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ある一日

作者: 若葉

今朝、携帯に一通のメールが届いた。学生時代からの古い知人からだ。けれども送信主は彼ではなく、彼の奥さんからであった。

彼が闘病の末に息を引き取ったという。

既に身内だけの葬儀を済ませたそうだ。

生前のご厚意に、故人に代わり厚く御礼申上げます。故人、生前、何だか冷え冷えした心持ちがした。扉の向こう、完全に此方と隔絶された世界に、彼は、去ってしまった。

最後に会ったのは五年も前であったろうか、病の影も見当たらぬ、学生時代と変わらず大酒飲みで良く笑う豪放磊落な男だった。風の便りで、ちょっと体調を崩しているとは聞いていたが、まさか、まさか。

風が窓を激しく叩く。

呆気ない。人の命は時として余りに脆い。

何もかもが酷く物憂い。

部屋の窓から見える一本の桜の花は今年も見事に満開になった。つまり、見ている私も一年間、何とかしどろもどろでも生きながらえたという事らしい。

知人の死に、自身のどうしようもない暮らしを苦々しく思う。

朝から吹き続ける強い風に、やっと咲いた桜の花弁が梢にしがみつく様に揺れている。一片ずつの、白い小さな命が脆く揺れている。

年のせいだろうか、毎年この時期になると憂鬱と切なさが胸に滲みる。今日はまた特別に、辛い。


夕方になり、やっと風が落ち着いてきた。私は一人、酒を飲み始める。確か去年の今頃も、一昨年もその前も、汚い部屋で一人酒を飲んでいた。

亡き知人は確か車の部品を造る工場に勤めていたのだ。最後に会った時に、彼女ともうすぐ結婚すると言っていた。彼は彼の人生を満開にできたのだろうか?何分咲きだったのか。

私自身はどうだろう?満開どころか一分咲きでさえない。ただ徒に年ばかり喰ってしまった。枯れかけた、花も咲かぬ実もならぬ、詰まらぬ木に成り果ててしまった。

繰り返される自問自答に、酒が少しも旨くない。


やりきれなくなり、外に出た。生暖かい風が柔らかい。煙草を買いがてら少し歩こう…、気分も上向いてくるかも知れない…。


今年の桜は今年だけ。散りてなお後、同じ花無し。

仄かな酔いに柄にもなく感傷的になりながら、私は黄昏時の川沿いに続く桜並木をぶらついていた。


ふと見ると、一本の桜の下に茶色い猫がいた。私と同じ様にぼんやりと、風に揺れる桜を見上げていた。

猫はちらと私を見て微笑に似た仕草をした気がした。私もそっと微笑を返した。其れ丈で充分だった。

猫はもう私の事など忘れてしまったかの様に再び桜を見上げている。私も桜を見上げつつ猫の横を黙って通り過ぎた。

どうして他者と接する時にもこんな風に自然に出来ないのだろう?ギクシャクして、誰にも不審がられて、誰一人、私に心を開いてはくれない。私もいつしか、疲れ、心を閉ざしていた。

私は何も解らない。頼り無い魂の揺めきに任せてとぼとぼと、ただ風に乗って歩き続けた。街に灯が点り、そろそろと黄昏が群青に染まりつつあった。


気付けば夜である。か細い月明かりに、桜が白く浮かび上がっている。人影疎らな道のりに、流石に心細くなった。

私は酒の店を求めて歩いていた。

何の張りもない。何の自信も拠り所も無い。頼り無い日々に、いい加減疲労していた。そして、何処に安息があるのか、皆目判らぬ事がとても恐ろしく、哀しかった。


暗い道の端に、リュックを背負ったパーカー姿の青年が四つん這いの格好でうずくまっていた。横目に、気分でも悪くなったのかな?と通り過ぎかけたとき、彼の腕が何かを擦っているのが判った。暗がりに目を凝らしてみると、茶虎の猫がぐったりと横たわっているのだ。そうだろうか、いや違う。違っていてくれ。先程の猫に似た毛色だった。近くに青年の物らしき自転車が無造作に停められている。

猫はもう動けぬ様子だった。私は事態を察した。ああ、轢いてしまったのか。どうしたらよいのか判らぬまま、動かぬ猫の背中を擦っているのだろう。私は歩を緩め、その光景を見つめていた。


青年の背中は小刻みに震えているようだった。何か聞き取れぬ小さな声で呟いていた。呻く様な、か細い嗚咽の声が風に流れてゆく。

何か声をかけようか。私も激しく動揺していた。何も思い浮かばないのだ。かけるべき言葉が見当たらないのだ。

彼は優しい青年なのだろう。普通は、やっちまった、けれども飛び出してきたコイツがいけないのだ、すまん、等とそのまま走り去るだろう。

君は悪くない。猫だって君を恨んでなんかいないさ。結局、私は何も言えないまま歩き続けた。近くのスナックから場違いに陽気なメロディが流れていた。


思えば道は狭く、気付けば引き返し様もなく悲しい事ばかりである。しかしそれで良いのやも知れぬとも思う。

今の私には、却って嬉しい事愉快な事の方が白々しく、嘘臭く思われるのだ。変な表現だが、侘しさやら虚しさの方が己にフィットする様な確かな感じがするのだ。ただ其ばかりではやりきれない。だから、酒を飲む。何か書く。仕事をする。誰かをこっそり好きになる。そんな言い訳ばかりで凌いでいる。何か悲しい事を忘れる為にわざと笑っているフリばかりする。


