あなたのためにもう一度13
ヘティは息も絶え絶えのまま叫んだ。
ルーを傷つけられた衝撃は、自分が締め上げられることとは全く違う恐怖だった。
うつ伏せた金茶色の髪が赤く染まっていく。
ルーは動かない。
くずおれて起き上がることのないその姿に、ヘティの喉がかあっと熱くなる。視界がぼやける。
──ルー、起きて。動いて。
祈っても祈っても、ルークはぴくりとも動かない。
目の前が真っ赤に染まる気がした。
──ダメ。
──死なせない。
体の中でひゅうっと音がする。乏しかったはずの何かが沸き上がる。
それは末端まで満ちて、指先が焼けるようにチリチリしだした。
「なっなんだこの娘は?!魔法を使う気かっ」
『何と。珍しい。楽しませてくれるようだ』
「この聖地で魔法が使えるというのか?!馬鹿な、…どうなっているっ」
長が慌てふためくのも、水神が目を見張るのも目に入らない。
──ルーのところに、いかなきゃ。
感情のままに体を揺すれば、動揺の隙をついたのか拘束が弛んだ。ヘティはそれを抜け出してルーの側へ駆け寄る。
途中からかうように追いかけてくる蛇の尾が煩わしくて手で払った。途端、水神が叫ぶ。
『ぐぅぁぁ!!』
びゅっと吹き抜けた風が、蛇の体を切りつけたらしかった。しかしヘティはそれを確かめなかった。ようやく触れた金茶の頭を両手で支え横に向けるのに必死だった。
ルーの顔色は酷かった。それなのに、髪の間から流れた血だけが鮮やかに彼女の手をも染めていく。
「治れ、治れ、治れ、治れ、治れ、治れ」
ヘティは両手で青白い頬を包むようにして唱え続ける。両手は震え、声はかすれ、不安定な魔力はなかなか傷を癒さない。それでも唱える。真っ赤な手でルーの頭を探る。
その様はまさに無心で、見る人間に憐れをもよおすものだった。しかしこの場には、ひとならざる者とその眷族しかいなかった。
『…優しくしておれば舐めた真似を』
格下の娘に傷を負わされた水神の声には、殺気がこもっていた。しかし意外にもルセルの長がそれを宥めた。
「希少な花嫁を怒りに任せて殺しては、勿体ない。水神様、加減なさいませ」
『加減か…。難しいな』
水神は、すでに傷跡ひとつなく修復された尾を、忙しなく揺らす。その様に先程の余裕はなく、ただ怒りのみがうかがえる。
「邪魔、しないで!」
絡めとるようにしなった尾に扱いにくい風を興すが、今度は退けたのみ、風の刃は避けられて湖面に波をたてた。
『ここには風など通らない。お前にいくら魔力があろうと、所詮我には敵わん』
一層低い声を出される。
それでも、ヘティにルーから離れる気はない。迫る尾をもう一度風で防ごうと手を上げる。
けれどそのとき、びきんと腕に異常な痺れが走った。
酷い痛みの代償に指先から放たれたのは、何とも情けない微風。
ヘティの体は確実に、ないはずのものを興す荒業に悲鳴をあげていた。魔力があろうと、その場に全く適さない魔法を使うことは困難なのだ。これがただの室内ならばこれほど難しくはなかっただろう。しかし、水神に支配され濃密な水の魔力に覆いつくされたこの場所では、本来それ以外の魔法を出現させることすらままならない。
ヘティの弱々しい微風は易々と凪ぎ払われ、ヘティはそのまま逆に吹き飛ばされた。
背中を打って息がつまる。
けれど何より、ルーから離されたことが気にかかった。支えを失ったルーの体が、再び硬い岩の上に俯せに転がった。
「おや、じゃじゃ馬姫ももうたね切れか。しかしさすがにおいたが過ぎるな。これは水神様に罰して頂かねば」
にやにやと長が笑う。ヘティの魔法がもう使えないとみるや先程の動揺はどこへやら、尊大な態度へ戻っていた。その言葉に水神も興味をひかれたように顎をなで首をかしげる。
『希少な花嫁を殺しては勿体ないのであろう?どれ、何が人の身には罰となるのか?』
