貴女に捧ぐ初めての嘘3
「私にも分かるように、説明してくれるかしら?」
遅れてきた奥方の言葉が、ほんの少しだけへティの頭を冷やした。
彼女の紫色の瞳にはなにか鎮静効果があるのだろうかと、へティは場違いなことを思う。
勧められるまま、おずおずと椅子に座った。隣には、ぐったりとして何もかもどうでもよくなったようなルーが、座った。
燃え落ちたお仕着せの代わりに旅の間使っていた侍従の格好をした彼は、へティと目が合うと、うんざりしたように目をそらした。
そのことに少し胸がずきんといったが、我慢した。
彼が腹をたてているのも、無理はないから。だって、へティはルーに命懸けで救われた上、一人で罪を被ろうという彼の懸命の努力を、真っ向から叩き壊したのだから。…後悔は全くしていないけれど。
先ほどまで、へティは、ルーが連れていかれた部屋の隣で治療を受けていた。
そこにとんでもない会話が聞こえてきたのは、手の治療を終えて髪を切り始めた辺りだった。不意に、魔法のように鮮明に、隣の部屋の声が耳に届いて、へティはびっくりした。
奥方も同様だったようで、一瞬手が止まったが、彼女はすぐに小さくファレルねと呟いて、また無心に鋏を操った。
集中しているのか奥方は無言だったから、しょきしょきと髪が切れる音以外、へティが会話を聞くのを邪魔するものはなかった。
それで、ルーが自分だけ罪を被ろうとしていることを知り、しかも追放なんて言葉を聞いたものだから、居ても立っても居られずに、奥方が鋏を置くより早く飛び込んでしまったのだ。
「へティはさっき、自分が貴方を連れてきたと言っていたけれど、本当なの?」
小さく首をかしげて、奥方は紫の瞳でじっとルーを見つめた。
その優しげな視線と、両側の男達からの彼女を待たせるなという無言の圧力に促されて、ルーは声だけはわりと素直に、語った。
「適当に言いくるめて、こいつにそう思わせたんです。俺はもともと育ちが悪いですから、人をだますのなんか、なんでもないんで」
違う、とへティは思った。
「嘘です」
反射的に口を挟むと、奥方がしいっと人差し指を立てた。
「へティ、まずはルーに聞いてからね」
諭されて口をつぐむ。けれどそれにはかなりの忍耐が必要だった。ぐぐっと唇を噛んで堪えるへティを苦笑混じりに見てから、奥方はかすかに唇を湿らせて、言った。
「貴方が、へティを庇ってそう言っている、ともとれるのだけど」
「なんで俺がこいつを?」
はっと、ルーが鼻で笑う。
「俺は、人のことなんてどうでもいいんです」
その言葉に、なけなしの忍耐はあっさり限界を迎えた。
「ルーは人のことどうだっていいなんて思ってないくせにっ!」
その勢いは、嗜める立場の大人たちが皆飲まれるほど。へティは驚いた彼らが黙っている間に、ルーに掴みかからんばかりにして訴えた。
「ギルドのおじさんに迷惑かけたくないって、心配してたもんっ。それに、私のこと、助けてくれたもんっ。気まぐれだとしても、何度も何度も助けてくれたもん!」
「だから…。あんたはバカだから、そう思わされてたってだけだよ?」
ルーは顔を背けると馬鹿にするような口調で言った。
けれどそれは、欠片もへティの胸を傷つけないのだ。それよりも、自分を庇って悪者になろうとする彼を見ることが、へティの胸を締め付けた。
ルーは、どんな格好をしててもやっぱりルーだ。へティはじっとルーを見つめた。この人は、髪を切ろうが服が違おうが、へティの憧れた格好いい人で、嘘つきで、優しい、自慢の友達だ。
泣きたい気持ちになってくる。一度涙腺が緩みかけると、もう、駄目だった。それまでの興奮がすっとおさまって、もう何も言えないと思った。何か言わなければいけないのに。ここでルーに言い負かされては居られないのに。
へティが震えそうな唇を噛んでうつむいてしまったとき、奥方がパンパンと手を叩いた。
「もう、いいわ。どちらでも」
へティはぽかんとした。
しかしこれにはルーが反応した。
「よくありません、待ってください」
「エレノアを遮るな」
ぴしゃりと領主に言われ、ルーが思わずといった顔で口をつぐむ。奥方は呆れ顔だ。
