お断り屋のお仕事:心の中へ紡ぐ糸
結衣埼早月 × なつのさんち コラボ作品第二弾。
『心の中へ紡ぐ糸』の優希視点でのお話です。
本日の予約を全てこなし、オフィスへと戻る。お断り屋オーナーである瑠璃は現在出掛けている。紗雪は大学で授業を受けており、オフィスにいるのは牡丹だけだった。
「ふぅ……、今日もなかなかアレだったな」
ソファーに深く座り、大きく息を吐く。どうしてもプレイヤーとしての時間は気が抜けず、どっと疲れが溜まってしまう。
「お疲れ様です、優希さん。今日はいかがでしたか?」
自分も書類仕事があるだろうに、わざわざデスクから離れてコーヒーの用意をしてくれる。リムの細い赤縁の眼鏡の奥から、気遣うような優しい瞳で見つめる牡丹。今日は白いブラウスの襟元に緑色のスカーフを巻き、光沢のある黒いスカートという出で立ちだ。出来る秘書、と言うキャッチフレーズがぴったり似合うビジネスウーマンである。まれにお姉さんキャラが爆発するが。
「女性の欲と言うのは奥深いと改めて思うよ。お断りせず受け入れろという仕事なら、とっくに逃げ出してる」
ふふっ、と笑いながら垂れた髪の毛を耳に掛ける仕草が妙に艶めかしい。用意が出来たようだ、コーヒーをお盆に載せてこちらへ向き直る。
「実はどうしても紗丹君にお願いしたいアクトレスがいるの。出勤日は予約で埋まっているのは分かってるんだけど……。オフの日を割いてお願いする事になると思うの、私との時間を当ててもらっていいから……」
コーヒーをテーブルに置き、隣に座ってちょんと俺の太ももに手を置く牡丹。珍しく牡丹からお願い事をされた。仕事に関しては私情を挟まない主義の牡丹にしては珍しいお願い。これは何かあるんだろうな。
「分かった、お相手を務めさせてもらうよ」
ほっとしたような表情でほほ笑む牡丹。
「ありがとう、これが設定要望よ」
「お姉ちゃんの頼みなら、僕は断れないからね」
「ゆう……!」
抱き締められ、結局その後すぐには設定要望を読む事が出来なくなってしまったが。
2週間に渡るロングプレイ、3回のプレイで1つのストーリーになるようだ。設定要望の一番重要な点は一緒に心中してくれと頼むアクトレスに対してお断りをする事。なかなか難しいプレイになりそうだ。しっかりアクトレス情報や設定要望を読み込んでおかないと。
・アクトレスの名前は『香芝 糸華』。
・今回のプレイヤーの名前は『俊文』。
・二人とも社会人で、大学から四年付き合っている恋人。
・プレイの場所は俊文の部屋。
・俊文の実家は一般家庭で、糸華の実家は旧家で大きな会社を家族経営している。
・少しだけ声を低くして、ゆっくりしたテンポで話して欲しい。
・アクトレスを説得して断り始めるタイミングは、『私は真実の愛に殉じたいの』というキーワード以降を希望。
・屋外で撮影された、女性の写真が一枚添付されている。
セミロングで肩にかかる黒い髪。前髪は目にかからないくらいで、全体的に柔らかな印象の女性。シャツを着た男性の肩が映っていて、笑顔を男性に向けていることがわかる。写真のサイズがおかしいのは、意図して男性の写っている部分を切り離したからか。
ふむ、ここまで事細かに指定してくるアクトレスは珍しい。やはり何かあるんだろう。牡丹が気に掛ける事と言えば、やはり心中あたりか?姉が無理心中を起こし、唯一自分のみが生き残ったという牡丹の過去。そして牡丹がお願いしたいというアクトレスとの今回のプレイ内容。アクトレスは過去に心中をしようとした事があるのかも知れない。
その過去をリプレイする事で乗り越えようというのがこのプレイをする動機なんではないだろうか。やはり責任重大だな。気を引き締めて行こう。
1日目
アパート・マンションフロアのこの部屋で待機する。俺はまだ直接彼女の顔を見てはいないが、写真の通りであれば問題ないだろう。ドアに誰かが近付く気配の後、チャイムを鳴らすでもなくドアノブが回る音がした。アクトレスと俺演じる俊文との心の距離が窺える。
「ただいま、俊文さん」
「おかえり、糸華」
写真で見たよりもほっそりとした顔、手足にも余計な肉が全く付いていない。ほっそりと表現するのは上品な言い方だが、現実に即して言うのならばガリガリである。長く伸ばされた髪の毛も、とても艶があるとは言えないだろう。
糸華が冷蔵庫を開け、冷えた麦茶をコップに注ぐのをテレビを見ている視界の端で視る。少しニッコリとした表情で、こちらへと近付いて来るのが分かる。俺の肩に手を置いて、隣に座った。
「お仕事の調子はどう?」
「変わらないな」
努めて低い声で返す。これくらいでいいだろうか?
