稀によくあるタイプの失敗
試験期間翌週の月曜日には中間試験全科目の結果が出た。最後に答案が返されたのは数学である。担任の金井先生はその答案と一緒に各自の平均点と学年全体における順位が記載された表を配った。
「今回の数学の平均は六十九点です。簡単なところだったからか、皆良くできてたね。赤点ラインは端数切り上げで三十五点になるので、それより低い人は放課後教室に残って追試を受けていくように。追試の合格点は六十点以上ね」
「先生! 三十五はセーフっすよね? ギリっすよね?」
「そうだね。三十四点以下がアウト」
「ぃーヤッフォーー! 初めて追試を回避したぜぇー!」
飛び跳ねた健二の脳内でロッキーのテーマ曲が再生される。そんな彼の周りに続々と集まるのは同じく赤点を回避した成績不振仲間たち。
「ウェイ! ウェイ! ウェーイ!」
差し出す手を叩いて叩かせてハイタッチの三連コンボでひとしきり盛り上がると、ついには円陣を組んで踊りだす。あまりの喜びようには金井先生も苦笑したまま何も言えなかった。健二が追試を回避したのは数学だけだったと記憶しているが、水を差すのも野暮な話である。
円陣から肩車、教室中を(無理やり)巻き込んでの「ノー追試」コールに移行して思う存分にはしゃぎ終わると、健二は自分たちとは対照的な様子の遊人に気づいた。
「ヘイヘイどうした優等生? 暗いじゃない。YOU暗くなっちゃってんじゃな~い。元気出していこうぜ、元気出して。どうせお前そんな感じのくせに俺の倍くらいとってんだろ、なあ?」
無遠慮に肩を組んだ健二は遊人の順位表を覗き込み、そしてすぐに感嘆した。
「おお! またすげえじゃん。上から何番目とかいうレベルじゃねこれ。何をそんな落ち込んでる感じで……ん?」
健二が目を留めたのは数学の点数だった。見間違いでなければそれは、健二の点より少し低い、赤点ラインをぎりぎり超えないくらいの、それはもうひどい点数なのだ。
「どうした、お前これ」
遊人は半分以上白紙のままの答案を改めて見やり、深い溜め息を吐いた。
いよいよ中間試験が明日に迫った夜、遊人は自室で試験勉強の追い込みをかけていた。珍しくスマホの電源を落とし、不要なものは全て目の届かない所にしまった机で、まずは一日目となる英語、現代文、政経、化学の四教科から片付けていく。翌日の影響を考えて、時間は深夜二時までと決めていた。残された時間はあと四時間。
もちろん、こんな時間まで遊びほうけていたわけではなかった。日中もまじめに勉強する予定ではあったが、ちょっと部屋の片付けに時間が掛かったり、ちょおっと辞書代わりに使っていたスマホで『アグリコラ』の攻略を検索してしまったり、とにかくあまり予定通り順調にはことが運ばなかったのである。
ともあれ、遊人は今さら焦らなかった。誉められた話ではないがこんなことは今まで何度も経験してきたことだったし、今回のテストは焦る必要がないくらいに自信があった。試験範囲の総ざらいは一週間前に終わっていた。後の日々はひたすら各教科の苦手な部分をつぶす時間に費やした。正直大事をとって早めに就寝したって良い。それほどの余裕が今回の遊人にはあった。
だがしかし、と遊人は怠惰な誘惑に落ちかける目を見開いて背筋を伸ばした。いつもならもう十分と布団に入るところを、ここはあえて、最後の追い込みをかける。一教科一時間、しっかりおさらいして、思い残すことなく明日に臨むんだ。例えるならこれはイチゴ味のカキ氷に練乳をかける行為と同じだ。そのままでも十分おいしいけど、こうすることでより、もっとおいしくなる。最強の組み合わせ。隙を生じぬ二段構え。獅子は兎を狩るのにも全力で、の精神なんだ。
決意した遊人は深夜二時まできっちり勉強して就寝。翌朝六時半に目を覚まして八時前には教室に入っていた。「俺全然べんきょうしてなくてさ~」などとダサいことはいわない。満点を取るつもりで、八時四十分からの試験開始直前までひたすら教科書や単語帳と向き合った。
そうして終えた初日の手応えは完璧だった。八十は堅い。ひょっとしたら九十いってる教科だってあるかも知れない。特に現代文と政経はかなりの自信があった。
テスト期間のため昼前に帰宅した遊人は、昼食後に軽い仮眠を取って早速二日目の勉強に取り掛かった。この日も深夜二時まで、漏らしはないと確信できるくらいに頑張ってベッドに倒れこむ。
少し目を閉じたら一瞬で朝が来た。惰眠の誘惑を振り払って家を出た遊人は、みなぎる闘志で眠気を抑え込んで二日目のテストを乗り切った。
一日目ほどの手応えはなかった。得意不得意もあるが、集中力が低下していることが主な原因だった。
