第三章 活人鬼(前編)
暗い暗い地下牢。光の届かぬ世界に、十字架の壁画や銀の格子がリリーの不安を煽る。マネもこの先の運命を不安に思っていることだろう、毛布にくるまっている。
ブレゲ・アームストロングの地下屋敷に閉じ込められ、どうにか脱出できないか、格子やら壁やらを触ってみる。しかし、リリー一人がどれほど脱獄を考えようとしても、簡単には抜け出すことはできない。
マネも震えている。なんとかせねばと、リリー一人で燃え上がった。
「しかし、私がこんな姿になるなんてね」
リリーは自分の手を見た。鋭く、長く伸びた爪。八重歯と呼ぶには無理のある鋭利な歯。幸いと言うべきか、牢獄に備えられた鏡で自分の姿を映した際、醜い怪物の姿が映らなかったことだ。牙が口からはみ出てしまっているが。
「ダンピールのあなたもこうなるの?」
「え、ええ。喉が渇き、血を求めるようになった時、あなたと同じ姿になる……らしいですが」
らしいとは、記憶がハッキリとしないのか。
「シロガネ情報?」
「ですです!」
「私はどうなるの?」
「喉が渇いて、血が欲しくなるそうです。こう、全身の感覚が研ぎ澄まされて、喉が焼けるように熱くなって、視界がグラつき、血のニオイに過敏に反応して、自分を抑えきれなく……」
「……マネ?」
「はっ!? すみません! とにかく、吸血鬼化すると意識を持って行かれるそうです」
途中、マネはボーッとしながら話していた。
「どうかしたの?」
「いえ。なんだか寒いなって。それに」
マネは毛布を握りしめる。
「怖いなって。どうなるか分からない。わたし、吸血鬼の血が混じっているなんて、知らなかったですし、今でも分からないのに」
明日、自分がどうなるか分からない。その気持ちはリリーには良く分からない。勝手気ままに屋敷で暮らしてきたリリーには、全く。
「大丈夫よ。見て、この強そうな牙と爪。あのヒゲオヤジの頭を噛みついてやるんだから!」
「怖くないんですか? 自分がそんな風になって、どうなるのか分からないって言うのに……」
「ううん。むしろ、私は屋敷の周辺から抜け出したことがなくて知らないことの方が多い。どっちかと言うと、知らないことを知ったことの嬉しさの方が強いのかも。それに、ダメだって言われて抜け出したのは私だから、自分で解決しなきゃ!」
「強いんですね」
どことなく、マネは褒めたというよりも貶すように言う。
「わたしたちストリートチルドレンなんて、自分たちが何者かも知らないです。大人になれば、顔も知らない親から呪われた血と不幸をプレゼントされたのに」
「知りたくないの? わたしは知りたいな、両親のこと。活人鬼であることもナイショにされてたし」
「知りたくもないですよ! 勝手に人を捨てて! 勝手に吸血鬼の血を遺して! そんな薄情な両親のことなんて!」
「……ごめんなさい。私、恵まれている環境だってこと、忘れていたわ」
「…………」
マネを怒らせてしまい、リリーは静かに座った。
世界も世間も知らないリリーにとって、シロガネやマネの地獄が分からない。想像が出来ないから、傷つける言葉を知らずに使ってしまう。だからこそ、リリーは知らない方が怖かったというのに。これではシロガネが普段から怒りをぶつけるのも納得だろう。
「でも一つだけ約束するから。あなたを自由にしてみせるわ。頼りないけれど、これでもシロガネがぶんぶん振り回す刀を躱してきたんだから!」
「…………」
「まず、あの男がいやらしい目線を向けてきた瞬間、この長い爪で顔を引っ掻いてやるの! その後、しがみついて頭のてっぺんから噛みつくの。あ、でもニオイがキツいかもしれないから、無難に腕かしら」
「…………」
