初めての副業5
長い指が紙のたばをぱらぱらとめくっていく。
そのスピードは、カードゲームで遊んでいるのと同じくらいで、まるで読んでいるようには見えない。けれど、本人も部屋の主にとっても、それは遊びではなかった。
ファレルが読んでいるのは、イングラム領の鉱石についての調査報告だった。
「今週も産出量の変化はないな」
「元々は西で一番の規模だったのが、十年くらい前から減産している」
ハロルド·イングラムはため息をついて、姿勢を崩した。
その様子は、普段使用人たちの前で見せるのと別人のように寛いでいる。
「前の領主一族を追放すれば、横領分の数字が上がると思っていたが、一筋縄ではいかなかったな」
「他の勢力にとって代わられたか、そもそも領主以外が不正の大元か」
「恐らく」
全く顔色を変えない辺りは、さすがに若くして魔法界でも政界でも重要な役割を担っている実力者というところか。二人とも、その程度の利権の奪い合いは想定内だった。
鉱石は、この領地において最も重要な天然資源である。
ここは、都へも国の南側に位置する港にも、青果を卸すには遠く、かといって穀物ならばもっとよく実る土地がある。領内でとれる農産物は、大半が領内で消費され、交易の中心は鉱山でとれる資源だった。さらに言えば、この鉱山で働くために労働者が多数動くことも、経済に大きな影響を与えていた。
過去形なのは、ここしばらく、その鉱山資源に陰りが見えるからだ。陰りというより、すでに斜陽の域かもしれない。もちろん、鉱山という天然資源だのみの経済は改善する必要がある。けれど、陰りのその出方には、少なくない違和感があった。
国有数の頭脳かつ魔法省の要の一人であるハロルド·イングラムが、こうして立て直しの必要な数ある領地の中からこの地に派遣されたのは、まさにそのためであった。
「まあ、現地に行って確かめる」
ファレルが事も無げに言うのを、ハロルドが聞き咎めた。
「自分で行く気か?」
「そうだが」
「少しは立場を考えろ」
ファレルはにやにやと笑った。
「考えている。客という立場であまりこの館に長居すると、家主の嫉妬が面倒だ」
ハロルドの眉間に皺が寄った。旧知の彼に奥方との仲をからかわれることは、ある程度仕方ないとはいえ、面白いものではない。加えて、今はこの国の臣として重要な話をしているのだから、なおさらだった。
「真面目に聞け」
声を低くしたハロルドを、ファレルはどこ吹く風と受け流す。
「私はいつだって真面目だ」
「おい」
ハロルドの眉間の皺が危険領域におよびかけたところで、ファレルはさらりと話を戻した。
「何より、私が行けば、はっきりするだろう。立場をどうこう言うなら、この件をさっさと片付けて都へ戻る方が得策だ」
「…まあな」
ここはあっさりと認められた。この二人にとって、互いの実力は疑う余地のないものだったのだ。
「鉱山の現地調査は私がやるから、お前は街場の膿を出すことに専念しろ。それが女王の願いだ」
ファレルが『女王』という呼び名を出してきたので、ハロルドの唇からため息が洩れた。これは、この国の誰にとっても最強のカードであり、同時にファレルが切れば、彼がいかに本気であるかを示すものでもあったのだ。
「分かった。だが、ファレル、お前もさすがに護衛くらいつけていけ。でないと俺が女性陣から殺される」
友人の忠告に、ファレルは緑の目を少し宙に向けると、にっと唇をあげてハロルドを振り返った。
「分かった。女王のスリッパは怖くないが、私もエレノアに泣かれるのは嫌だからな」
「おい」
奥方の名前を出されて苛立ちを露にしたハロルドに、ファレルは後ろ手でひらひらと手を振った。
「ここの若いのから人を借りていくぞ」
「ちゃんとした護衛を連れていけ…って、人の話を聞け」
閉じた扉に向かって呟いた彼は、すぐに執務机に向き直った。
仕事は山ほどある。それを一刻も早く終らせるべく、彼は一分一秒も無駄にはしないのだ。こちらにきてもなぜか多忙な奥方を捕まえるために。そして、今日こそ彼女と屋敷の奥で心行くまで甘い時間を過ごすために。
「暑…」
ヘティは焼きつくような日差しに目を細めた。
季節はもうすぐ夏だ。気付けば屋敷での生活も一月半が過ぎたことになる。
カミラとの仲も良好、意地悪な上司も減って、ヘティの生活はまずまず順調…と言いたいところだ。
何故かここ数日体がだるいのはきっと気のせいだ、とヘティはそう自分に言い聞かせて、重たい頭を振った。
頭は石のようでも、両手は迷いなく水を含んで重たくなった洗濯物をロープに干していく。ここに来るまでに、日向に干す物と陰干しする物をわけてきたから、何も考えなくても慣れた体は動く。
背伸びをして大きなシーツを干しながら、ヘティは再び眩しさに目を細めた。
連日晴天続きだ。このくらいの日差しがあれば、今日も風魔法なしで余裕に乾くだろう。
そう結論付けて、最後の一枚を干したときだ。
「お前に仕事を与える」
聞き覚えのある声がした。少し尊大で、でも耳に心地よいそれが、最近よく会う人のものと似ていた気がして、ヘティは、そっと建物の角から先を覗いた。
すると、少し離れた場所に、金茶のしっぽと一緒に想像した通りの金の頭が見えた。
「…私はここで働いているので、副業はできません」
今度ははっきりと断言できる、ルーの声だった。
「案するな。私が言えば、ハロルドは了承する」
ぴくりと、ルーの肩が震えた。
その理由はすぐに分かった。というよりも、ヘティも同じ驚きを感じたところだった。
薄々感じていたことだが、この客人は今、領主を呼び捨てにした上、命令権も上らしいと示した。つまり、相当の大貴族ということだと、気づいたのだ。
しかし、そんなルーの緊張にも頓着せず、ファレルは続ける。
「それに、今は奥方が来ているから、しばらく私が館を離れるのはあいつにとっても願ったり叶ったりだしな」
そして、砕けた雰囲気を一変させて、威厳すら滲む声で彼は言う。
「お前の秘密は守る。代わりに私の供をしろ」
もとより命令されれば拒否権などないが、だめ押しのように脅し文句を使われ、ルーは少し青い顔で頷いた。
「…どこに行くんですか」
「バッフル家膝元の鉱山だ」
「鉱山…」
ファレルはそれ以上詳しいことは語らなかった。
ルーの方も、何事か考えるようにして黙りこんだままだった。けれど、ヘティはかっと胸が熱くなった。
どくどくと心臓が猛烈な勢いで打ち、今にも胸から飛び出しそうだ。
しばらくして、ルーが短く了承の意を伝えると、二人はそれぞれ去っていった。
ルーは、ファレルと行く。
バッフル鉱山という場所へ行く。
そこは、どこなのか。
近いのか遠いのか。
どれくらい、かかるのか。
残されたヘティは、両手で口と胸を抑え、その場にしゃがみこんだ。