「そうなのね、私もいつもと同じ。つまらない仕事ばかりよ」
麦茶を飲んでテーブルの上にコップを置き、そして俺の肩にしな垂れかかって来た。
「どうした? らしくないね」
あまりこういう甘え方をする人のようには思えない。付き合って4年、2人の距離感を察するに、一日中ベタベタいちゃいちゃするような関係だとは思えなかった。
「今日ね、あなたとのことを母に相談したの……結婚を考えてるって」
「……、そうか。その様子だと、いい感触ではなかったようだね」
先ほどよりも意識してゆっくりと話す。不安そうな顔が少しだけ緩む。張りつめた表情のまま話すよりも、何て事ないよと話した方がいい。難しい話は難しい顔ですると余計に難しくなって行くものだ。
「そうかも。だけど、あなたの名前と働いている会社の名前を訊かれただけなの」
働いている会社でまずランク分け、そして名前を聞いて身辺調査といった所だろうか。名家のご令嬢の結婚ともなると、本人達が幸せでも周りにとってはそれだけでは済まないのだろう。
「直接ダメだと言われたわけではないんだろう?」
「ただ、なんとなく嫌な予感がして……。杞憂だったら良いんだけど」
「嫌な予感、か。君は昔から心配症だからな」
俺はわざと他人事のように話す。物事を客観視して聞いてみれば、意外とただ単に自分が気にし過ぎているだけだったという事も中にはある。
こうして抱き締めて、軽く髪を撫でてあげれば心も落ち着いてくるというもんだ。人の体温を感じ、あぁ、子供の頃はもっと無責任でいられたのにと思い出すひと時。大人になり何もかも自分で考え行動しなければならない、そんな働く女性にとっては必要な時間だ。糸華さんの身体の強張りが徐々にほぐれて行くのを感じる。ほら落ち着いた。少しだけ、ほんの少しだけ心が軽くなったような表情で、糸華さんは俺から離れた。
1回目のプレイを終え、お互い話をしないまま別れた。変に素の状態で話さない方がいいだろうと判断したのだが、どうやら糸華さんもそのつもりだったようだ。受付カウンターへと戻ると、すぐに牡丹が近付いて来た。
「今日1回目のプレイだったんですよね? どうでしたか?」
少し不安そうな表情で俺の顔を窺う牡丹。俺が感じた通りに伝える。
「ああ、幸せなカップルって感じだったけど、結婚を反対される流れだな。親に無理やり引き離されて、それで思い詰めてってストーリーになると思う」
そう……、と言って牡丹は考え込んでしまった。そんな牡丹を思わず抱き締めて、髪を撫でてしまう。しまった、やはりクーリングタイムを取らなかったから役柄を引きずってしまった。周りの視線が痛い……。
「もう……、後でね?」
2日目
今度は俺が自分のアパートへと帰る番だ。鍵を使いドアを開け、部屋へと入る。中は真っ暗、そして床に座り込んでいる糸華さんを見つける。
「……!? 帰っていたのか」
「あら、お帰りなさい」
左頬には白いガーゼ、メイクスタッフが手伝ったのだろう、特殊メイクだと分かっていても痛そうな頬を見て、眉間に皺が寄せてしまう。
「それ、どうしたんだ?」
「この怪我? 父にちょっとね……古い人なの。女が口答えするなですって」
母親は庇ったんだろうか。娘が言う事を聞かないからと手を上げるような旦那に、妻としては何も言えない可能性が高い。結婚を反対され、家族から孤立している状況だろう。
頼みの綱は彼氏である俊文だけか……。糸華さんは過去を思い出しているのか、床を見つめまたぼーっとしている。温かいお茶を用意しよう。
「とにかくこれを飲んで落ち着こう、顔色が悪いよ」
「ありがとう。……私、結婚させられるの」
結婚を反対されるだけでなく、望まぬ結婚を押し付けて来るとは。とんでもない両親だな。一般的な家庭で育った俺には想像も出来ない。少し踏み込んで事情を聞いて行こう。
「させられる……?」