「……マネ?」
マネは毛布を投げ捨てる。
「どうしたの? 急に黙られるとさすがに私も怖くなるわ」
「…………」
「無理矢理連れてきたことを怒っているのなら、謝るわ。私の余計な行動力が今回のことに繋がったもの」
「チガ……」
「ちが? 違うの?」
「チガ……ホシ……」
「違う……星?」
マネの表情がみるみる怪しくなっていく。リリーと同じく爪が伸びていき、鋭利な牙が姿を現す。目は血走ったように紅く光る。
突然の変貌に何が起こっているか分からず、リリーが戸惑っていると、鏡がおかしい。
鏡に、マネの姿が映っていないのだ。
「あ、あらら? 吸血鬼化ってことかしら?」
「チ……チ……チ……」
「マネ? ほら、吸血鬼仲間よ? 鏡には映るけど爪も長いし、立派な牙もあるわ。だからね、やめない? 悪い冗談は……」
マネはそのままリリーに迫って走ってきた。
リリーはマネの肩を掴んで、噛まれないように制止する。
「え、えっと、アレよね? 吸血衝動? お食事の時間? あーもう、どーしてこんな状況で!」
凶暴な犬のように暴れるマネを止めようとリリーは必死に押さえつけているが、吸血鬼として覚醒してしまった彼女は止まるところを知らない。
「そうだわ! 私も吸血鬼パワーで押さえつけるのよ!」
鋭利な牙。鋭利な爪。ここまで変身しているのだから、吸血鬼として覚醒すれば押さえつけるほどの力を得られるのではないか。
リリーは頭の中で吸血鬼っぽいことを思い浮かべながら、変身を強く願ってみる。
「――ダメだわ! っていうか、私は吸血鬼じゃなくて活人鬼じゃないの!」
リリーは知らない。活人鬼がどういう存在で、吸血鬼とどう違うのか。
そして、どういう理由で今、吸血鬼っぽく半端な変身をしているのか。全く分からないのだ。
「どうすれば、どうすればいいのよ!」
しかも、騒動を聞きつけたのか、石の階段を激しく蹴る音が聞こえてくる。
終わりだ。あのブレゲ・アームストロングが、訳の分からない理由で槍を突いてくるかもしれない。単純にうるさいから黙らせに来るかも。
どうして、泣きっ面に蜂と言うべきか、泣きっ面に吸血鬼というべきか、悪いことというのは連続して発生するのだ。
リリーは、マネとブレゲによる二つの脅威に震えた。
「リリーッ!」
「シロガネ!?」
果たして、屋敷の冷たくて暗い地下牢にやって来たのはシロガネだった。
「キサマ、その格好は……! それに、マネも!」
吸血鬼の血を持つダンピールと、吸血鬼の格好をしている活人鬼。冷静さを失った者と、冷静さを維持している者。二人を見て、シロガネはどう判断するのだろうか。まさか、ここまで来て、見捨てるなどということはあるまい。
「シロガネ! 早く! 彼女を止めて!」
「分かった! もう少し待っていろ!」
シロガネはホルダーから鞘を取り外し、腰を下ろす。ヴェルモンド家が誇る片刃の剣、刀。そして、ヴェルモンド家が誇る剣術、居合い。
シロガネは弾かれたように刀を引き抜くと、一振り。そして、軸足を中心に回転し、二振り目を浴びせる。
銀の格子は目にも止まらぬ剣尖に、バラバラと崩れ落ちていく。
「マネ、こっちだ! オレの血を吸え!」
シロガネはコートの裾を捲って、腕を見せつける。
途端にマネはシロガネへと視線を移し、その腕にかぶりついた。
「……よし、満足しただろうか?」
マネはしばらくすると、お腹がいっぱいになった赤ん坊のように、シロガネの腕に支えられながら眠りについた。
シロガネは小さな傷跡をコートの裾で隠す。
「シロガネ。今ので吸血鬼の眷属になったんじゃ……?」
