馬鹿なヘティ、再び12
何となく、ルーたちと一緒に食堂に行きたくなかった。
あの空間で、ルーとアイーダの様子を見るのは精神衛生上よろしくないと、考えないようにしながらも考えていた。
婚約したことになってから、友人たちの過保護なほどの心配が、若干収まっている。ルーを避けるようなヘティの態度についても、彼らは照れているのだとかんちがいしているようだった。そっとしておかれるのを幸い、ヘティは食事の時間をずらした。
それで時間をずらしたら、次は一緒にいきづらくなった。
──逃げてばかりいる。
ヘティは自分の不甲斐なさに肩を落とした。
ルーがやっと帰ってきたのに、婚約したのに、ヘティがルーから逃げているなんて、なんて馬鹿馬鹿しい。そう自分を叱ってみるのだが、足がいうことを聞かないのだ。
この朝も、食堂には行かずにとぼとぼ歩いていると、気づけば裏庭まで来ていた。
柵越しに魔法省の堅牢な建物を見上げる。石造りのそれは、学校より白っぽいためか、こんな朝にはとても冷たげに見える。
ヘティは、ぶるりと震えた指先に、ほう、と白い息を吹き掛けた。
そこへ。
「ヘティ·ブラントじゃないか?珍しいな」
慣れない人に話しかけられれば、途端にヘティの顔はこわばる。けれども、先程までの名残で赤い頬ややや潤んだ瞳はその緊張さえ小鹿の怯えのように見せる。
「こんなところでどうしたんだ?」
よく見れば見覚えがあった。少し前から、魔力制御の訓練が始まっていた。この青年とは、その週に2回の訓練の中で、何度か顔を会わせた。
ヘティは戸惑いつつも、丁寧に頭を下げて、なんとか答えた。
「あの、別に目的はないのですが…少し頭を冷やしたくて…」
「そうか。ならば、もうこちらにくれば良い」
この申し出が親切なのか、訓練の成果がでないのだからもっと頑張れという意味なのか、ヘティには読み取れなかった。ただ、お陰で今朝はこれ以上ルーと会わずにすむと思った。
訓練は魔法省の特別な部屋で行われているが、日によって担当者が変わる。皆魔法省の人間らしいが、値踏みするような者もいれば、馬鹿にしたような態度の者もいた。中には親切そうな者もいたが、それはほぼシンシアたちに要注意だと忠告された人物だった。
だいぶ通いなれてしまった無機質な白い壁の訓練室に入りながら、ヘティは友人の言葉を思い出した。
『訓練中は魔道具を外すように言われるでしょうけど、いい?絶対に、ファレル殿下のネックレスは、部屋のなかに置いておくのよ。それで、何かされそうになったら、とにかく大声で助けてと叫ぶこと。訓練室は防音だけど、それさえあれば聞こえるはずだから』
年下の友人たちは、皆自分のことのように、本気で気にかけてくれる。貴族が、わざわざ自分になどちょっかいをかけてくるはずがないとと思いつつもヘティはその心配が嬉しくて、微笑んだ。
『ほら、そんなふうに笑うから』
『ヘティの開花は良いことだけど、でも、今は危険なのに』
ヘティはそのとき、どういうことなのか聞き返した。けれど、顔を見合わせた彼女たちは、なんでもないわと言葉を濁したのだ。
──みんな、はぐらかしてばかり。昨日も、決死の覚悟で尋ねたのに、ルーは…
そこまで考えてしまって、ヘティは力いっぱい頭を振った。
婚約は、した。
その直前にやさしく触れたものが唇であることも、さすがに分かった。それが恋人の行為であることも、もう理解している。
けれど、考えれば考えるほど、状況はちぐはぐだ。何がどうおかしいとは説明できないが、ルーは何か隠しているし、友人たちもそうだ。そんな中でのあれこれは、親愛の末でもましてや恋情の末でもないように思えた。そして、ルーの目的は他にあるのではないかとすら思えてきた。何故なら、前にも同じことを、彼はしていたのだから。
「さっそく上の空だな」
「っ申し訳ありませんっ」
くすりと笑われてはっとしたヘティは、慌てて頭を下げた。
「いいよ。頭を冷やしたいというのを連れてきたんだから」
幸い、相手は怒っていないらしい。
思えばこうして早めに訓練をつけてくれているところからして、彼はいい人だった。ヘティは、魔法省にもいい人はいるのだと改めて感動した。
「何かあったなら、話してごらん。それが精神鍛練にもなるだろうから」
いつものヘティであれば、ここで何でもありませんと口をつぐんできた。余計な個人情報は与えない、というのがシンシアの教えだったし、相手は要注意、と教えられた相手だったからだ。
けれど、ヘティはこのとき、それを無視したい気持ちになっていた。
「…本当に、下らないことなのですが」
「いいよ。聞かせて」
「男の方は、他の女性との関係を聞かれたくないものなのでしょうか」
「やましいことがあれば、そうなるんじゃないかな?何か、そういうことがあったんだね」
「やましいこと…」
「ああ、浮気を誤魔化すために怒ったり、優しくしたりというのはよく聞くね」
「あの、驚かせて、誤魔化すというのも、あるでしょうか」
「あると思うよ」
やっぱり、とヘティは黙りこんだ。
そんな彼女の肩へ、そっと手が回される。
「顔色が悪いよ?少し休んだ方がいいな。さあ、こっちへ」
ぼんやりしたヘティは促されるまま隣の小部屋に座らされた。
「そのベンダント、重たそうだね。外してあげよう」
ヘティははっとした。両手で胸を抑える。外してはいけないと言ったシンシアの真面目な顔が浮かんだ。…何故いけないかは詳しく教えてくれなかったけれど。
それでも、体は反射的に握りこんだ。
「あ、その…大切なものなので、外したくないのです」
「…そう」
心配そうに眉を下げられ、ヘティの罪悪感が疼いた。相手がすぐに退いてくれたことも、警戒したことを申し訳なく思わせた。
それから本当に少しだけ休憩をした後、たんたんと魔力制御の訓練をした。
日が天頂に達する頃まで悲しい絵を見ながらや嫌なことを言われながら魔力を一定に保って放出し続け、ヘティはくたくたになった。
「ああ、ヘティ」
とぼとぼと部屋を出ようとすると、男に呼び止められた。
「何でしょうか」
「今日、そうとう疲れただろう君に、ご褒美をあげよう」
握らされたのは手のひらほどのすべすべとした白い陶器で、小さな蓋がついていた。
「それには水に感応性の高い魔力がつまっているんだ。君、イメージが下手な訳ではないから、その魔力を使えばお湯が出せるよ」
「本当ですか?!」
ヘティはぱっと顔をあげた。
「うん、ほら、この蓋を少しだけ開けて」
彼は使い方まで説明してくれる。
ヘティは、嬉しくて思わず満面の笑みを浮かべた。何しろ、お湯が出せれば、自力で湯あみができる。ルーの負担にならなくて済む。顔を合わせずに、済む。
「ありがとうございます、ええと」
「クロードでいいよ」
「クロード様」
貴族にも、優しい人はいるのだと、ヘティは思った。
このクロードは、翌日も訓練を担当した。彼は心の安定こそ魔力の安定と言ってヘティの様子を気にしてくれたので、ヘティはもやもやを吐き出すことで、そのたびほんの少し心が凪いだ。
──ルーに会っても逃げてしまうようじゃ失礼だし、しばらく会わないのが良いのかもしれない。
ヘティは、そう考えていた。
しかし数日後、ヘティはパメラに怒られることになった。