「あなたは両親が決めたくだらない基準に達していないから、おかしな気を起こさないように“良い人”と結婚しなさいって……笑っちゃうわ。二十も上の男」
ふふふ、と笑ってはいるが、目は死んだように無表情。明らかに参っている様子だ。
「親の愛情ってのは、子供にはなかなか伝わらないと言うが、これは……」
ほんの少しだけ糸華さんの表情に色が戻る。俊文の言葉で何かを感じたのだろうか。
「あなたみたいな優しい人には、家の両親も立派な親に映るのね。違うのよ……皮肉じゃなくて、そうだったなら、どんなに良かったかと……っ」
口元を押さえるだけでは、溢れる涙を止めることは出来ない。とにかく話をしてもらわないと状況が掴めない。まだ温もりが残る、糸華が手を付けていないお茶を差し出して、先を促す。
「俺は君の家の事情を詳しく知らない。君の生まれた家の事を、教えてくれないか?」
お茶で口を湿らしてから、思い悩みながらも声を搾り出して話し出す。
「香芝の家は元は呉服屋でね。家業を大きくしてからは政略結婚でその地位を盤石にした、典型的な一族経営の家よ」
「それはまぁ、昔ならよくあったんだろうね」
「こんな時代に、古臭い考えでしょう? でも私は大学にも行かせてもらえたし、就職もさせてくれた。今更になって政略結婚をさせられるだなんて、露ほども思ってなかったのよ」
大学を出て就職もしているのなら、親が子供を好きにしていい訳がない。子供はもう自分の人生を歩み始めていると言うのに……。
「でももう君は実家から独立している。今更親に結婚相手をあてがわれると言うのは……」
「普通なら、そうよね。けどあの人たちには意味がない話。今はまだ働けているけど、きっと近い内に会社も辞めさせられるわ」
俺には会社を辞めさせられると言う事が理解出来なかった。自分で選んで就職した会社を、親の勝手で辞めさせる事など出来るのだろうか。プレイとは分かっていても、糸華さんの両親に対する怒りの感情が沸き立ちそうだ。とりあえず俊文の性格を想像し、言葉を紡ぐ。
「今度の休みにでも、ご両親へご挨拶に行こう。長く付き合っているのに、一度もご挨拶していない俺にも負はある」
4年も付き合っていて、彼女の親に挨拶をしないというのはどうなんだろうか。糸華さんの首が横に振られる。
「私が必要ないって言ったのに、俊文さんに悪いところなんかないわ。それに……」
なるほど、糸華さんが俊文が挨拶に行きたいと言っていたのを断っていたのか。両親に会わせたくなかった、と言う事だろうか。糸華さんは俊文を両親に会わせれば、きっと別れさせられると思っていたのかも知れない。
「それに?」
「いいえ、何でもないの。次のお休みね、伝えて置くわ。私の為にわざわざありがとう」
「すまない、俺は君の話を聞いてあげる事しか出来てないな」
右の頬を撫でる。現在この傷は治っていても、心に出来た傷というのは深い。だからこうしてリプレイをしているのだ。
「それでも、ううん。だからこそ嬉しい、私の大好きな俊文さんらしくて」
「君の大好きな俺、か……」
糸華さんが好きだった俊文という人物。彼は今、どうしているのだろうか。
受付カウンターで今日のプレイが終了した事を報告した後、自室のあるスペックスビルの最上階へと戻り、さぁ今日はどうしようかと考えているところへ牡丹も帰って来た。
「ちょっと心配でプレイの映像を見てたの。俺にも負はあるって言い回しは、ちょっと変だと思うな」
わざわざそれを言う為に俺を追いかけて来たのか。仕事は大丈夫なんだろうか。
「そうなの?」
「ええ、非がある、非はある、なら大丈夫だけど。アクトレスによっては言い回しや誤用にツッコんでプレイ中断する場合もあるからね。ちゃんとした日本語をお姉ちゃんが教えてあげるわ」
「そこは秘書として教えてくれた方がいいと思うが」
3日目
