貴女に捧ぐ初めての嘘1
あっと思ったときには目の前に炎が迫っていた。
燃える玉のようなものが馬車を降り立ったばかりのへティに真っ直ぐに飛んでくる。
逃げられない…!!
すくんだ足はとっさに動かず、ただただへティは目を閉じた。
そして。
「っへティ!!」
肩が痛かった。
衝撃で打ち付けた背中がすごく痛くて、体が重い。
まるで押し潰されたように。
でも、それだけ。
…そんなはずはない。
へティはおかしさに気づいてはっとした。
それは瞬時に嫌な予感に変わって、急いで目を開ける。
目に映ったのは空の色。そして見慣れた金茶色と、赤。燃える炎の色。
へティはぞっとして叫んだ。
「いやぁ!ルー!!」
へティを地面に押し倒したルーのその背中が、真っ赤な炎に包まれていたのだ。
「ルーっ!」
服を燃やしたその火が髪を、肌を舐めていく。その臭いが、うめきもしないルーの惨状を告げる。
「誰か、誰か助けて!!」
答えはない。代わりに御者が慌てて水場へかけていくのと、門のそばで狂ったように笑う娘を一人、目のはしに捉える。
「あんたなんて死んじゃってよ!」
叫ぶ娘の顔には見覚えがあった。下女になってからもへティに意地悪をしてきた、ずっと苦手だったあの顔。
しかしへティはもうそちらを見もしなかった。
助けを望めないならとルーの下から這い出すので必死だった。
そして抜け出した両手で彼の背を焼く火を消そうと押さえる。
それでも一度ついた火はなかなか消えない。
「誰か、早く来て!ルーが!」
「あんたなんて、針金でっ、暗くてっ、気持ち悪いのよ!」
「ルーっ今、消すからっ」
「なのに何で私じゃなくてあんたがお屋敷勤めしてんのよ!こんな、貴族の付き人なんてっ!あんたじゃなくて私がやるべきでしょ?!」
わめき声が自分に向けられた毒だということは伝わったが、怖さは微塵も感じなかった。
そんなことよりもルーが。ルーを。
炎を抑えようとするへティの前髪も焦げる。両手に激しい痛みが走る。
「燃えちゃえ!あんたもあんたをかばうやつも皆、私の邪魔する奴は皆、燃えちゃってよ!!」
「うるさいっ!」
高らかに笑った娘の言葉に、へティは振り向きもせずに怒鳴り返した。とたんに静かになった娘をいぶかしむ余裕もなかったが、その暇もなく人の気配が近付いてきた。
「俺が火を消すっ。曲者を捕らえろ!」
「はっ!」
「ルー!へティ!」
駆け付けてきたファレルの手がルーに向けられ、クリスが瞬く間に娘を捕らえた。
「離れろへティっ」
放たれたのは大量の水。
それは過たずにルーの上で燃え盛る炎を直撃した。
じゅうっと嫌な音がして、たちのぼった熱い湯気にへティは反射的に目を閉じた。
湯気の熱さは肌を焼くようだったが、それは一瞬のうちに、ファレルの起こした風で払われた。
へティが目を開けた時には、視界を遮る煙も湯気もほぼ消し去られるところだった。
その最後の一筋の消えたあとに、ルーの姿が現れた。
「ルー…っ」
へティは、言葉を失って呟いたが、名前を呼ぶだけの自分が馬鹿みたいだと思った。
無惨に焼け落ちたメイド服の背中は赤く焼けただれている。
それでもルーは、正気を保っていた。
歯を食い縛り、痛みに堪えている。
「ルー、無理に動くな」
ファレルが、両手を地面についてなんとか起き上がろうとするルーを押し留める。そのままそこに膝をついた彼は、患部を見て眉を潜めた。
「油をかけられたか…おい、聞き出せ」
実行犯を捕まえていたクリスに、投げたものの正体を突き止めるように告げて、すぐに傷に手をかざす。
「私は専門家ではないが、繋ぎにはなるだろう」
ファレルが何をしているのかは全くわからなかったが、その真剣な顔には、声をかけることも憚られる。
へティは焦りと困惑を抱えて、せわしくファレルとルーを見比べた。
そうこうするうち、館から人が集まってきた。
そして、その人垣が割れ、領主夫妻が現れた。
「代わって下さいっ!」
「頼む」
なかば押し退けるようにしてルーのそばに陣取ったのは、奥方のエレノアだった。
その白い指先でためらうことなく焼けた背中に触れる。
「っ」
びくりとルーの体が跳ねる。
それを奥方が、見た目にそぐわぬ力強さで押さえつけた。
「痛むけど動かないで。もう少しの我慢よ」
「っぐ…!」
ルーが初めて洩らした悔しげな呻きに、へティは反射的に動いた。
「ルー!止めてっやめて下さい!」
へティはルーを庇おうとしたのだが、それをファレルに止められた。
「だってっルーが、痛がってっ」
炎に焼かれている最中でさえうめきを堪えていた彼が、声をあげて苦しんでいるのだ。見るからにひどい状態の傷を直に触られて、どれほど痛いことだろう。
何をしているにしろ見ていられない、とへティは思った。
「お願い、ひどいことしないで…!」