コンビニに寄り、買ったばかりの煙草に火をつけて、肩身の狭い紫煙を燻らせていた。入口の近くに、アジア系の国籍不明のカップルが肩寄せ合い並んでしゃがみこんでいた。

二人は酷くみずぼらしい格好をしていた。ボロボロの旅行鞄を一つ、大切そうに抱えていた。

女は放心した様に力なく隣の大柄な男にもたれ掛かっていた。二人は小声で何かを語り合っていた。男は余程疲れているのか、或は元来の性格なのか、女の言葉に、殆ど無言で頷いていた。何処に行こう…?

彼の片言の日本語で聞き取れた言葉は其れ丈だった。

女がよれよれのTシャツの上に羽織っている黄緑の薄い布が風に頼り無くはためいていた。

私も何処へ行こう…。心細い、まるでホームレスの兄妹みたいな二人がみずぼらしくも痛々しくもあり、かといって助ける術も声をかける勇気もないまま、そそくさと立ち去った。

逃げる様にその場を立ち去る私は自身のやりきれなさに掻きむしる様な嫌悪と侘しさを抱いていた。


居酒屋へ向かう途次、レンタルビデオ屋がある。店先で、チェックのシャツにジーンズ姿の茶色い小さなポーチを肩からたすき掛けにしている一見して地味な、二十歳前位の女が俯いていた。怯えたように、肩辺り迄伸びた黒髪をしきりに撫でている。

良いじゃん、一寸だけ、何で?嫌なの?楽しいよ!一緒に行こうよ!ほら!どうせなら、皆で観た方が楽しいよ!

女の行く手に立ち塞がる様に、いかにも悪そうな、ヒョウ柄のシャツの上に黄緑のパーカーを着た、若いやさ男がニヤニヤしながら上半身を蛇の様に前のめりにくねらせていた。

嫌な目をしているな、と思った。

男はよだれを垂らさんばかりの顔をしてせわしなくごちゃごちゃ話し掛けている。女は俯いたまま小声で抗うも逃げられず、勢いに押されている。今にも連れていかれそうな雰囲気だった。正に蛇に睨まれた蛙といった様子だった。

ああ、あんな男に喰われてしまうのか…。私は何だかまた悲しくなった。

地味女はナンパを拒もうとする度胸もなく、固く俯いたまま、小さく首を振って、男の言葉に応じていた。

世間の男女の気軽なやり取りなんて、案外こんなものなのかも知れない。則ち、ノリの良いもの勝ち、ヤったもの勝ち、という言葉である。

けれども実際そうなのだろう。世間の声の大きい人達の強気な言葉を、その肯定力を私はしかし受け入れたくない。あくまで蓄積した想いとか熱情が無ければ、そんな気分になれないのである。だから何時も負け組であり、だから未だに孤独であるのかもしれない。


私がレンタルビデオ屋に入り、出て来た時には、二人はもうそこに居なかった。

ただ私が大人に成りきれぬだけなのかも知れない。ただの臆病なあまちゃんなのかも知れない。しかし、感覚として受け入れたくないのだ。

地味女の困惑した俯き顔を想うと何故か堪えきれない位にやるせなく、背を丸めて、足を急かして居酒屋へ向かった。

店員の女に会いたかった。会って、営業でもいい、優しい声が聞きたかった。

思えばさっきのくねくねしたナンパ男と私と何が違うだろう?嫌だ嫌だと思いつつ、その濃淡の差こそあれ考えている事は全く一緒ではないか。私は自身のゲスな心を取り繕っているだけ余計にいけない。俯いて、歩く。

話す事もないのに、何故会いたいのだろう。特に今日は感情を制御出来ない。今は彼女の事しか考えられない。


暖簾のかかった入り口の前で、立ち止まる。鼓動が速くなる。店内から、酔客の笑い声が聞こえてくる。ガラス越しに、注文に応える彼女の声が聞こえてくる。ドアをゆっくり開ける。

彼女が立っていた。此方を見ていた。一瞬、目が合った。

あ、いらっしゃい。彼女の柔らかい微笑が飛び込んでくる。

私はもう、ただ其れ丈で一杯だった。

悲しい出来事もやりきれない侘しさも落ち込んだ心も、優しい雨に洗い流されて行く様に溶けて行く。報われる事のない想いが胸に満ちてくるのを、今だけはどうしようもなかった。


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