あなたのためにもう一度17
ファレル達が用意された別の馬車に乗り込むと、ようやく一行は走り出した。
昏睡状態のルーの兄を寝かせるために、ヘティとルーはそのまま座席のない幌馬車に揺られていた。
冷たい空気を防ぐためにしっかり閉じた幌の中は、ガタガタという車輪の音もあいまって外界から切り離されたかのようだった。
馬車の側面に背を預け、二人並んでぼんやりと横たわる人を見つめている。
倒れてから早半日、ルーの兄は目覚めていない。ただし、ファレルいわく体の中には魔力の欠片すらないというので、精霊の傀儡のままという可能性はないという。
「お兄さんは、真性の魔力無しなんだね」
「そのせいでこんなところに連れてこられて、おまけに依り代になんてされたわけだ。…ずっと、見つけてやれないで。俺がのんきに修行してる間も」
やや苦く呟いたルークを、ヘティが顔を横に向けてじいっと見つめた。
「なに」
「ううん。でもそれで、精霊を消滅させても死なずにすんだんだなって」
よかった、とヘティはぽつりと呟いた。
よかったか、とルーは考えた。不快ではないが、不思議なことを言われた気がした。ヘティはもう視線を戻している。ルーの兄を見つめながら、呟くように続けた。
「ルーに、お兄さん殺させちゃうかと思った。そんなことにならなくて、また会えて、よかった。お兄さんが魔力無しで、ルーが魔法具技師で、よかった」
ルーも無言で兄のこけた頬の輪郭を見つめた。
あの場では、自分とヘティを殺されまいと必死だった。けれどもし、勢いにまかせて兄までどうにかなっていたら。想像だけでぞくりと悪寒が走って、ルーは頭を振った。
万が一そんなことになっていたら、ルーは今、こうしてヘティとならんで座ってなどいられなかっただろう。探し続けた時間が、永遠に失った事実が、自分が手にかけたという思いが、大きな岩のようにのし掛かり、押し潰されていただろう。
確かに兄を人並外れた事件に巻き込んで長年苦しめたのは、魔力無しという性質だ。しかし、ただの徴用で帰らぬ人になっていた可能性だって、本当は高かった。それが、今、また生きて会えた。自分の技師としての力で救えた。
──よかった。
結局自分では見つけてやれなかったとか、あの場でヘティと自分の命を優先したとか、色々渦巻いていた考えが、ふいに一言にまとまった。
この状況を、素直に喜んでいいのだと、ようやく思えた。
「…ていうかさ、あんた、俺の兄を助けるために死ぬ気だったわけ?」
ほっとしたのをごまかすように声を尖らせてそう尋ねると、ヘティはまさかと答えた。
黒い目を丸くしているから、本心から言っているのだろう。しかし、話を変えるために切り出したこととはいえルーは納得いかなかった。
「あんなこと…わざわざ敵陣に突っ込むようなことして、死んだって死ぬくらいひどい目にあったっておかしくないって、分かんなかったの?」
実際ルセルの一族の目的はヘティの魔力と体を水神に花嫁として捧げさせることだった。それなのにヘティときたら、ルーが助けにきてなお突撃していったのだ。
ヘティは、少し膝を見て考えたあと、答えた。
「死のうとも犠牲になろうとも、思ってなかったよ。でも、ルーのしてくれたこと、返そうと思ったら、やっぱりそれしか思い付かなかったから」
だって、お兄さんが見つかれば、ルーは寂しくなくなるでしょう、とヘティ。
「ルーは、私にたくさんくれたもの。友だちも、仕事も、将来の夢も、安心も…それに、あの…私のこと守るために、好きでもないのに婚約までしてくれた、でしょう?」
ああ、とルーは天を仰いだ。やはり、そう思われていたのかと。
「だから…私に返せること、ルーがうれしいこと、何か私も、…きゃっ!ルー!?」
「本当、馬鹿なヘティ」
「え、酷いよ。馬鹿じゃなぃ…?!って、あの」
「俺、なんでもないやつ守るためだけで婚約するほど人良くないよ」
馬鹿でずれててどじで、温かい、ヘティ。おまけに銀の髪からは甘い匂いがする。
ルーはもう何も言わずに、ヘティの髪に顔を埋めた。
しかし、ヘティの方はまだ足りなかったらしい。
「あの、ルー。これは一体、というかそれって…だって、あれ?アイーダさんとは…」
身動ぎしながら尋ねてくる。仕方なく、ルーは居心地のいいヘティの髪から顔を上げて目を合わせた。
「嫉妬した?」
するとヘティは真っ赤な顔で、分からないと言いつつ、正直に唇を震わせた。
それがまた堪らなく愛しくなって、ルーはその赤い下唇を親指でなぞった。
「アイーダは、同郷なんだ。しばらく同じ孤児院にいた。だから、俺の家族事情を知ってたし、兄貴の情報が聞けるって言われて人に会いにいく約束もした。でも、俺にとってはそれだけだから。…心配させて、ごめん」
自分のことを話すのは、やはり慣れない。本心から謝るのも。
ルーは、うまく説明しきれていないと思ったが、これだけは言わねばと、ヘティの両肩を掴んだ。
「ヘティ。俺さ」
一番言わねばならない言葉は、一番言いづらく思えた。これまで、お世辞や嘘でなら何百回と口にしてきたというのに。ヘティに言ったことだってあるのに。
鼓動がうるさい。耳が熱い。それでも、言わないでまたヘティを暴走させて失いかけるのは耐えられない、と自分を叱咤して、息を吸い込む。
「あんたのことが好きだよ」
緊張は、言った直後にとけた。何しろヘティのほうが真っ赤なまま固まってしまったのだから。
かちこちになったヘティにルーは笑った。笑って、そして、キスをした。
以前にも、思い返せば、キスをしかけたことは、あった。
しかし、それはヘティを遠ざけようだとか懐柔しようだとか、そういう意図でのことだったし、だからかヘティはまったく落ち着いたもので、ルーの意図もプライドもことごとく蹴散らしてくれた。
けれど。
ちゅ、と軽く啄むような音がする。
それが響いた途端、今度はヘティの金縛りが溶けた。
「ひゃ…っ」
悲鳴を上げて唇の触れた跡を隠すように額を押さえるヘティに、ルーはいたく満足した。
「なんで…っ」
「したかったから」
「なっ…、もう、ルー!?」
何もからかったわけではない。これまでのルーには珍しく、本心からの言葉だった。それなのに、ヘティはからかわれたと思ったのか、赤い頬を膨らませた。
「ほら、冷えるよ」
真っ赤な涙目が可愛くて、延々いじっていられそうだ。けれどやり過ぎるとまだまだ体調の戻らないヘティには負担だろう。それでルーは、適当なことを言って毛布でヘティの鼻先までくるんでしまうことにした。
もう夜が近い。
暖かそうな毛布のだるまを作ったルークは、満足して自分も目を閉じた。




