初めてのルームメイト4
翌朝、皺だらけのお仕着せで仕事に出たヘティが朝一番に怒られたのは、当然の帰結だった。
ただし、ありがたいことにこの日から洗濯室の担当者が変わり、あの盛大な嫌みにさらされることは避けられた。
「そんな格好で仕事をさせられないわ。御使いを頼むから、私服に着替えてその間に洗いなさい」
掃除の指導をしてくれるいつもの女性に言われて、ヘティはこの日、一週間ぶりに街へ出た。
お屋敷には、毎朝八百屋や肉屋が食材を卸しにやってくる。その日仕入れた中で、最も質のいい部分を選りすぐって持ってくるのだ。料理長はその中から必要なものを選んで、さらに最もいい部分を使って領主代行の食事を作る。そして、その残りを駆使して使用人のまかないを作る。
だから、足りない食材を買いに行くというのは、珍しい。
へティは、頼まれた食材のメモを手に、首を傾げていた。籠いっぱいの木苺、チョコレート。あの自分にも他人にも厳しい料理長が業者に頼み忘れるなんて、どうしたのだろうかと思ったのだ。
とは言え、もともと素直なヘティの足は、すでに麓の街までたどり着いていた。
「あら、針金ヘティじゃないの」
こういうときに、よりにもよって会いたくない人間に会ってしまうのは、どうしてなのだろうか。運が悪いと言いたいところだが、ヘティの場合、会いたくない人物が多すぎるせいでもある。
「なあに、さっそく首になったわけ?」
ミリアのからかうような言葉に、ヘティはなにも言えなくなってしまった。
怖そうな男の人も怖いが、何かにつけて絡んでくるミリアのことも同じくらい怖い。
毎度のことなのに、ヘティの唇はからからで、飲み込む唾も出ない。
それでもなんとか答えなくてはと、かろうじて首だけ動かして否定した。
すると、ミリアのまとう空気ががらりと変わった。
「へぇ…」
まるで気圧がそこだけ下がったようなその雰囲気に、ヘティはそれ以上、彼女と向き合っている勇気がどうしてもわかなかった。それで、ぎくしゃくと店に振り向くと、注文しようとした。
ところが。
「駄目よ。これは私が全部買うの」
ヘティが指差した木苺を、ミリアが籠ごとさっと取り上げたのだ。
ヘティは、急な行動にびっくりした。
けれども、季節の果物、運悪くミリアの家のジャム作りとタイミングが重なっても別段おかしくはない。
そう思い直して、別の八百屋に向かおうとした。けれども、
「全部ちょうだい」
次の八百屋でも、ミリアが現れてそう言った。
さっき買った分はどうしたのか、手ぶらで金を払うミリアを見て、へティは訳も分からず立ちつくした。
「残念ね、今ので全部なくなってしまったわ」
八百屋のおかみさんが、困ったように言う。
それを聞いてくすくすと笑うのは、ミリアの取り巻きだろうか。いつの間にか引きつれた同年代の女の子たちから上がった笑い声に、へティは縮こまった。
いつもなら、この時点で家に逃げ帰っている。そうして弟にお使いを代わってもらえば、ぶつぶつ言われようと用は済むのだから。
けれど、今日はそういうわけにはいかない。これはお屋敷の仕事であって、給料をもらうのは弟ではなくへティなのだから。
彼女は、強ばった顔を口元だけ何とか動かして、言葉を紡いだ。
「困るの」
もう、最初の店で役目が済んでいれば、帰路につくくらいの時間だ。これ以上遅れるわけにはいかない。
そう伝えたのに、彼女らはけらけらと笑った。
「そんなことを言ったって、もう買っちゃったんだから、仕方ないじゃない」
「でも」
振り絞った勇気は、二文字分でかき消えた。
同じ下働きのルーなら、どう話すだろうか。そう考えかけて、すぐに、ルーならそもそも周りにからかわれたり邪魔されたりするような事態に陥らない、と気づく。泣きたくなった。
ルーを真似ることは出来ないと思うと、彼女…もとい彼が、『俺の真似なんて出来るわけないじゃん。馬鹿なヘティ』とため息をつく顔が、浮かんだ。涙が、引っ込んだ。
真似なんて考えない。自分に出来ることをやるしかない。
ヘティは唇をきっと引き結んで、くるりときびすを返した。
別の八百屋まで走って、ミリアたちより先につくのだ。幸い昔から足は早かった。ミリアたちにも負けないはずだ。
「あ、逃げたわ」
「やた、見てよ、あんなに走ってみっともない」
後ろからなにか言われているのが聞こえたが、気にしてはいられない。
思わぬ展開でたどり着いた下女の仕事だが、首になるまではやるのだと、初日に決めた。それは、ひとつにはルー、もうひとつの理由は、ヘティの長年の願いのためだ。ヘティが易々と逃げ帰って首になれば、ようやく道筋が見えた願いは遠ざかり、ルーもまた秘密がばれる前にとこの街を永遠に去ってしまうだろう。
だからヘティは、ミリアたちにどう思われても、なりふり構っていられない。
走れ。急げ、根性だ。
ヘティは自分を叱咤した。
走って走って向かうのは、ついこの前までは毎日のように通っていた、ルーが働いていたあの八百屋だ。
当然ルーはここにいないから、店にはきっと熊のような店主が立っているだろう。店主は、ヘティが無理矢理ルーをお屋敷勤めに押し込んだと知っているかも知れない。
そう思うと、気が重かった。けれど、体は通いなれた道を自動的に進む。悲壮な顔で突き進む少女を何事かとたくさんの人びとが見るが、その目にも気付かないくらい思い詰めて、ヘティは走った。
