初めての友人8
翌朝早く、まだ鶏もなかないうちにヘティは行動を開始した。八百屋の朝は早いから、その前に話をして、何とかあの話を受けるよう説得しようと思ったのだ。
ルーの働く八百屋の裏手には、倉庫の階上に続く外階段がある。入ったことはないが、その先がルーの間借りする部屋だとヘティは知っていた。
本当は、もう少し仲良くなって、ルーから招待されたいと思い描いていたのだが。突然の訪問、しかもこんな時間に行くのは親友のルールから外れているだろう、とヘティは階段を見上げて少し立ち止まった。
けれど、ここまで来たのだ、と意を決した。周りの住人を起こさないようゆっくり静かに階段を上ると、トン、と軽くノックした。返事がない。もう一度ノックして、鍵が開いていることに気付く。
まさか、女の子の独り暮らしに何か良からぬ事態が起きたのだろうか。ヘティは悪い想像に身震いした。
そして、居ても立ってもいられなくなって、ごくりと唾を飲み込んで扉を開けた。
「ルー…?」
そっと覗いた隙間から、質素なテーブルと丸椅子が見える。その奥には簡単なお湯くらいは沸かせそうな調理台、それから、右側にベッドの脚が見えた。無事に寝ているなら、このままそっと扉を閉めて待とう、そう決めて恐る恐る開いていくと、急に扉がギイッと嫌な音をたてた。
がばっとベッドの上の人物が起き上がる。
「…」
「…」
目があった瞬間、双方無言だった。
「…る、ルー?」
ヘティの声が、裏返る。そのことに自分で驚いて、後ずさった足がもつれた。
よろけて尻餅をついた彼女に、寝台の上、菫色の瞳が呆れたように細められた。
「ヘティ…」
見なかったふりをするという手だって、あった。
そもそも過剰な心配をして覗き込まないべきだった。
それなのに、ヘティはこうして座り込んだまま、まだ呆けたようにルーを見つめている。正確には、そのほの白い体を。いつもあるはずの膨らみが無い、その空間を。
ルーが、ため息をついた。
「…本当、馬鹿なヘティ」
ルーは、女の子ではなかった。
図らずも秘密を知ってしまったヘティは、大声で叫ぶ前に、扉を閉めに来たルーの手で引き起こされた。
今は丸椅子に座らされている。
ヘティの気持ちを表現するなら、まさしくがく然だった。
ルーの秘密を、知ってしまったのだ。しかも、ぶしつけに押し掛けるという行為によって。
秘密の共有は、親友の仲を深めるお決まりのイベントとして、ヘティもいつかはと夢見ていた。けれど、決してこんな形ではなかった。
半裸で寝ていたルーは、とりあえずヘティが叫び出さないのを見てとると、彼女の前で胸に晒しを巻き始めた。途中までいくと、そこで水風船のようなものを挟み込む。
「前にこきつかわれてた孤児院の女院長が愛用してた詰め物、うんざりしてたから、飛び出すときに失敬したんだ。こんなもん無くしたなんて、誰にも言えないだろ?」
ヘティの視線に気付いたルーが、言う。その口調も、突き放すような笑いかたも、今までヘティが見てきたルーとはまるで違う。
「信じられない…本当に、あのルーなの?」
「『あのルー』は全部嘘だよ。そういう訳で、お揃いの下着は着らんないから」
さらりとそう言った彼の体には、きれいな二つの膨らみが出来ている。見た目はいつものルーに近づきつつある分、ヘティの頭は混乱する。
「ぜ、全部って、本当に全部?」
もはやヘティの求めたお姉様の根本が崩れたというのに、藁にもすがりたい気持ちが、そんなことを言わせる。
ルーは案の定、呆れた。
「だから。俺は本当は男だし、あんたの思っているような性格じゃないし」
ヘティの口が空気を求めてはくっと開く。
「年も17じゃないよ、本当は15」
なんと年下か、とヘティの口がさらに開いた。
それを見て、へらりとルーは笑う。スカートを穿き、髪を結わえて、もうすっかりいつもの格好で。
「幻滅した?」
へティは目を見開いたあと、首を振った。いくら驚いて混乱して、憧れの根本から覆されても、生まれて初めてできた友人に昨日の今日で幻滅することは出来なかった。
