初めてのルームメイト7
この翌日から、奥方が使わない部屋の封鎖や過度な歓待の禁止を言い渡したとかで、ヘティとルーの仕事はまた少し楽になった。
彼らは知らなかったが、もともとの人手不足と、人の数倍仕事の速い屋敷の主の認識不足、それから大変な分は下に任せる古参の者の体質が相まって、あり得ないほどの多忙状態になっていたのだ。主の手で目に余る使用人は少しずつ入れ換えられていたものの、到着後すぐに使用人の仕事を改善したのは、奥方が自らも侍女として働いているからだったろう。
「奥方様って、都じゃ有名な方らしいわよ」
「そうそう。女王の盾とかって呼ばれてるんだっけ」
「やっぱり、やり手で美形の貴公子は、才色兼備でコネもバッチリな貴族のお嫁さんを貰うわけよね」
例の3人組は掃除ほったらかしで噂している。その声音は、羨望半分やっかみ半分といったところか。
ヘティは、遠目に見た奥方の凛とした姿にころりとやられてしまっていたが、この話を聞き、ますます心酔し始めた。
前の領主夫人のようにごてごて飾り立ててもいないのにどこか垢抜けているし、その上女王の側で働くほどの才女ときている。彼女には、まるで物語の中の真の貴婦人が現実に現れたように思えたのだった。一目でもその焦げ茶色の滑らかな髪を、ぴんと伸びた美しい後ろ姿を見られれば、上司に怒られた悲しさも帳消しになった。
ただし、奥方のお陰で仕事が人間的な時間に終わるようになったことは、一方でヘティに大きな悩みをもたらしていた。
「何」
狭い部屋の中だ、明かりのある時間に二人人間がいれば、どうしても目がいってしまう。知らないうちにルーの栗色の髪をぼうっと眺めていたヘティは、咎めるような声にはっとした。
「え。あ、そうだ。ルーは、奥方様を見た?もうね、すっごく、お綺麗で、大人のレディって感じで」
「もう寝るから黙って」
ルーは、冷たくそう言うとくるりと壁の方を向いて寝転がってしまった。
ヘティは、小さくため息をついた。
ルーの態度は、全くもって相変わらずだった。ルーは仕事中のどうしても必要な言葉以外はほとんどヘティにかけず、部屋でも目を合わさないとり続けているのだ。
相変わらずというのは、変わらないということだ。だから、ヘティも変わらずに忙しさに目を回していれば、問題はなかったのかもしれない。けれど、人間的な生活はヘティの心に考える余裕をもたらしていたし、それに、ずっと突き放すような態度をとっていたルーが自分を庇ったという事実が、ヘティの頭の中からルーを切り離させてくれなかった。
ルーの性別は嘘だった。それでもやっぱり、それ以外の全てが嘘だとは、ヘティには思えなくなっていた。だから、気になって目で追ってしまう。そうして見ていれば、どうしたってルーが男の子だということを考えてしまう。
もう一度ため息をついて、ヘティは布団に潜り込んだ。
こんな緊張状態が、しばらく続いたある日。
「ヘティ貴女、酷い顔色よ」
同僚に指摘されてヘティはうつむいた。
とん、と指先で肩を叩かれただけなのに、彼女の体は少しふらついている。
「あ…ごめん。えっと、大丈夫」
明らかに大丈夫には見えないその様子に、相手は眉をひそめた。
「…きちんと食べてるの?もしかして、またブランカたちに仕事を押し付けられてお昼を抜いた?」
心配してくれるのは、最近やって来た新しいメイドのカミラだ。彼女が来てから、ルーは台所仕事に専念することが増えた。なにしろルーと来たら、野菜の下ごしらえの暇潰しに細工切りをしてしまうくらい器用なのだ。
彼女は、ヘティが無愛想ながらも人一倍よく働いていることに気付いて、何かと気にかけてくれる。おかげで、元来人見知りのヘティも、ここ数日でまともなコミュニケーションをとれるまでになっている。
「本当に、ちゃんと食べたよ。ありがとう、カミラ」