「そんなことはない。ダンピールは半端者でな。吸血した相手を眷属にする能力も持たん。吸血鬼としての能力も持たんが、時折、本来の吸血鬼としての能力が戻ることがある」
彼は小さな声で、「一応、変わった能力がないわけではない」と一言添えた。
「ということはどうなるの?」
「喉が渇いて、無意識のまま人を襲うようになる。迷惑なことだが、彼女も食事が必要というわけだ」
つまり、彼女は牢屋に入れられている内に、その無意識の吸血衝動に駆られたというわけか。
「それよりもキサマだ! 喉は渇いていないか!? ムショーに人を殺したいという衝動に駆られていないか!?」
「えっ? 私も血を飲まないといけないの?」
「違うッ!? 活人鬼の場合、暴走した時……!」
「暴走? してないわよ」
「……なぜだ。なぜ、暴走していない?」
「……? よく分からないわ。牙が生えて、爪が伸びたのだけど。あっ、成長期かしら?」
「…………」
「そんな怒った顔で見つめないで! 冗談よ!」
シロガネは暴走に関して何か知っているようだが、現状、暴走しているのはマネだけだ。
とにかく、リリーは常に携帯しているハンカチを手渡す。
「血で汚れるのは嫌でしょ? 自分の服はピシッとしてないと『オレ、かっこいい!』って言えないじゃない」
「服が血で汚れるのは慣れている。同じ物はいくつも持っているのでな。余計な気遣いなど無用だ」
「まるで、いつも出血してるみたいな言い方ね」
「他にも血が付着する理由ならあるぞ」
シロガネは静かに刀を納刀する。
「キサマの所在は、アームストロングが大々的にアピールしてくれたお陰ですぐに分かった、が――」
シロガネは人差し指でリリーの額をコツンと突いてきた。
「いたっ! 何するのよ!」
「それはこちらのセリフだ。キサマ、あれだけ脱走するなと念を押したつもりだったが……まさか、ここまでじゃじゃ馬だったとは」
「私は自由のためなら諦めないわ。止められるものなら止めてみなさいよ」
それに、とリリーは続けた。
「あなたこそ、ずっと見張ってなかったのが悪いじゃない。……路地裏で何をしていたの?」
一言、シロガネは「つけていたのか」と呟くと、逡巡する素振りを見せる。
「オレにはやらねばならぬことがある。キサマの知ることではない、が――今日はキサマにヴェルモンドの仕事を見せねばならぬ」
ヴェルモンドの仕事?
リリーは指で顎を触りながら天を見た。そういえばヴェルモンド家は何をしている貴族なのか知らないなと今更ながら疑問を抱いた。
「この先は……キサマが選ぶと良い。惨劇を見るか、それとも今までのように何も知らぬ姫のままでいるか」
「なんだか引っかかる言い方ね。でも、どうしたの? いつもなら私の意見なんて聞かないじゃない」
「キサマを元に戻すには……今日やらねばならんのだ」
どうにもいつものシロガネとは違って歯切れが悪い。
「なら、答えは一つよ。私は世界を見る。知る権利も自由だし、知らないってことは怖いもの」
「ム……キサマは小さな箱庭の中の世界が全てだと思っていたクセに、中々どうしてそんなことを言える」
「鳥かごの中でずっと思っていたの。あの鳥と雲はどこに行くんだろうって。知りたくて知りたくて、王子様を想うみたいに恋い焦がれていたのよ」
「そう考えるのも必然、と言うわけか」
「知ることは自由だから、ね」
いつもは暴力的なシロガネだが、今日ばかりは騎士……いや、ヴェルモンドが愛する東の国。その大事にしてきた武士の精神でエスコートしてきた。
シロガネは遠慮がちにマネを片手で姫様抱っこをすると、もう片方の手でリリーの手を握りしめた。
「今宵、キサマは真実を知る。活人鬼という言葉の意味を」
不安を煽る言葉を、悲しげな表情でシロガネは述べた。