初めてのルームメイト6
その日の夜のことだった。
「おい」
薄暗い厨房で食器の後始末をしていたヘティは、突然の来客に驚いて皿を割りかけた。
「また会ったな」
「あ…!」
厨房の入り口に手をかけて、背の高い男が立っていた。
その金糸の髪もエメラルドの瞳も、そう簡単に忘れられるものではない。現れたのは昼間の旅人に間違いなかった。
彼はこの屋敷の客人だったのだと、ヘティは悟る。
慌てて頭を下げれば、客はファレルと名乗った。
当主の友人だという彼は、着ている服からして明らかな貴人だ。しかし、街で会ったときは徒歩のようだったし、今は薄暗い厨房に現れた。
どういう人だろう、とヘティは不思議に思いつつも、改めて感謝を伝えなければと思いついて口を開く。
「あの」
「なんだ」
宝石のような緑色の目とばっちりと目が合ってしまった。ただでさえ人見知りのヘティは、その美しさに動転して声が出なくなってしまった。
「っ…」
呼び掛けておいて、黙りこんで、布巾を弄るだけとは、あまりにも失礼な態度だ。
前の領主に失礼を働いて町でむち打ちされた男の姿が、脳裏をよぎった。
ヘティ自身失礼だと自覚したのに、その想像にさらに喉が詰まる。加えて、自分の表情が硬く強ばり、傍目にきっと不機嫌そうに見えていることも気付いた。
どうしよう、と思った。
どうしよう。
どうしよう。
どん、と強く肩を叩かれて、ヘティははっとする。
「馬鹿!何やってんのさ」
振り向いたところに、ルーがいた。裏口から入ってきたのだろうか。
その目に苛立ちを確認するより早く、ヘティの頭は押し下げられていた。
「申し訳ありません!事情は存じ上げませんが、同僚が大変失礼を致しました」
ルーが隣で同じ高さまで頭を下げながら言う。
お前も言えとばかり足を蹴られて、ヘティも反射的に口を開いた。
「申し訳ありません、あの、昼間は本当にありがとうございましたっ!それだけ、お伝えしたくてっ」
すらりと言葉が出てきたことにヘティは自分の爪先を見ながら驚いた。
返ってきたのは快活な笑い声だった。
「いや、別に何も怒ってはいないから、そう怖がるな。顔を上げろ。あれは、十中八九明日来る奥方のためのデザートだからな。手に入らないと恐ろしい」
それを聞いて、そろそろと頭をあげつつ、ヘティは奥方様は気難しい方なのだろうか、と怯えた。しかし、そんな思考を読んだように、彼はにっと笑った。
「彼女はそういう人間ではない。恐ろしいのは愛妻を思うように歓迎出来なかった場合のハロルドの機嫌だ」
ヘティには、なんと答えていいのか分からなかった。
あの良くできた人形のようなご主人様がそんな機嫌の損ねかたをするというのは不思議で、想像が出来ない。ただ、何も返事をしないのも失礼だろうから視線を下げたまま言った。
「…仲の、良い、ご夫婦ですね」
小さな小さな声だったが、ファレルは聞き取った。
「そうだ、残念ながらな」
そして、笑いながら厨房の奥へ歩いていく。
恐る恐る目をあげると、この客は、じろじろとヘティとルーを観察するように見ていた。それから、彼は作業台の側にあった円椅子に腰掛けると、にやりと笑った。
「ふうん。面白い」
「何でしょう?」
ルーがじりっとヘティの半歩前に出た。
ファレルはさらににやにやと笑みを深めた。
「なんでもない。…ところで、お前は風の魔力が使えるだろうに、どうして布で皿を拭いている」
急に思わぬ話を振られて、ヘティはあたふたした。
「え?あ、その、え、どうしてわかるんですか?」
聞き苦しい言葉にもファレルは頓着せずにじっとヘティを、正確にはヘティの腹部を、見ている。
咎められなかったのは良いとして、その奇妙な視線に気まずさを覚えて、ヘティは布巾を胸の前で持ち直した。それでもファレルが気にした様子はなかったが。
「いや…街の中で、走る自分に追い風を吹かせていただろう」
「へ」
ヘティはぽかんと口を開けた。失礼すぎる返答にルーに足を蹴られて、慌ててまた頭だけ下げた。降ってきたのは愉快そうな声だった。
「へえ。気付いていなかったのか」
「は、はい」
ヘティは心底びっくりしていた。そんなことをしようと思ったことなんて、全くなかったのだ。そもそも、水や火とは違い風魔法は、日常生活への使い方が普及していないこともあって、ヘティも使おうと思ったことはほとんどなかった。
それでも、言われてみればしっくり来た。昔から、決して運動神経が良いわけでもないのに、本当に急いでいるときにはかなり速く走ることが出来た。何となく、追い風を背中に受けてスピードをあげる自分をイメージしていた気もする。
ファレルは、布巾を握りしめたまま目を回しかけているヘティを愉快そうに眺めて、作業台に頬杖をついた。
「無意識に使っているのは、魔力量が多い証拠だ。皿くらい、あっという間に乾くだろう」
やってみろと言われて、ヘティは戸惑った。
「ええと」
「出せるだろう。やれ」
そんなことを急に言われても、やったこともないのだ、どうすれば良いのかなど分からない。ヘティが困惑して固まったときだった。さっと栗色の髪が目の前で揺れた。
「あの」
「なんだ」
「申し訳ありません。お客様の対応はやはり我々では不相応ではないでしょうか、もっと教養ある者をつれて参ります」
