初めてのルームメイト8
「俺、この街を出るから」
少ししゃっくりが収まって、鼻をかんでぼうっとした頭にこの言葉が届いて、へティは驚いた。
あんまりびっくりしたので、残りの涙が一気に引っ込んだ。
「な、なんで?」
ヘティのベットの足側に腰を下ろしていたルーは、両手を後ろについて体を反らすと、首を竦めた。
「だって、もう限界だろ、この状態」
この、と指されたものが何なのかは、さすがのヘティにも分かった。だから、ヘティはルーの顔から目を離せなかった。
「今ここの仕事やめていろんな人の顔に泥塗って、また親父さんの八百屋で雇ってもらえるとは思わないけど、他の街ならなんとかやれるだろうし」
ルーのすみれ色の目は、凪いでいた。
その目を見てヘティは、彼が本気でそう考えているのだと、気付いた。
その瞬間、思わずルーのシャツにしがみついた。
「うわっ!?」
「駄目!」
今度はルーが驚く番だった。のけ反ったルーにしがみつき、あまつさえのし掛かるようにして、へティは彼を止めた。
そして硬直したルーに構うことなく、そのまま続ける。
「駄目、駄目だよ、ルー。だってこの街はよそよりずっと暮らしやすいって言ってたじゃない。もう少しお屋敷勤めをしておけば、すぐ逃げ帰ったなんて誰も言わないし、あと少しだよ!」
「いや、だけどさ…」
「三月も勤めれば、大丈夫!あのね、これ本当なの。近所の小間物屋のお姉さんが、そのくらいで戻ってきたけど、むしろ礼儀作法のお勉強してきたみたいにちやほやされてたよ。それでいいとこにお嫁に行けたんだって、姉さんが言ってた」
「嫁に行くったって」
「あ、そうだね!でも、そのくらい勤めれば街に戻っても大丈夫だから。だから、頑張ろう、ね!?」
「いや…あのさぁ」
「大丈夫だよ!協力する!」
「協力って言われても、そもそも別にそこまで続けたい訳じゃぁ」
「ルーはこの町にいたいはずでしょ」
断言されて、ルーの頬がぴくりとひきつった。
「何、それ」
少しむっとした声にも、ヘティは引かなかった。
「だって、私が無理やりお屋敷勤めにねじ込んだとき、消えようと思えばいくらでも消えられたじゃない。あれからずっと私のこと怒ってたし、私が止めたから残った訳じゃないよね。それでも消えなかったのは、ここにいたい理由があったからでしょ?」
「…」
答えなかったのは、呆れ果てたと示すためか、はたまた図星だったためか。
ヘティは、握ったルーのシャツをゆっくりと離した。その代わり、さらに近づいてルーの顔を覗きこむ。
「言わなくていいよ。友だちって、大事なことなら理由を聞かなくても協力するんでしょ」
異性には近すぎる距離に、逃げ場を無くしたルーはとうとう後ろに倒れこんだ。
固いベッドが、ばすっと音をたてる。
「…あんたって、本当…」
「え?ごめん、よく聞こえない」
首をかしげたヘティに、恨めしげな目を向けながら、ルーはため息をついた。
「…もう、いい。好きにすれば」
それは、事実上の敗北宣言だった。ヘティはぱっと顔を明るくした。まだ潤んだ目で笑う彼女の顔を、ルーが目にしなかったのは、今後の生活を考えれば幸運と言えるかもしれない。
「じゃあ、ルールを決めるね」
それからの行動は、意外と迅速だった。
まず、ヘティは替えのシーツを使って手際よく着替えのためのカーテンを作り始めた。
その間にも、湯浴みのルールなどを一方的に決めていく。
「掃除は週に一人一回、掃き掃除まで。時間があれば拭くことでどう?それで、カーテンは、眠るときと、着替えのときに閉めるの。部屋で水行水するときは、交代で外に出るのでいい?あ、それから、ずっとカーテンを締め切っておくのは止めようね」
「…なんで」
ヘティは唇を尖らせて、たいそう不機嫌そうに見える顔で言った。
「だって、寂しいじゃない。私、ここに来てからルーとほとんどしゃべれなくて、はいとごめんなさい以外の言葉を忘れるかと思ったもの」
人見知りで家族以外にはやたら口下手になるヘティのこの発言に、納得したのか哀れをもよおしたのか、ルーは言い返さなかった。
『ルー』がヘティにとって特別であることは、彼にもはっきりと分かっていた。
ヘティは、今までためていた分とでも言うようにぺちゃくちゃとしゃべりながら、ぐいぐいとシーツの端に紐を通していく。
それから、ぱちんと糸を切ると、小さな明かりとりの窓の枠に紐の片側を挟み、反対側の扉の斜め上につき出していた釘にもう片側を結びつけた。爪先立ちで手を伸ばす彼女にルーは交代を申し出ることはなかった。ヘティの方が、ルーよりもほんの少しだが背が高いのだ。
何度か開け閉めして具合を確かめると、ヘティはすがすがしい顔をしてお休みと告げて、眠ってしまった。
残されたルーは、金茶の髪をがしがしとかいてため息をついた。
出来たばかりの白いカーテンが、今夜からは二人の間を隔ててくれる。それを喜ぶべきなのか、はたまたどういうわけか続くことになったこの奇妙な状況を嘆くべきなのか。
すやすやと聞こえてくる寝息だけでも、易々と布の向こうを思い起こせるのが年頃の青少年というもの。健全な想像力をもったルーは、もう一度深々とため息をついて、耳まで毛布に潜り込んだ。