設定としては、今日は二人の休日が重なる日、しかし夕方になっても糸華は姿を見せない。もう何日も連絡が取れず俊文は心配で堪らないが、糸華は必ず自分に会いに来ると信じて待っている所だ。もうすでに夕方になる時間という事で、3日目にして最後のプレイが始まろうとしている。
呼び鈴が鳴り、部屋のドアを開けると糸華さんが俺の胸へと飛び込んで来た。
「糸華!?」
「俊文さん!」
ぎゅっと強く抱き締める。糸華さんの身体の強張りが少しずつ解けて行くのが分かる。
「連絡がないから心配で堪らなかった」
「心配させてごめんなさい。家から逃げて来たの……」
嬉しそうに俺の顔を見上げるが、その姿は痛々しく感じられる。裸足で足は傷だらけ、髪もボサボサだ。
「大丈夫か?」
とりあえず部屋に上げ、裸足で汚れている足を拭く用に濡らしたタオルを用意する。温かい濡れタオルで足を丁寧に拭いて行く。
「……こんなことになってしまって、ごめんなさい」
まだ何が起こっているのか俊文は知らない。こんな事というのは、足を清めているこの状況の事か、それとも裸足で逃げ出さざるを得なかった実家の状況か。
「混乱しているのは分かるけど、きちんと話してくれないか?」
「ええ、順を追って話すわね。……あれから実家に、一度俊文さんと会って欲しいと電話をしたの。突っぱねられると思っていたら、考えるから一度家に帰って来なさいと言われて……」
話を聞いてくれると希望を持って帰った実家で、両親が用意した二十も年上の男性と結婚すると言うまで監禁されていたそうだ。見張りを付けられており、自由に外出すら出来ない。隙を見てやっとの思いで逃げ出してきたそうだ。想像出来ない状況に、ぞっとする。
「そんな事になっていたなんて……」
「今頃、私の行方を追って方々手を尽くしているでしょうね。ここに誰かが来るのも、時間の問題かもしれないわ」
会社名と俊文の名前は伝わっている。糸華さんのご両親ならすでに身辺調査をしており、このアパートの場所も把握しているかも知れない。
しかし娘の為を思えばこその身辺調査なのではないだろうか。俊文はどう捉えた?どう行動する?どちらにしてもこの場を離れるのがベストだろう。
「どこかホテルでも泊まろうか。少し時間が経てば、分かりあえる事もあるかも知れない」
「……わかってくれることなんて、あるのかしら? いっそ勘当してくれたなら、どれだけ楽か……」
2人が幸せになるのならそれでいい。逃げてどこか遠くで暮らす。しかし、両親に反対された結婚に、幸せはあるのだろうか。俊文ならばどう考えただろうか。
「ご両親が祝福してくれない未来に、君の笑顔はあるのかな?」
「見透かすみたいに言うのね。それは、私にも両親の期待に応えたい気持ちはあるわ……だけど! 私はあなたと結ばれたいの。私の笑顔があるのは、俊文さんの隣にいる未来にだけよ」
両親の期待に応えたい気持ちはある、よろしいならば正装だ。サッと立ち上がって部屋着を脱ぎ、クローゼットに仕舞われていたワイシャツに腕を通す。スーツに着替えてネクタイを締め、備え付けの鏡で髪型をセットする。鏡越しに呆然とする糸華さんの表情が見て取れる。
「ご両親がここへ来られると言うのなら、やはりキチンとした格好じゃないとな」
そう言って、笑顔を作る。柔らかい、優しそうなほほ笑み。俺の想像上の俊文の顔は、こんなイメージだ。
「両親は来ないわ。あなたの気持ちは、すごく嬉しい。だけど常識が通じる人たちじゃないの! 私を見張っていた父の部下たちが、ただ連れ戻しに来る……それだけなのよっ」
両親の期待に応えたい気持ちはあるが、父親の部下が連れ戻しに来てハイ帰りますと従う様子でもない。しかし諦めたような表情。
このストーリーが現実ではどうなったのかは分からない。だが、これはプレイだ。少しでも逃げ道を、少しでも幸せを提示した方がいいに決まっている。