そう言うと、ヘティは青白い顔をほんの少し微笑ませた。とたんに人形のような印象が消え去って、彼女の黒々とした瞳が夜空のようにきらりと輝いた。
これは人前ではとても珍しいことだったので、カミラも思わずあっけにとられてしまった。その間にヘティは銀髪をなびかせてそそくさと持ち場に戻ってしまったのだが。
カミラは、遠ざかる後ろ姿を見て苦い顔をした。
「逃げられたわ。そうだ、同室の子にも一応話しておこうかしら」
こうして心労の色を濃くしたへティの話は、ルーの耳にも届けられた。もともと気づかないほど鈍感なルーではないから、その知らせは、今さらのものではあった。けれど、この辺りが限界だと決断させたのは、第三者の客観的な一言だったかもしれない。
ルーはその日、先に寝ないで待っていた。そうして、いつもならばヘティが部屋に入ると入れ替わるようにしばらく出ていくのだが、それもしなかった。
その為、ヘティは、着替えのタイミングがつかめずに、困ってルーをちらちらと見ていた。
何度目かで、おもむろにルーがこちらを見た。
「何。そんなに見て」
「あ、その、あのね」
着替えたいから、と言うのは恥ずかしい気がして、言葉につまったヘティは一人で顔を真っ赤にした。
ふっとルーの笑う声がした。
「そんなに見つめられると、妙な気分になるんだけど」
「ご、ごめん」
ヘティは慌てて目をそらしたが、ルーは許さなかった。
「女の子に涙目で見つめられたら、さあ。わかるでしょ」
「え」
立ち上がったルーが、ヘティのほうに近づいてくる。
猫のように音もなく、狭い部屋をほんの数歩で横切ると、ルーはヘティのベッドに膝をのせた。
ぎしっと、古いベッドが音をたてた。
使用人部屋のベッドは、貧弱なものだ。寝返りを打てば壁に鼻をこすれそうな狭さだから、ヘティの頭は、すでに壁にぶつかっている。
その目の前に、ルーの顔が迫ってくるのを、ヘティは目を丸くして見つめていた。
すでに壁についた腕に左右は塞がれている。
逃げ場もなく見つめるスミレ色の瞳の中では、何かが燃えるように揺れている。
頭のどこかで、警鐘がなっていた。
さすがのヘティにも、分かった。
これはまずい。
これは。
これは、これは。
今にも唇が触れそうな距離に近づいてから、ルーがしゃべった。
「ねえ…こんな場所で一緒に暮らしてるとさ」
吐息が顔に当たって、ヘティは震えた。それを妖しい微笑みを浮かべて眺めると、ルーはもう一度、楽しむようにゆっくりと、囁いた。
「我慢なんてできなくなっちゃうよ。…好きなんだ」
ヘティは目を真ん丸に見開いた。
その驚きと、拒絶のないことを了承ととってか、ルーが苦笑するようなおかしな顔で、最後の距離を無くそうとした。
その、瞬間。
「嘘つき」
固まったのは、ルーの方だった。
突然の攻撃と、急に鋭い光を放った黒い瞳に、呆気にとられたのだ。
そんなルーを目と鼻の先にしたまま、ヘティは彼の言葉を否定する。
「私が好きなんて嘘。そんなの、見てれば分かるもの」
「…は?なに、俺が嘘言ったと思ってんの?ひっでえ」
我に返ったルーが態勢を立て直そうとするが、ヘティは全く怯まなかった。
「ルーこそ酷いよ」
誤魔化すようになじったルーを逆になじり返す目尻は、怒りに赤く染まっている。
「私がルーの秘密をばらすと思ったんでしょ。なんで信じてくれないの。酷い」
そして、とうとうその目から涙が溢れて落ちた。いつも気が強そうにつり上がった猫目が情けなく目尻を下げている。
「ルー、酷いよ。私、そんなことしないのに」
「あー…」
「こんな嘘、無くたって、ばらさないのに。ちゃんと、言ったじゃない。ばらしたりしないって。それなのに、信じてなかったんだ。ひど、酷いよぉ…」
「だから…ちょっと」
「う、うえぇ…ルー酷いぃ」
「ちょっと、鼻、垂れてるし。ほら、もうさぁ」
ヘティがあまりに大泣きするものだから、いつしかルーは困った顔で宥め出していた。