その問いは期待通りのものだったのだろう、長が一層笑みを深める。
「見せしめにそちらの愚か者を殺すのがよろしいと」
『なるほど』
「や、め…!!」
ルーに照準を合わせた水神に、ヘティは悲鳴をあげた。
そんな彼女を面白そうに笑って、水神がルーそっくりの男の姿で指先を動かす。
すると湖水が意思をもったかのように帯となってせり上がり、ルーの方へと向かっていくではないか。
ヘティはルーに再度駆け寄ろうとしたが、蛇の尾に拒まれた。
「お願い、やめてよ、言うこと聞くからっ!ねぇ!」
うろこを握りしめて言ったが、水神の身も心も動くことはない。
『駄目だ。これはお前への罰なのだから。そこでようく見ておるがいい』
「やめて!!やめてぇ!!」
倒れたルーに、水面が触れた。そのままその体がなすすべなく完全に水に呑み込まれた、そのとき。
泣き叫ぶヘティは気付かなかった。けれど、おかしなことが起きた。
薄暗い洞窟内に、明るい光が差し込んだのだ。
先刻雫を落とす小さな隙間があったその場所が、今大きく口を開けた。
とうとう大量の土砂が湖面に落下し、ばしゃんばしゃんと大きなしぶきが上がる。
ヘティはまだそれを見なかった。
しかし、湖にいた者たちはさすがに逃げ出したし、水神たちももちろん気付いて眉をひそめた。
「なんだ。何が起きた」
『…こやつらの相手をしている間に山にねずみが入り込んだ』
水神の目はじっと空の覗く穴を睨む。
「見張りは何をしている!おい、山の見張りに増援を送れと言ってこい!」
長がイライラと足を踏み鳴らし、狼狽えながらも湖から出た者のうち数人が駆け出した。
そうするうちに、そこから冷たい空気が流れ込んできた。地下空間が息を吸い込んだように。湿った空気を一掃するように。
そのことは、穴を見ずとも、ヘティの体が感じ取った。
──ああ、風だ。
──水を吹き飛ばして。ルーを助けて。
ヘティはルーを睨むように見つめながら、口を開いた。
「舞い散れ!」
無我夢中で風を操る。ルーに絡み付く水を切り刻み巻き上げるようにして。
『我を、人の子のお前が上回れるとでも思うのか?』
水神は長い胴体でヘティの前進を止めつつ、面白そうに言う。
『愚かな』
「知らない!吹き飛べッ!」
確かに、ヘティは人より魔力が多いとはいえ普通の人間だ。対する精霊は純然たる魔力の塊とも言われる。両者を比べれば、遠からずヘティが力負けするのは確実だった。
けれどヘティの頭にそんな理屈はなかったし、あったとしてもルーの死を前に何もせずに見送ることなど考えられない。
だから、ヘティは叫び続けた。
「吹き飛べ!吹き飛べ!吹き飛べ!!」
「詠唱とは、なんとまあいとけないことよ」
長のあきれたような言葉は耳に入らない。
「やがてはお前の魔力も男の命も尽きよう。さあ、どちらが早いか」
この言葉はさすがにヘティの耳と胸に刺さった。
「…っふきとべ!」
声が揺れる。すでにルーは相当な時間水を被っている。人が溺れて生き永らえることができる猶予は、どのくらいだったか。あとどれ程、それともすでに、など考えることさえ耐えられず、涙声で詠唱を続ける。
大して効いてはいないのだ。切り裂こうと相手は水、再び湖に落ちるばかり、すぐにまた湖からルーへ伸びる水が増やされる。
文字どおり必死のヘティに対し、水神は余裕からかよそ見をする。すみれ色の目が、ぱらぱらと崩れる天井の穴に向けられた。
『…しかしあちらも煩わしいことだ。ルセルよ、何とかせよ』
「一族を向かわせたはずなのですが」
ぴしゃりと長い尾が鳴らされた。
『言い訳はいい──これ以上は水が穢れる』
「は、ただ今…!」
ルセルの長が駆け出していく。
『ああ、お前たちのせいで侵入を許した。なんということだ。力が…』
水神の眉が、微かに動いた。