「もう、ハロルドったら…。あのね、ルー。堂々巡りで、私たちには判断がつかないから、別のことを聞こうと思ったのよ。ルー、へティ、貴方たち、これからどうしたい?」
子どもたちはきょとんとした。
そんな彼らを見比べながら、奥方は申し訳なさそうに続ける。
「残念だけど、ハロルドは領主だから、どんな事情があろうと、偽りをしていた人間やそれを知っていて黙っていた人間をお咎め無しには出来ないの。他の使用人にも見られてしまったことだしね」
「…はい」
事情があろうと、と言われてしまえば、へティもルーも、黙るしかない。
「だから、ここで働いてもらうのは無理なのだけど…」
「はい」
それは、覚悟していた。
「それで、もう一度聞くけれど、ここを出てからどうしたい?今回は殿…ファレル様も噛んでいるようだから、余所で働きたい希望があれば、彼も口を利く気があるはずよ」
領主は妻の言葉を黙って聞いていたが、ファレルは肘掛けに頬杖をつき、にやりと唇の端を上げた。
「相変わらず甘いな」
「駄目でしょうか?」
「いや。エレノアが甘いのは別にいい。エレノアに甘い奴がいるという意味だ」
甘い奴だとからかわれた領主は一瞬眉間にシワを寄せたが、すぐに鮮やかに笑った。
「妻に甘くて何が悪い。そういうお前は何なんだ」
「へぇ。私にそれを言わせて後悔しないのか?」
どうも脱線したらしいやりとりを聞きながら、へティはその間に座る人物へ目を向けた。
奥方は、慣れているのか両側の二人を見もせず優雅にティーカップを傾けている。
その優しげで貴婦人らしい品のある佇まいとは裏腹に、彼女の焦げ茶の豊かな髪は邪魔にならないように結い上げられており、手ずからへティの髪を整えてまでくれた。そして何より、彼女の白い指は、ためらいなくルーの爛れた皮膚に伸ばされ、その傷を癒した。そんなことの出来る人は、今までへティの側にはいなかった。
この奥方、エレノア·イングラムという人物は、へティが遠目に見て想像していた姿とは、全く違っていた。もしかすると、一般的な貴婦人とも違うのかもしれない。けれど、へティは彼女を美しいと思った。
全てが特別に思えた。
特別に優しく美しくて、気高くて、力のある、大人の女性。
へティがこんな人間なら、ルーの火傷を前になすすべもなく狼狽えずにすんだし、そもそも今回の襲撃自体、起きなかっただろうに。
この人のような女性になれたら。
この人のように、ルーの怪我を癒せたら。
ああ、この人のように、なりたい。
「…奥方様のようになりたいです」
思いは無意識に口から零れた。
「私?」
小さく首をかしげた奥方を見て、へティは、冷や汗をかいた。
失礼なことを言ってしまった。平民でしがない下女のへティごときが、高位の貴族の奥方をつかまえて貴方のようになりたいなど、おこがましいにも程がある。
それで、急いで小声で付け足した。
「ルーを癒してくださった奥方様みたいに。私も、ああいうことができたらと、思って…」
「まぁ!」
上がった声は食いぎみだった。
ぱっと顔を輝かせて立ち上がった奥方に、へティはびっくりした。
「本当に?!じゃあ、私の生徒になって?」
「え、せいと?」
「嫌かしら?王都に来てもらうことになるけど、寮もあるのよ。あ、今の時期は部屋も空いているし、入寮はすぐにでも大歓迎よ。でもそうね、女の子だから、防犯面をしっかり考えないと」
奥方はとんとんと話を進めていく。彼女の中ではすでにどの部屋にへティが入るかという具体的なところまで膨らんでいるようだった。
誰も何も言わない。このまま何がなんだか分からないうちに話がすんでしまいそうで、へティは慌てて口を挟んだ。
「嫌だなんて、ただ、あの、よく分からないのですが、そんなこと、いいんでしょうか」
それでは罰にもならないし、領主様も認めないだろう、と青い目をした美貌の主をそっとうかがう。整ったその顔は、甘さなど赦さない、美しくも硬く険しい氷の化身のように見える。
ところが、その彼も、ため息混じりにこう言った。
「エレノアが望むなら、俺に異論はない。それに、治癒魔法師の修行は罰にも等しい厳しさだしな」
「へティには治癒魔法師の適性があるよ。上手くいけば、私からエレノアへの土産にしようかと思っていた位だ。滅多にいない貴族並みの魔力量に、糸のような放出量だからな。うってつけの人材だろう」