「俺の叔父さんが北海道にいる。しばらくそこで暮らそう。いつまでになるかは分からない。俺がいなくなっても会社は回る、急にいなくなっても問題ないよ。糸華の方は分からないが、こう言う状況だ。何とか出来るか? しばらく向こうで暮らして、ほとぼりが冷めるのを待とうか。ご両親も考え方を変えてくれる日を待とう。こうなる前にご挨拶だけでもしておきたかったが……、今言っても仕方ないよな」
こういう考え方もあったはずなんだ。一度引いて、機会を窺う。相手が折れるのを待つ。最終的に認めてもらえればそれでいい。それまでは2人、ささやかな幸せな時間を過ごしていられたら……。
やや強張ったような表情で、糸華さんは言葉の意味を考えている様子。
「……ねぇ、私たちが結ばれない人生に意味なんてないと思わない?」
来た、ここで全てを終わらせようという思考に流されている。両親から反対され、無理やり別な人との結婚を突きつけられ、人生から逃げようとしている。しかし俊文が、分かったと返事するとはとても思えない。
「そんな事……、考えた事もない。結ばれたいと思う気持ちこそが、今一番大切なんじゃないのか?」
「私も同じ気持ちよ。このままじゃ、どこに行ったって両親は追いかけて来る。そして私は無理やり結婚させられる! ……あなたと誰にも邪魔されずに、あの世で結ばれたい。そう考えるのはおかしいかしら? 私は真実の愛に殉じたいの! お願い、私と一緒に死んで……!!」
糸華さんが立ち上がり、その細腕のどこにそんな力があるのかという強さで俺の肩を掴む。目の焦点は合っていない。大きく開かれた瞼、俺を見る目は恐らく俊文を視ているのだろう。
設定要望に書かれていたキーワードが出た、ここからがお断りの流れになる。
何を言うべきか、何を語り掛ければこのリプレイが糸華さんの為になるのかを考える。俊文ならどうする。一緒に死ななかった俊文ならこの状況で何て言うんだ!?
腕を力づくで剥がす。そして両腕の上から、力の限りに抱き締める。
「死んで何になる! 真実の愛が何になる! 君が死ぬくらいなら、俺は離れた所から君の幸せを願っている方がマシだ。生きてこそ、生きてこそなんだ……」
「俊文さん……!」
糸華さんの両目からボロボロと涙が溢れる。
俊文さんのこの気持ちは糸華さんに届いただろうか。俺の胸に顔を埋めて叫ぶ。
「私を愛して。怖い、あなたへの愛が……この気持ちが怖い……っ」
これが彼女の本当の気持ちなのだと感じた。でもそれではダメなんだ。今この場面で俊文さんが糸華の愛を受け止めてしまうと、糸華は俊文さん以外の全てを失う。恐らく俊文さんは自分が身を引く事で、糸華さんを生かしたんじゃないだろうか。
「いいか良く聞くんだ糸華、その気持ちだけで十分だ。例え二人結ばれなくても、今この瞬間俺達は確かに愛し合っている。俺はこの瞬間さえあれば生きていける! そして何より、君の幸せを願っている……」
それだけ言って糸華さんの身体をそっと離して、背中を向けた。
少し臭いセリフを吐いて、俊文さんの本当の気持ちよ、どうか伝われと祈る。
「私も……。私が、間違っていたわ。黄泉の国で結ばれたなら、絶対に離れなくて良いと思った。でも、違うのね? 離れていても、私はこんなにも愛されているんだわ」
伝わっただのだろうか、俊文さんが本当にこう思っていたかどうか、実際はどんな行動に出たのかは定かではない。しかし、2人仲良く寄り添っていたのであろう写真を見ると、そうであってほしいと願ってしまう。今は写真のように2人、切り離されてしまっている。遠く離れて別々になっていたとしても、お互いがお互いを想い、生きて行ってほしい。
糸華さんは声を上げて泣いている。その涙は、プレイによる感情から来るものか。それとも、実際の俊文さんの愛を想っての涙なのだろうか。背中を向けたまま、糸華さんが泣き止むのをじっと待つ。大きく深呼吸をする吐息。さぁ、糸華さんの背中を押そう!