最終日はしっかり寝ていこうか。しかし、苦手な数学が待っている。できるなら一番に時間をかけて対策していきたい。数学以外を捨てて一本に絞るか。いやいや、それは流石にリスキー過ぎるか。
遊人は考え、熟慮した結果、逆説的な発想へとたどり着いた。それは即ち、寝ないことである。数学は最初の一時間目。そして他の教科には数学ほどの不安はない。ならば徹夜で全てを詰め込み速攻でテストを終わらせて残りの時間にぐっすり眠る。日中にとる三十分程度の睡眠には集中力を高める効果があるとどこかで聞いた覚えもあるし、二時間目以降の科目についてもかえってプラスに働くかも知れないぞ。
そうと決まれば迷いはなかった。遊人は机に向かったまま夜を明かし、ふらつく足取りで最後のテストに挑んだ。
迎える本番。差し込む朝日を受けた真っ白な答案用紙が遊人の視界の中でぼやけていく。カリカリとペンを走らせる規則的な音が、心地よい子守唄となって遊人を眠りに誘った。
昨夜の集中力はどこへやら、と言うより元々作戦に無理があったのだろう。気づいた時には終了十分前だった。遊人は慌てて、急いで、問題を解きに掛かったが、結局手をつけられたのは半分くらい、全て合っていたとしても五十はいかないはずだった。
ここにきて遊人は、ありがちながら大きな失態を演じてしまった。
「うわ~もったいねー。これさえなけりゃ平均八十はいってたかもしれねえのに」
「やめてそれ、俺が一番よく分かってるやつ」脱力する遊人はそのまま机に突っ伏した。「あー死にてぇ。何で俺あの時、あぁ~くっそ……」
後悔に頭をかきむしりながら、ぶつぶつと口を出るのは自分に対する恨み言だ。無茶な徹夜詰め込み作戦も暗記科目ならそれなりの効果を期待出来たかも知れないが、数学でそれをやるのは浅慮だったといわざるを得ない。今回こそはと意気込んでいた、しかも他の教科はしっかりと努力が報われているだけに、悔しい気持ちはひとしおだった。
「相楽君、ちょっと」
不意に呼ばれて遊人は顔を上げる。戸口の金井先生に手招かれ、遊人は教室を出た。
「……何すか?」
廊下に出るや仏頂面で尋ねる遊人に金井先生は苦笑して答えた。
「そんなぶすったれた顔しなくても、僕だって分からなかったから白紙だったとは思ってないよ」
先生はタブレット端末をいじりながら用件を伝えた。
「極端に低かった数学を入れても君の平均は前より上がってる。これなら夏に提案したところより良さそうな学校に編入の話を出せるかもしれない。もちろん期末もこの調子を維持できればだけど。まあでもそれはそれとして、追試は受けてね。用事があるとかなら別の日にできるけど?」
「いいっすよ今日で」
即答する遊人は先生の言葉を無感動に受け止めていた。数学こそやらかしてしまったものの、実際入学してからずっと(本人的には)不振続きだった遊人の順位は、今回に関してはかなり上がっている。今まではまあ頭良い方程度のレベルだった彼も、ついにれっきとした成績優秀者の一人として数えられるようになったといって良い。
それなのに遊人にはその結果を喜ぶことが出来なかった。追試などという屈辱的なものを受けなければならない現実ももちろん彼の心を腐らせたが、何より彼を苛立たせるのは全てを出し切るつもりで臨んだテストの結果に、自分のミスでけちをつけてしまった事実だった。
上手くやろう、完璧にこなそう、念を入れて張り切った矢先にまた自己の責任による失敗を重ねてしまう。適当にやってなんでもこなしていたあの頃には、こんな失敗ありえなかったのに。
「まあ、なんとかなるっしょ」などとは、今の彼には天地がひっくり返っても思えなかった。逆に何をやっても上手くいかないのではないかと、以前の彼なら考えもしなかったネガティブな感情の方が募るばかりだった。
しばし気まずい沈黙が流れる中、先生は遠慮がちに付け足した。
「あーそれと、こっちが本題なんだけど、『アグリコラ』のレポート、まだ出してないね。期限は過ぎたから減点は仕方ないとして、出してくれればちゃんと評価はするから、そのつもりがあるなら早めにね」
「……はあ」
遊人の乏しい反応が気になったのか、先生は念を押すように続けた。
「知ってるとは思うけど、内申点って通知表の平均で出すものなんで、試験がないからって専門の授業をおろそかにしてると君の予定にも支障をきたすよ」
「……はい」
遊人は重々しく答えた。試験の失敗のことで頭が一杯なのに、今さらゲームのことなど考えられない。一度入ってしまったネガティブなスイッチが遊人の思考をとことんまで後ろ向きにする。最近は特にこの傾向が顕著ではあったが、分けても今回の失敗は長く尾を引きそうだった。