店先に店主を見たとき、ヘティは息を止めた。走って酸素を求めた肺が、ぎゅっと締め付けられたように痛んだ。そして、太い眉が片方訝しげに上がるのを見て、今度は心臓が止まりかけた。
「とうした?お屋敷にいるはずだろう」
ルーの元雇い主だから、一緒に雇われたのがヘティだということも知っていたのだろう。黙ってしまったヘティを見ていた店主は、やがて彼女の手元の買い物籠に目を止めた。
「ああ、おつかいか」
ここでようやくヘティはこくこくと頷くことができた。ついでに吸い込めた空気で、必死にか細い声をあげる。
「あ、の。木苺、一籠、下さい」
「木苺か。こんなもんでいいか」
店主はガーネットのように真っ赤に熟れた木苺を取り上げると、毛むくじゃらの手から想像もつかない丁寧な手つきでヘティの籠にそれを入れた。
「これで…」
「待て」
代金を払ってそそくさと帰ろうとしたヘティは、唸るような低い声に呼びとめられて飛び上がった。
「ルーはかわりなくやっているか」
「は、はい」
縮こまるヘティを見下ろして、彼は熊のような顔を迷うように少し掻いた。
「あいつが、もし困っていたら…」
途切れた言葉の続きを、ヘティは息を殺して待った。
しかし、店主は結局、首を振ってしまった。
「いや、何でもない…ほら、叱られない内に早いとこ戻れ」
それは確かにその通りだったので、ヘティは小さくお辞儀をすると、跳ねるようにその場を離れた。
あとはチョコレートだけ、とメモを確かめて、嫌な予感に教われる。指定された銘柄のチョコレートを売っているのは、街でただ一ヶ所、ミリアとさっき一緒にいた女の子の家だったのだ。
「ちょっとあんたには売れないわ」
くすくすと笑いながら言われて、ヘティはため息さえ出なかった。
予想通りだ。
「困るの。私用じゃなくて、おつかいなの。お屋敷の」
ヘティにしては驚異的な長さで訴えたが、相手はにっこりと笑う。
「困るわよね、おつかいも満足に出来ない下働きなんていないものね」
嫌われ者の針金ヘティなど首になってしまえ、という意味だろう。ヘティは、自分が悔しかった。
店内には目を凝らしても他の店員は居らず、このタイミングの悪さにヘティは途方にくれた。
もうすぐ日が真上に昇る。さすがにそれまでに帰らなければ、さぼっていたと思われても何も言えない。
それでも、さすがに大人が来れば、お屋敷のお使いに物を売らないなどということは通さないだろう。一刻も早く誰か別の店員がくることを祈って、ヘティはからかいの視線に耐えながらじっとそこに立ち続けた。
そこへ、ふいに影が指した。
店員か、と期待を込めて振り返ったヘティは、がっかりした。明らかに旅人の格好をした、この辺りで見かけない雰囲気の男だったからだ。客が来たのだからと仕方なくレジの前を譲ると、彼は翠の目を細めて微笑んだ。
「それをあるだけくれないか?」
そう言って彼が指差したのは、ヘティが買いたかったチョコレートだ。あっと声をあげかけた彼女の前で、愛想のいい店員に早変わりした娘が作り声で言う。
「え?!ええ、もちろんですわ」
ハートでも飛びそうな口調だが、その目は客に見惚れる合間にもちらりとヘティを嘲笑った。そうしてこれ見よがしに保冷用の魔法までかけてから袋に詰める。
ヘティはそれを、絶望的な気持ちで見ていた。
売れてしまえばもう打つ手はない。
「ありがとう」
旅人は、ヘティの前で代金を支払った。
差し出されたごわごわした茶色の紙袋の方へ、全くそぐわない長いきれいな指が、すっとのびる。
ああ、とうとう受け取ってしまった、とヘティは身体中の空気をはき出した。ここまで精一杯気を張ってきた分、風船がしぼんだように力が抜けてしまった。忘れていた涙も戻ってきた。
だから、旅人がくるりと自分の方を向いたことにも気付かなかった。
「ほら、受け取れ」
「え?!」
叫んだのは、店員の娘だった。
ヘティはというと、掛けられた声にようやく意識が戻って、ぼけっと目の前に突き出された紙袋を見下ろした。
「買いたかったのだろう。さっさと取れ」
ヘティは唖然として旅人を見上げた。
綺麗な緑色の目が、じっとヘティを見ている。間違いなく、ヘティに言っているようだ。
その目は少し焦れているようで、口調も横柄ではあったが、ヘティの耳が確かならば、彼は買い占めたばかりの品物をヘティにくれると言っている。
「要らないのか?」
金糸の頭が不満げに傾き、紙袋が引っ込められかけた。
「いえ、要りますっ」
思わずヘティは両手を差し出した。
すると、彼はチョコレートの包みを丸ごと渡してくれた。
「あ、お代を…」
「要らない」
旅人は首を振って歩き出してしまう。
「あの、でも、」
ヘティは、紙幣を掴んだまま彼を追いかけた。
すると、彼は肩越しにちらりと振り返ってにやりと笑った。品の良い顔に似合わない笑い方だった。
「宿主の機嫌を維持したかっただけだからな」
ヘティには、全くもって意味が分からなかった。
けれど、受け取ってくれる気がないことは分かった。
もうすぐ日が昇る。とりあえずヘティは、深く深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
振り返らなかった旅人の姿は、すでにだいぶ離れている。
もう一度だけその背中に頭を下げて、ヘティは全速力で屋敷までの道をかけ戻った。