「さぁ、行くんだ」
「ええ!」
玄関のドアが開き、糸華さんが外に出る気配を感じる。そして……、
「……ありがとう、紗丹君。あなたのおかげで、時が戻ったみたいに感じたわ。あの時の愛が、絶望がまざまざと蘇って来た」
ふぅ、と息を吐き呼吸を整える。知らず流れていた涙を拭い、糸華さんと向かい合う。さっぱりとしたような表情。1日目に見た印象と大分と違って見えるのは、きっと気のせいではない。そして、どうしても聞かずにはいられない。
「もしかしてこれ、本当にあった事なんですか?」
「実はそうなのよ。私の昔の恋人はね、心中の提案を受け入れてくれたの。『苦痛を与えたくないから、睡眠薬を飲んで眠っている君をあの世に送るよ』なんて言って……全部嘘だったわ」
「嘘、ですか……」
嘘には違いない、しかし……。
「彼は心中を言い出した私に、これ以上巻き込まれるのはごめんだと言ったそうよ。眠る私を実家の追っ手に引き渡して、代わりにお金をもらって音信不通。……それ以来、人を信じられなくなってしまって」
結果、糸華さんは心に傷を負い、絶望のまま日々を暮らしていたのだろうか。
「それをまだ引きずってらっしゃるんですね……」
「もう“引きずっていた”よ。それにしても、色々と細かいことをお願いしてしまってごめんなさい。普段のお仕事と違ってやりにくかったでしょう」
「いえ、難しくてやりがいのあるプレイでした」
引きずっていた、か。俺の俊文さんに対する推測は伝えない方がいいな。やっと吹っ切れたこの想いを、もう一度俊文さんへと引き寄せてしまう事になるかも知れない。
「優しいのね。二週間の内に三回も予約を入れさせてくれるし……牡丹さんによくお礼を伝えてくれるかしら?」
「分かりました、伝えておきます。珍しく優先的に予約を入れてほしいとお願いされましたよ。ご友人関係ですか?」
「パーティーなんかで時々会う知り合い、かしら。久々に会って痩せた私を心配してくれて、お断り屋を紹介してくれたのも彼女よ」
「あぁ……、なるほど」
「恋人役がガリガリじゃ気になっちゃうわよね。誰からも裏切られた私は、何もかもを恨んで食事を拒んだの。ずっとお水しか飲まなくて、二週間も経ってから両親が死ぬほど嫌なら縁談はなかったことにすると謝って来た。けど、縁談なんてどうでも良かった……生きる気力が湧かなくて、いつまでも体重が戻らなくて。だけど……」
今の糸華さんを見て、俊文さんは何を言うだろうか。きっとこう言うだろう。
「生きてこそ、感じられる幸せがあると僕は思いますよ」
ふっ、と力が抜けて自然に笑ってくれた。とても美しい。
「今日からは前を向けそうよ。本当にありがとう」
「次回は楽しいお断りが出来るよう、心よりお待ちして申し上げます」
「そうだ。最後に一つだけお願いを聞いてくれない?」
「何でしょうか?」
どんなお願いだろうか?恐らく今回も牡丹がモニターを確認していると思われる為、場合によってはお断りさせてもらうが。
「注文書で気づいてるかもしれないけど、紗丹君の低い声ってちょっとだけ俊文さんの声に似てるの。だから、その声で絶対にあの人が言わなさそうなセリフをお願い」
なるほどね、吹っ切る為にわざと言わなさそうなセリフのリクエストか。しかし俺はちょっと考えて、逆に俊文さんが今一番言いたいだろうセリフを口にする。
「生きろ、そなたは美しい」
「ふふ……っ! うん、吹っ切れたわ!」
そうですか、それなら良かったです。
牡丹の様子が気になり、早足でオフィスへと戻った。今日も瑠璃の姿も紗雪の姿もなく、1人で俺を迎えてくれる牡丹の目は真っ赤に充血し、頬には涙の痕があった。
「優希さん、ありがとうございます。とても難しそうなプレイを、それも時間を掛けて3回も。モニター越しに見えたあの笑顔、初めて見ましたよ。俊文さんとやらが見たら悔しがるかも知れませんね」
「牡丹、それは違うと思うんだ。どうしても別れないといけない状況って、男女の間ではまれにあると思うんだ。お互いの事情があって、別れないといけない。好きなまま、愛し合っているままだと、別れた後がとんでもなく辛いんじゃないかな?」