おかしなところでファレルにまで太鼓判を押されて、へティは戸惑った。
もちろん、嫌なわけではない。
嫌と言える立場でもない。
奥方のようになりたいのも、治癒魔法が使えるようになりたいのも、紛れもなく本心だ。ただ、王都だとか修行だとか、急に降ってわいたそれらにへティの想像は全く追い付かない。
あまりにも急なことだし、王都にいくということは、たった一人でルーと別にということで。ルーはどうなるのか。
そっとルーを見れば、菫色の瞳に見返された。
そこからは何の感情も読み取れなかったので、へティは不安になる。
ルーは賛成なのか、反対なのか。そもそもルー自身はどうする気なのか。
耐えきれずたずねかけたとき、領主が彼に声をかけた。
「お前はどうする」
「俺は…」
ルーは言いよどんだ。
そこへファレルがこう声をかけた。
「お前、水の魔法を使いこなせればよかったのにと思わないか?」
「え」
思わぬ方向からの言葉にルーが間の抜けた声を出すと、ファレルは見透かすように、すっと目を細めた。
「そうすれば髪を切らせなかったのにと、思わないか?」
切らせなかった、といいながらその指先を向けられて、へティはそれが自分のことだと気付く。
はっとしてルーを見ると、ばちりと目があった。
先程まで何も見てとれなかったそこに、ありありと悔しさが滲んでいた。
この髪のこととルーは関係ないはずだ。しかし否定する間もなく、ファレルがあっけらかんと続ける。
「責任を感じているだろう」
「そんなっ」
「私は」
へティの抗議は、ファレルのよく通る声に遮られた。
「お前たち二人に責任を感じないでもないぞ」
へティは思わずぽかんと口を開いた。
普段尊大なファレルが、腹立たしそうにそう言ったから。
「なかば、私の油断が招いたことだからな」
ファレルは、言い訳めいた言葉は、いっさい発しなかった。決して後悔などしなそうな、反省などとは無縁そうな男の、悔しさを隠そうともしない顔を、ルーはしばらくじっと見つめていた。
それから、ぼそりと言った。
「…魔法で、人を守れるなんて思わなかった。思いもしなかった」
「そういう訓練を、この国の庶民は受けていないからな」
ファレルは慰めるでもなく淡々と答えた。
この国では、魔法はただのライターや水道がわりだ。ほぼ全ての民が魔法を使えるといっても、庶民のそれはなんの力ももたないのが当たり前のことなのだ。
けれど、ルーは首を横に振った。
「せめて学校くらい行っていれば、ちょっとは何か出来たのかとか考えて…。そういう自分が、本当に、…」
いやだ、という掠れた呟きは、隣にいたへティの耳には届いた。
ルーは、力のない自分を悔しがっている。
けれど、実際のところ庶民の学校では、魔法の使い方など教えられない。そもそもそうした知識は、庶民が望んではいけないものなのではと、へティは思った。
なぜなら魔法使いと言われる人は貴族しか知らないから。それなのに、何故ファレルはルーに、こんなおかしなことをたずねるのだろう。奥方は、へティに治癒魔法の修行をしろなどと言うのだろう。
胸のざわめきを両手で押さえながら、へティはルーを見つめた。
「─魔法を使いこなせればよかったと思います。そうすれば、今日のことだって、今までの理不尽だって、変えられたかもしれない」
今まで不機嫌や苛立ちは見せても、悩みなどという感情は見せなかったルーが、苦しげに吐き出したから。
へティは浅い息を吐いた。
そのあとの僅かな沈黙が、へティには胸苦しかった。知らなかったルーの表情も、そこに自分が関わっていることも、全てが落ち着かない。
ルーはそれ以上喋らず、黙っていた。
口を開いたのは、領主だった。
「そうか。ならば、師について学べ」
ちょうど良い、と領主は顎で男を指し示した。
「お前に興味をもっている奴がここにいるようだ。魔法に関心があるのなら、こいつのもとで修行しろ」
指された男は、にやりと笑った。
いつも更新が遅れがちですみません。
ようやくルー側の嘘でこの章が終わります。次は王都編に入り、へティとルーも成長していく予定です。