食い下がるへティの両肩をつかんで、ファレルは諭すように言った。
「大丈夫だ。エレノアは治癒魔法の第一人者だ」
興奮しきったへティの頭は、聞き慣れないその言葉を理解できなかった。
「ちゆ…治癒魔法?」
へティは馬鹿みたいに繰り返した。しかしそんな様子にも呆れることなく、ファレルが頷く。
「そうだ。今、ルーの火傷を魔法で治している」
魔法で治療をするなど、へティは聞いたことも見たこともなかった。だから、それと今、ルーが傷を触られていることにどうつながりがあるのかもはっきりとはわからなかった。
けれど。
「助かる、ん、ですか?」
そう思っただけで涙が溢れてきて、嗚咽が混じる。
ファレルの手がへティの頭をぽんと叩いた。
「エレノアに任せれば、ルーはきっと助かる」
「…は、はい…」
助かると、言われた。
その言葉だけを頼みに、へティは両手を胸の前で組んで待ち続けた。
「うぁっ…!」
「もう少しよ」
「ぐっぅぁ…っ」
叫びと、呻きが、断続的に響く。
集まっていた使用人が若干数を減らしたのは、それを聞くのが耐え難かったからだろう。
へティは、ちゆが治癒だと結び付いてもなお、ルーが声をあげるたび、その痛みを思って体を震わせた。
けれど、目を見開いて、じっと見つめ続けた。
若い娘には辛いだろうからと、クリスに屋敷に入っているよう勧められたのだが、彼女は頑として離れなかった。
「もう少し、もう少しだから」
祈るように、なだめるように、囁きながら、奥方がそっと手を動かしていく。
それを聞きながら、へティももう少し、もう少しで治るのだと念じる。
しんと静まり返った人々の見守るなか、へティはひたすらルーだけを見つめていた。
次第に呻き声が上がる回数が少なくなり、炎症の色味が収まっていく。
状態はひどいが、奥方の手の触れた箇所から、明らかに、考えられない速度で治っていく。魔法なのだ。水も火も見えないが、ファレルが魔法だと言っていたのに納得しつつ、心底感心した。
奥方の指の下に、やがて薄くピンク色の皮が現れたときには、あぁ…と、へティの口から安堵の声が漏れた。
そして、薄いその膜がやがて周りの皮膚と一枚につながった。
そこで、ふうと、奥方が息を吐いた。
「…これで、危険な状態は脱したわ。あとは、薬と併用でじっくり治した方がいいでしょう。起きられるかしら?」
そう言って、彼女は手を下ろした。
「はいっ。あ、あり」
「ありがとうございます」
礼を言おうとしたへティは、ルーに遮られた。
ルーはゆっくりと上体を起こして、そこから改めて頭を下げていた。
へティはファレルの腕を逃れてルーへとにじり寄る。
「ルー!良かった。ごめん、本当に、私、もう何て言ったらいいか。私の、せいで」
ルーに火傷を負わせた火は、もともとへティに向けられたものだったのだ。
自分を庇って怪我をおったルーに、へティが涙でぐちゃぐちゃの顔で謝ったのは、当然のことだった。
けれど、彼の手をとろうと伸ばされたへティの手は、振り払われた。それは冷淡なほどはっきりとした拒絶だった。
その上、彼はへティを見ることすらなくこう言った。
「別に、あんたのせいでもあんたのためでも何でもないから」
「ルー…?」
へティは困惑してルーを見つめた。
彼女には、分からなかった。
何故、庇ってくれたルーが冷たい声を出すのか。
何故、痛ましいものを見るような目でへティの焦げて縮れた髪を見るのか。
─何故、周りの大人の空気がこんなに重たいのか。
空気に重さがあることを、へティはこの日、初めて知ったのだ。
「…ルーシー·ノースウッドは下働きの娘だったはずだが」
ぼそりと呟かれた領主の言葉で、はっとする。
ひどいやけどの方に気をとられていたけれど、今、ルーの焼け落ちた服は、彼の体を隠していない。長く伸ばしていた後ろ髪も無惨に焼けてしまった。
起き上がったルーの体は、隠れ蓑を全て剥ぎ取られ、彼の性別を明確にさらしていた。集まっていた人々からおこったざわめきは、いまやはっきりとへティの耳にも届く。
「あー、まぁな。そうだったかもな」
ちらりと送られた領主の責めるような視線に、ファレルは意味の無い言葉で茶を濁した。
へティは自分が何か言わなければと、立ち上がった。何をいうのかも、どう伝えるのかも思いつかないまま。
けれどそこでぱん、と音が響いた。
その場の視線が、手を叩いた人物に集まる。
「とにかく」
ふうと、小さく息を吐き出した後、奥方はゆっくりと全員を見渡す。
「治癒魔法師として、病み上がりや治療前の子たちをこのまま外に立たせておくのは、許可できないわ」
きっぱりとしたその一言で、物言いたげだった領主も口を閉じた。
そして領主の視線ひとつで、集まっていた使用人たちは持ち場に戻され、へティたちは、無人になった場所を通って館の奥へと通された。