ルーはやや大きな声で、言った。
口調は丁寧だが、不遜ととられても仕方のない声音だった。ヘティは焦ってルーの袖を引いたが、彼は振り返ろうともしなかった。
ファレルはというと、怒りもしない代わりに気にも止めなかった。彼は涼しい顔で言った。
「そうだな。だが、私は今、ここにいて、ここにいるお前たちに相手を望んでいる」
やはり彼は、身分のある人間なのだ。怒った様子はないが、退く気も望みが叶えられないという予想も全く見えない。ヘティはひやひやした。
「お客様は余興をお望みのようですね。後程お部屋にご用意致しますが」
かなり強引に、ルーが言う。さすがに面倒に思ったのか、ファレルの目が呆れたように細められた。
「まあ、余興というならば余興だが」
つっと、整えられた爪の先がルーを指した。
「…その、お前の格好などもな」
ヘティははっと息をのんでしまった。
『お前』と指摘された当の本人は首をかしげようとしていたのだが、傍らの彼女の反応に、バカなやつ、とばかり、ため息をついた。
怒りも笑いもせず、ファレルはそんな子どもたちの様子を見比べていた。それから、返答を促した。
「別に私はどうでもいいし言う気もないが、お前がそんな格好をしている事情をここの主は知っているのか」
「…」
ルーの格好は、この屋敷の下働きとして正しい装いで、ヘティよりも余程しっかりと着こなしている。そんなルーに『そんな格好』というからにはつまり、性別を指しているに違いなかった。
ヘティがあんな反応をしてしまった以上、何かがあるのは白状したも同然で、何を言おうと誤魔化しに聞こえてしまう。それでなのだろう、ルーは何も言わなかった。
そのまま彼は、まっすぐに顔をあげ。ファレルへ対峙している。ファレルの方も、ルーの答えを聞きたいというよりも黙らせる方が目的だったというように、それ以上追及せずにちらりとヘティを見た。
ヘティは一瞬で悟って、ギクシャクと手を挙げた。
「ああああの、それでは、私、その、挑戦してみます!」
声は裏返ったが、ちゃんと伝わった。
「そうか」
あっさりとルーから矛先をそらした貴人に、ヘティはほっとする。
もちろん、やり方などよく分からなかったが、この際失敗してもいい。
元々一介の下働きに拒否権などないのだ。その上ルーが何故か槍玉に上がってしまった状況で、最早ためらう余地もなくなった。
ヘティは、もう一度ルーをちらりと見てから、布巾を置いて手を伸ばした。
深呼吸して、唇を少し噛んだ。そうして、少し考えて手を突きだし、気休めに口にする。
「乾け~…」
ほんの少し、何か砂粒のようなものががこぼれ出していくような感じがあった。
風が沸き起こる。
手のひらの真ん中から、何かが吹き出すような感覚だった。
そよりと壁に掛けられた布巾がなびいて、すぐに揺れがおさまった。それはそよ風よりも弱々しい、扇子の一扇ぎほどの魔法だった。
何とか生じた現象にほっとして目をやれば、ファレルは不思議そうに身を乗り出していた。
「魔力量の割に、地味だな」
まるで魔力の量を知っているかのように、言う。
「すみません」
ヘティは不思議に思いつつ、謝った。
「普段から余程制限的な使い方しかしていないのか」
「そう、かもしれません。意識して使ってはいなかったので…」
きっとがっかりして興ざめしたのだろうと、ヘティは思った。しかし、それは表情からは読み取れなかった。
「その方が都合がいいか…」
顎に手を当ててそう呟くと、ファレルは立ち上がった。
「とにかく、これから毎日使っておけ」
そして、もう振り返りもせずに去っていく。
後に残された二人は、思わず顔を見合わせた。
「…なんだったんだろう?」
ヘティが共通の疑問を口にした。ヘティにすれば、お礼を改めて伝えることができて良かったとも言えるが、あちらの意図は全くもって謎だった。
対するルーは一瞬でその疑問を顔から追いやると、咎めるように彼女を見た。
「何でもいいけど、あんた何をやってんの?」
「え」
「貴族の若様にこっちから声かけて無視なんて、本当ならむち打ち覚悟だし」
「あ、ごめん」
謝ったヘティは、それから、ルーが助けに入ってきたことを思い出した。
「ありがと、ルー」
「別に、あんまり馬鹿なことしてたから突飛ばしたくなっただけ」
「うん」
素直に頷くヘティに逆にむっとしたようで、ルーは悪態をつく。
「本当、馬鹿。考えなし」
ヘティはあれ、と思った。
「でも、それならルーだって…何でもない」
ぎろっとスミレ色の目に睨まれて、ヘティは口をつぐんだ。
内心では、ルーがファレルを追い払うようなことを言った方が、ずっと危険だったと思っていたが。あれも固まっていたヘティを庇うためだったのかもしかもしれないとは、残念ながら気づかぬままだった。
不服げなへの字口で黙り混む彼女に、ルーは頭をがしがしとかいてからため息をついた。
「…ともかく、関わらない方がいい」
あちらから関わってきたらどうしたらいいのか、とヘティは考えた。
けれど、貴族の貴公子がわざわざ下働きを構うなんて気まぐれはそう何度もおきないだろう。そう結論付けて、ヘティはへの字口からたいして変わらないように見える顔を、こっくりと頷かせた。




