初めての友人7
「ありがとうお兄さん!またどうぞ」
買いにきたオレンジが売り切れていたことに不機嫌だったはずの男が、にこやかに片手を挙げて去っていく。
「ルーは、本当に誰にでも気さくだね…あの人、オレンジの倍の値段の果物買って上機嫌で帰ったし。すごすぎるよ」
目を輝かせて言ったへティに、ルーは薄く笑った。
その、冷めたような目にへティは戸惑いを覚えた。そういえば、いつかもルーはこんな目をしていた気がしたのだ。それはなんの話をしていたときだったろうか。
へティが頭の中でとりとめもなく考えている間に、ルーは手近な野菜の向きを整えながら、ぼそりと呟いた。
「嘘が上手いだけ」
嘘などついていないだろう、客を惹き付けたのはルーの笑顔と話術なのだから。それなのに、ルーは否定したきり頬を赤らめもしない。だから、ヘティは両手を握りしめて言い張った。
「嘘が上手だなんて、それこそ憧れる。私なんて、まともに嘘がつけたことすらないから」
本当のことだ。嘘をつこうなどと思うだけでやたらと緊張して、結局口を開かずじまいという体たらくなのだ。
そう力説するへティに、やがてルーは毒気をぬかれたように呆れた顔になった。
「・・・あんたって、変わってるね」
それからふっと笑った彼女の顔は、いつもの溌剌とした笑顔とは違っていたけれど、それとはまた別の魅力があり、へティはぼけっと見とれてしまった。
そこで、ルーが往来に目をやったのでへティもはっとして振り返った。
「よお、ヘティも来てたのか」
やってきたのはへティもよく知っている男だった。宿屋に肉を卸してくれているのだ。
だから、彼女がぺこりとお辞儀だけして何も言わないことも気にした様子はなかった。少し前まで母親のスカートの陰から出てこなかったのを知っていたからだろう。
商工会のベンは、八百屋の看板娘ルーに切り出した。
「新しい領主代行様が下働きの女の子を二人欲しいっていうんでさ、その一人にお前さんを推薦したいと思うんだ」
いかに下働きの女中が重労働だろうと、伯爵家で勤めたとなれば庶民の娘にとって滅多にない釣書だ。
「最低2ヶ月だけでも続けてくれれば、こっちも助かるし、お前さんはどこへ出しても恥ずかしくない経歴と結構な給金が貰える。いい話だろ」
熱心に説明するベンに、隣で聞いていたヘティまで興奮してしまった。
さすがは敬愛するお姉様だ。誰もが憧れる職場へ推薦が舞い込んでくるのだから。最短でも2ヶ月住み込みで会えなくなるのはものすごく淋しいけれど、そこは我慢だ。お手紙を書いたら受け取ってくれるだろうかと、早くもヘティは新たな友情を妄想した。
しかし、当然一も二もなく頷くかと思いきや、ルーの答えはこうだった。
「もったいないお話ですが、断らせてください」
ぽかんとしたへティの前で、一拍驚きから立ち直ったベンが食い下がった。
「何でだ?ここの親父なら、お前さんの好きにすればいいといってくれたし、さっきも言ったが、すごくいい話だぞ」
ヘティも隅っこで深く頷いたのだが。
「私には、勤まらないと思いますし」
微笑みつつもルーは固辞したのだ。
彼女の様子に、ベンははがっかりした様子で薄くなった頭を撫で上げた。
「まあ、突然だからな。…店主ともよく相談して、明日また返事をくれよ」
そう言い残して、ベンは一度引き上げていった。
残されたヘティが向き直ると、ルーは軽く肩を竦めた。
「…どうして?」
立ち入ったことかもしれないと思いつつ、こらえきれずに訊ねるヘティに、ルーは言った。
「だから、無理だって。お屋敷に住み込みなんて」
「そんな」
ヘティが否定しかけたとき、ぬっと店先に大きな影が差した。
言いかけていた言葉は、喉の奥に張り付いてひっと悲鳴のような音になる。
「おい、今日はもうあがっていいぞ」
八百屋の親父が姿を表したのだ。
大きな体にのった髭面という熊のような風貌を見上げたまま、ヘティは硬直した。
対するルーは恐れるどころかぱっと顔を明るくした。
「ありがとうございます!じゃ、ヘティももう今日は戻んなよ」
そう言ってひらひらと手を振って、頼みの綱のルーは、店の裏手へと消えていってしまったのだ。
熊親父を押し退けてまでルーを引き留めるだけの胆力を、誰が持てるだろう。少なくとも、怖がりなヘティには到底無理な話だった。
とぼとぼと家へ帰りながら、ヘティは考える。
ルーはなぜ、せっかくの誘いを断ったのだろうかと。
元々、彼女は一人で働きに出てくるような自立した子だ。だから、怖じ気づくという状況は想像出来ない。考えられるのは、店主への遠慮だろう。
もったいない、とヘティはため息をついた。
この街の同世代で、ルーほど仕事の出来る娘はいないだろう。それに、手入れした美ではないけれども、整った容姿も回転の早い頭も、貴族のお屋敷で働くのにはぴったりに思えた。
可愛いだけなら他にもいるかもしれない、賢いだけなら、それもだ。しかし、総合的に見て、ルーを差し置いてお屋敷で働くべき人間をヘティは思い付かない。多少の欲目も入っているかもしれないが、ヘティはその結論にきりりと顔をあげた。
やっぱり駄目だ。納得いかない。
この日この時、ヘティは物心ついて以来初めて、堂々と大路を歩いた。
まっすぐに前を見据える真剣な眼差しと紅潮した頬をした少女は、銀髪をなびかせて歩く。
その姿に、ある者は何事かと、ある者は何者かと、次々と振り返ったのだった。