横にきっぱりと二度振って、口を閉じた彼女だったが、ルーはさらに言ったのだ。
「黙ってなんていなくてもいいよ」
このときもまた、ルーは笑っていた。
「明日にも出て行けばいいだけだからさ」
へティの釣り気味の目が、しっぽを踏まれた猫のそれより丸くなる。
ヘティは、これでもかというほど驚いて、同時に猛烈に腹を立てた。
こんなに腹を立てたことは、生まれてからなかったというくらい。いつも真っ白な顔を燃えるように赤くして、へティは怒鳴った。
「私を何だと思ってるの!」
へティの血管は今にも切れそうだった。
「おい、声」
声が大きい、と咎めるルーの声にも反応せずに叫ぶ。
「貴方の秘密を人に言いふらすようなそんな人間だっていうの?!ルーの友人を名乗っておいて、そんなことをすると本気で思ったわけ?!」
「おい、静かに」
ドンドン、と重たいノックが響いた。
はっとしたように表情を改めたルーが、はいと応えると、扉が開いた。
現れたのは、昨日のベンだった。
「よお、朝早くから悪いな。もう起きてるはずだって親父から聞いたから、来ちまった」
彼もまた、八百屋の仕事が忙しくなる前にと来たらしい。それは勿論、ルーの答えを聞くためで、その答えによっては、さっさと次の候補に話をするためだろう。
そんなことは、させない。そうしてルーが平気でこのまま姿を消してしまうなんて、絶対にさせない。
いまだ興奮状態のヘティは、ベンに向き直った。そしてすっと息を吸いこんで、叫んだ。
「ルーが、やります!ルーしかいません!」
「ちょっ」
「おお、嬢ちゃんもそう思うか?」
「さっき、ルーもやろうかなって言ってましたから!」
「おお!」
呆気にとられて一瞬言葉を無くしたルーの前で、ベンはパンっと手を叩いて扉へ向かう。
「よしきた手続きしてくる!ヘティ、ルーの気が変わらないように捕まえとけ!」
「ちょっと?え?!放してよへティ!」
「じゃあな、手続きしちまうからな!」
「はい!」
ヘティがルーの代わりに返事をしたときには、もうベンの広い背中は扉の向こうへ消えていた。
「おい!」
ルーが叫んでヘティを振り払ったときには、あの巨体でどんなに機敏に動いたのか、階段を軋ませる音すら聞こえなくなっていた。
「お前、なにしてくれてんの?なに考えてんだよ?!」
噛みつくような口調にも、ヘティはなぜか動じなかった。いつもなら震えて逃げ出すそれを、真っ向から見返して言う。
「ルーがこのままいなくなるってことだよ」
「はあ?」
だんだん、視界がぼやけてくる。ヘティの瞬きが増えていく。
「ルーは、私にばれたから、出ていくって言ったでしょ。そんなの駄目だよ」
「なに勝手なこと言って」
「そんなの、嫌だし、ルーも本当に消えたいわけじゃないでしょ?ここは他よりずっと住みやすいって、言ってたじゃない」
ヘティは目に涙を溜めて、訴えた。
「急に消えたら、もう戻って来れないよ。おじさんやおばさんにも、会えなくなっちゃうよ。そんな居なくなり方、駄目だよ」
ぽろぽろこぼれる涙は、頬から顎まで伝って、薄い胸元に引っ掛かりもせず、床に落ちる。
ポタリ、ポタリと。
その小さな音だけがしばらく響いて、その中で二人は向かい合った。
ふいに、ルーが、すっと床へと目をそらした。
「嘘がつけないだなんて、よくいうよ。とんでもない口からでまかせ言ってくれちゃって」
指摘されて、ヘティは真っ赤になってうつむいた。
怒りに任せて、生まれて初めてついた嘘は、見事にベンを騙してしまった。ルーを引き留めるための行動だ、後悔はしていない。けれども、嘘をついたというその事実が今さら、体の内側をじりじりと焦がした。
恥ずかしさと後ろめたさに項垂れてもだえていると、はあとルーがため息をつくのが聞こえた。
ちろりと顔を見れば、彼女…彼が、仏頂面でこちらをにらんでいる。
「…もう一人の推薦、あんたにしてもらうようにベンに頼むからな」
へティは文字通り飛び上がった。
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次から、第二章に入ります。