き』は、誰よりも早く十五点を集めるのが目的のゲームじゃない。あそこで悩まずに十五点を取ったところで勝ちを確信してるようじゃあ、まだまだ勝利は遠いはずだ」
先生の慰めに、遊人は少しだけ救われた思いだった。かなり競った勝負だと思っていたが、やはり一手の遅れを取り戻せなかった。軽い溜め息を吐いて頭をかく。負けはしたが、遊人の口元は自然と笑んでいた。
「ところで、どうだったかな、相楽くん。『宝石の煌めき』は?」
先生はレベルごとにカードをまとめながら尋ねた。
「まあ、面白かったですよ、思ってたより」
気恥ずかしさを感じて、遊人は目を逸らした。今度こそ本心からの答えだった。夢中で次の手を考えていた時間が、真剣に勝つことだけを模索した一手番一手番が、時の経つのも忘れるほどに彼をのめりこませたのは確かな事実だった。それだけに、やる前は軽く馬鹿にしていた自分を思い出していっそう気まずい思いがした。
そんな遊人に、先生はなおも尋ねた。
「どういうところが面白かった?」
「どういうって」
嫌みのつもりで聞いているのではないらしいことは先生の表情で分かった。遊人は腕を組んで考えた。ゲーム中のことを思い返しながら、ぼつりぽつりと答える。
「目的とかやることが分かりやすいところとか……あと、少しずつ、状況が良くなっていくところとか、ですかね。……最初はまったく手が出せなかったカードが買えるようになると、何かこう、成長って感じでもないんすけど、ロープレでレベル上げて次の町に行く時みたいな気分になるというか」
「拡大再生産の醍醐味ですね」
「何すか、それ?」
遊人に尋ねられて、したり顔の喜子は答えた。
「ボードゲームでよく見られるシステム、というか概念の一つですよ。獲得した資源を使ってもっと多くの資源を生み出す、これを繰り返すことでやれることが広く大きくなり、また新たな資源が生産されることになるのでこう呼ばれます」
喜子はうんうんと肯いて続けた。
「気が合いますね相楽くん。私もこの拡大再生産のみを凝縮したようなところが好きなんですよ。無駄をそぎ落としたスマートなゲームデザインは本当に痺れます。カードのデザインもすっきりまとまってるし、コンポーネントの重量感もいい。それに輸入ゲームにしては珍しいことに邦題のセンスも光ってますよね。単に直訳するだけだったら味気ないですもんね」
「はあ」
早口でまくし立てる喜子のちょっとうざい熱意は、遊人を冷静にさせた。
「っていうか、なんで俺ゲームなんかしてるんでしたっけ?」
「夏休みの課題を免除してもらうためでしょう?」
「残念ながら賭けは僕の勝ちだ。まあ、うちの学校が出す課題は全体的にそんな量多くないから、免除といってもたかが知れてるけどね」
当然とばかりに答える喜子と肯く先生。
「いや、そういうことじゃなくて」
それもきっかけの一つではあったが、そもそもの理由は違ったはずだ。しかしそれが何だったのかが、時間の感覚も忘れるほどゲームに熱中してしまった遊人にはさっぱり思い出せない。
そのまま永遠の謎と化してしまいそうな遊人に代わって、先生は答えた。
「最初にいったとおり、進路を決める前にこの学校のことを理解してもらうためだよ」
それだ、と遊人は思った。が、すぐにまた浮かんでくる疑問に首を傾げる。
「この、ゲームで?」
先生は肯いて続けた。
「プレイ実習はゲームクラスの授業の一つだ。音楽や体育の授業と同じように、大真面目にゲームに取り組んで、何が楽しいのか、何で面白いのか、良いゲームをデザインするのに必要な事柄を体感しながら考える。面白そうでしょ? ユニークな授業はゲームクラスだけじゃない。Webもグラフィックも、他の学科のどのクラスでも、全部がここでしか学べない特別な機会を生徒たちのために用意している。一年の前期は一般教養課程で、よその学校とほとんど変わらないカリキュラムだから気づかなかったのかも知れないけど、君が入学したのはそういう学校だよ」
遊人は反応に困った。この学校の生徒になって三ヶ月も経つのに、今の今まで「ちょっと変わった学科や設備のある学校」程度の認識しか持っていなかったことが少し恥ずかしかった。先生の話を聞く限り、彼の在籍する楽学館高等学校はちょっとどころではなく相当に奇抜な学校のはずだ。遊人は夏休みを目前に控えるこの時期までその特異性に気づけなかったのだ。
途端気まずさを覚えて、遊人は口を挟んだ。
「でも、それって」
「もちろん、進学や就職に直接役立つような授業ではないと思う。webやグラフィックはともかく、ゲームは特にね」
先生は遊人の考えを見透かしたように遮った。いたずらをたしなめる保護者のような表情で続ける。
「その代わり、ここでの三年間は他のどの学校とも比較できない、取り分け個性的で思い出に深い時間になるはずだ。それだけは保証する」
先生は目を逸らさなかった。遊人はばつが悪そうにその瞳から顔を背けた。
「そんなのより、進学の方を保証してもらいたいんすけど」
「よく分からないんですが、相楽くんは進路について何か悩んでるんですか? それを先生に相談した、みたいな?」
唐突に疑問を投げかけて、喜子は二人の顔を交互に見やった。
「悩んでるっていうか、希望を伝えただけっすよ。俺、普通に進学したいんで」
「ほぉー凄いですね。まだ入学したばっかりなのに、もう卒業した後のこと考えてるんですか」
喜子は少々大げさに感心した後、身を乗り出して尋ねた。
「で、どの辺りを目指してるんですか? 学校とか、学部とか」
「え?」
「何かやりたいことがあって、進学を希望してるんですよね?」
遊人は不意に言葉を詰まらせた。教師になりたければ教育学部を目指すし、弁護士や何かの法律関係だったら法学部を目指すだろう。それらとは別の考え方として、東大とか京大とか、早慶上智とか、行きたい大学があればその名前をあげるところだ。本当に進学したいと考えているなら、おぼろげにでも何らかの返答が出来るはずだった。
「やりたいこと……」
尋ねられて初めて気づいた。進学進学と盛んに口にしているくせに、彼は具体的な進路となると何も考えてなどいなかったのだ。周りは当たり前のように進学校を選び、当然の帰結として進学を目標に掲げている。両親共に大学を出ているし、兄ももちろん進学を予定しているからと、遊人は深く考えもせず、その行動に倣っただけなのだ。自分の将来を、人生を決める重大な事柄だと言うのに、実際のところは何も考えてなどいなかったのだ。
「とにかく、俺の希望は伝えましたから先生、手続きとか色々必要な時はいってくださいよ」
遊人はそういって立ち上がり、踵を返す。先生は穏やかな調子のままその背中に語り続けた。
「不本意なこととはいえ、楽高に来ることになったのも何かの縁だ。折角だから在籍している間はここの生徒として楽しんでみたらどうかな。確かにうちは進学に強い学校じゃあないけど、君が思ってるより、案外居心地がいい場所かも知れないよ」
遊人は振り返りもしなかった。軽く手だけ振って実習室を出た。窓の外、照りつける日差しが駐車場のアスファルトを焼いている。運動場の辺りから聞こえる歓声。球技大会の種目はサッカーだったか野球だったか、遊人には思い出せない。
心の内にくすぶるもやもやが、しばらく晴れそうもなかった。