牡丹は目の前の俺と別れる事になったら、と想像してなのか口を噤んだ。
少なくとも俺は、愛し合う2人の別れは辛過ぎると思ったんだ、このプレイを通じて。
「俊文さんは糸華に生きていてほしかった、だからわざとご両親に引き渡したんじゃないか? 思い詰めて、死ぬしかないと思っている糸華さん。自分と一緒にいても幸せになれないんなら、自分に対する未練を断ち切ろうと思ったんだろう。そして家族に預ける事で自殺を防ぐつもりだったんじゃないかな。その酷い別れからの回復に時間が掛かったけど、実際彼女は立ち直った。だから俺は最後に言ったんだ、『生きろ、そなたは美しい』と。想像でしかないけど、俺はそうであってほしいよ」
ただの想像でしかない、俊文さんは本当にお金を受け取って逃げただけなのかも知れない。けれど、俊文という人物に扮する事で、俺が見つけた俊文の真実。
だが、その事を糸華さんに伝える事は出来ない。非常にもどかしい、自分の想いを殺してまで糸華さんを生かした彼の深い愛情は、俊文を演じた俺にしか見つける事が出来なかった。本当の幸せ、真実の愛って何なんだろうな。
せめて、俺だけが想っていよう。俊文さんの幸せを……。
「私の姉を振った人も、優希さんのように上手にお断りをしてくる人であったら良かったのに……」
抑え切れなくなったのか、当時の感情が蘇り嗚咽する牡丹。肩を震わし今にも崩れ落ちそうなほどに身体が縮こまっている。思わず抱き締め、柔らかい髪の毛を撫でる。少しして呼吸が落ち着き、牡丹は甘えるように俺の胸に頬擦りをする。
「私は、振られる方に耐性があればいいのだと思い、お断り屋を立ち上げました。でも、そうじゃない……。振る方にも相手に対する想いがなければ、ただ辛いだけなんだと分かりました。今まで私が築き上げて来たモノは、一体何だったんでしょうか……!!」
自分の信念の元、今までがむしゃらに進んで来た。それが今、牡丹は信じられなくなっている。見失うな、自分自身を信じなければダメなんだ。
「牡丹、過去は変えられない。だからリプレイする事で上書きするんだ。牡丹の中でまだ事件が終わっていないのなら、一度逃げればいい。考えなくてもいいんだ。いずれ受け止められる日が来るかも知れない。来ないなら来ないでいい。またこうして、俺が抱き締めるよ。たまにはいいだろ? 姉が弟に甘えても」
「ゆう……!」
熱いキスを交わす。相手を求める為ではなく、傷を癒す為の口づけ。過去に縛られず、今を生きよう。そして牡丹はまた、このお断り屋を求めるアクトレス達の為に尽力するのだ。自分と同じ境遇の者が減るように、と。
「はぁ……、またゆうに助けられちゃった。ダメなお姉ちゃんでゴメンね? 今度はお姉ちゃんがゆうのお願いを聞く番よね。何か欲しいモノ、ある?」
そうだなぁ、何がいいかな?でも一番欲しいものは決まっているんだけど。
手を繋ぎ、牡丹をオフィスから連れ出す。
「ゆう、どこに行くの……?」
「分かってるクセに」
終わり
「友達の彼女の告白を断ったら、お断り屋にスカウトされました!」の作者、なつのと申します。
コラボ前作の、『心の中へ紡ぐ糸』も合わせてお読み頂ければ、結衣埼さんの物語に対するスタンスと私のスタンスとの違いが分かって2度3度と美味しい作品になっていると思います。
何度も誤字脱字のチェック、言い回しや流れの修正で結衣埼さんには大変お手数をお掛けしましたが、やっと完成させる事が出来ました。ありがとうございました。
はじめましての方々が多いと思います、結衣崎早月と申します。
前作のあとがきにて、なつの様はコンセプトを"上書き"と書かれたのですが、私と糸華にとっては"心残りを昇華させる"がテーマでした。
"もしも"を吐き出した彼女は、自分の幸せの為にまた歩き始めます。
俊文が何を思ったのか?糸華の愛は何だったのか?
それは読者様にお任せします。お好きな糸を紡いでくださいませ(*^^*)
最後になりますが、なつの様、本当に素敵なコラボをありがとうございました!
結衣崎早月




